わたしが故郷のワカバタウンから旅立ってどれくらい経つだろうか。
夏の茹だるような暑さは当の昔に過ぎ去って、夜には涼しい風と一緒に虫ポケモンの鳴き声が聞こえるようになったから、半年くらい家に帰ってないのかな。

パートナーのチコリータは今ではベイリーフになって、仲間も増えた。
幼なじみのヒビキくんはとんでもないスピードでジムを制覇していって、最後に連絡を取った時にはタンバシティにいると言っていたから、多分もうフスベにでも行ったんじゃないだろうか。


「元気にしてるかなあ…」
「誰がだい?」
「マツバさん」


エンジュの趣ある庭を縁側から眺めながら物思いに耽っていたわたしに声をかけたのは、このお屋敷の主人でジムリーダーのマツバさんだ。上品な紫の着流し姿のマツバさんはそこら辺の女の人より綺麗に微笑みながらわたしの隣に腰掛けた。


「足の具合はどう?」
「まだ一人で立ったり座ったりするのは難しいです」
「そっか」
「ご迷惑おかけして、すみません」
「そんなことは気にしなくていいんだよ。名前ちゃんは怪我を治すことだけ考えて」


寧ろ僕はもっと頼って欲しいくらいさ。と笑うマツバさんにますます申し訳なくなって、借り物の浴衣を皺にならないように掴んだ。


そもそも何でわたしがマツバさんのお屋敷でお世話になっているのかというと、このギブスでがちがちに固定された右足に原因がある。



エンジュジムをクリアした後、急ぐ用事もなかったわたしはのんびりエンジュの街を観光していた。
観光スポットである舞妓さんの舞台やすずのとう、甘味屋さんを回ってから昔伝説のポケモンが降り立ったと謂われているやけたとうに足を踏み入れて、所々抜け落ちた床に注意しながら薄暗い中を歩き回っていた時だった。

みしり、と嫌な音を立てて床が抜け落ちたのは。

咄嗟にベイリーフをモンスターボールに戻したその時のわたしを褒め称えたいが、それで反応が遅れ受け身も取れずに真っ逆さまに落ちてしまったのだ。
足に激痛が走り、これはマズいと頭の中で警鐘が鳴る。ポケギアで助けを呼ぼうと思ったけど、真っ二つに割れた機械の残骸が散らばっていてすぐに駄目だとわかった。
痛みに耐えながら腰に手を伸ばしたが、あるはずのボールは衝撃で手の届かない場所に落ちていた。
そこまで行ける気がしなくて、絶望と経験したことのない痛みに文字通り目の前が真っ暗になった。


わたしが次に目を覚ました時に見たものは、真っ白な病室と心配げに眉を寄せたマツバさん。


「ジムにハンカチが落ちていたから、君のものだと思ってね。急いで追いかけたんだけど、間に合わなくてごめんね」


何でもわたしが足を踏み入れた場所は焼け落ち老朽化が進んだせいで床が抜けやすくなっていた為、立ち入り禁止の立て札があったらしい。でも記憶を手繰り寄せてもそんなもの無かったと零すと、マツバさんは神妙な面持ちで「もしかしたらゴースの悪戯かもしれない」と呟いた。

ゴースはちょっとした悪戯のつもりだったんだろうが、もしわたしがハンカチを落とさなかったら、マツバさんに気付かれなかったら、わたしはまだあそこにいたのかもしれない。そう思うとぞっとして、頭を下げるマツバさんに慌てて感謝の意を述べて頭を上げてもらった。
ジムリーダーなんだから忙しい筈なのに、わざわざハンカチを届けに来てくれて、しかも病室まで運んでくれたんだ。


「マツバさんは命の恩人です」


わたしが真剣に言った言葉を大袈裟だと笑って返したマツバさんが伝説級のポケモンに見えた。


それからマツバさんのその足じゃ旅は危険だから家においで、というお言葉に甘える形で療養生活を送っている。
両親にはマツバさんから連絡を入れてくれたらしく、つい先日高そうなお菓子とわたしを心配する手紙が届いた。
ポケギアは高価なものだし、マツバさんがお屋敷の黒電話(初めて本物を見た)を貸してくれるから暫く買う予定はない。それに、ヒビキくん達の番号を覚えていないから、どっちにしろ電話は出来ないのだ。


淹れたての緑茶とお茶菓子を用意してくれたマツバさんが、もう一度同じ質問を繰り返したからお茶菓子に伸ばした手を止めて答える。


「友達のことです。暫く連絡を取っていないから、元気かなあって」
「……そっか、友達も旅をしてるんだよね」
「はい、すごく強い子だからもうリーグに挑戦してるかも」


お饅頭を一口かじると、あんこの程よい甘さが口一杯に広がった。平和だなあ。こんなに良くしてもらって、悪いなあと思うけどわたしが口に出すより先に「僕がしたくてしてるんだから気にしないの」と釘を刺されてしまうから何も言えなくなってしまう。流石千里眼の持ち主と言うべきか、それともわたしが顔に出やすいのか。


「そんなに強い子なら、きっと元気にしてるさ」
「そう…ですよね」

強いから、心配なんだよね。ロケット団とバトルした話も聞いたし、無茶なことしてなきゃいいんだけど、なあ。


「名前ちゃん」


お饅頭を持つ手と反対側の手をそっと握られて、思わず肩が跳ねる。マツバさんの方を見ると、柔らかい笑みでわたしを見つめる眼差しとかち合った。

「名前ちゃんがそんな顔してたら、僕も悲しくなっちゃうよ」
「…わたし、そんなにわかりやすいですか?」
「とってもね」

肩を竦めるマツバさんに、ちょっとだけ力が抜けた。本当に、マツバさんはすごいなあ。
握られた手を引かれても抵抗する気なんてないから、あっという間にマツバさんの胸に抱き寄せられる。規則正しく脈打つ心音と、お香のような匂いに安心して、恐る恐る背中に手を伸ばすと、マツバさんの腕に力が籠もった。


「…ずっと足が治らなければいいのにな」


耳元で囁かれた言葉に嫌な意味でどきりとさせられたけど、すぐに「冗談だよ」とくすくす笑う声が聞こえてきてすぐにからかわれたのだとわかった。

「〜〜マツバさんのばか!」
「ふふ、ごめんね。……でも、そうしたら名前ちゃんとずっと一緒にいられるでしょ」


蜜のような甘さを含んだ声が、頭に響いて離れない。


「僕ばっかり骨抜きなのは、堪らないからさ」


再び視界を紫に染められたわたしは、その時マツバさんがどんな表情をしていたのか、知らない。