飼っていたポチエナが居なくなって一週間が過ぎた。

怪我をしていたポチエナは、自力で歩くことも食べることもできない程に弱っていて、一人で生きて行くことが難しい状態と言われていた。そのポチエナを一時的に保護し、元気になって野生へ帰れるようになるまで面倒を見るつもりでいたのだが、手当をしたことで懐いてしまったポチエナは野生に帰ろうともせず、私の後を着いて回っていた。その姿を見て、無理矢理野生へ戻すようなこともできず、また同じような目に遭ってしまったら大変だということから、ポチエナを飼う目的で家へ迎えた。

可愛がっていたポチエナはある日、突然姿を消してしまった。餌を残したまま、家の中から忽然と。ベランダの窓が開いていたため、そこから居なくなってしまったのだろう。

「野生に返っちゃったのかなー」
「そうだと思うよ」
「一人で生きていけるのかなあの子」
「もともと野生だったし」
「可愛がってたのになぁ」
「はいはい、お喋りは終わり。できたよ」

目の前のテーブルにコトン、と置かれた夕食を見つめて私の眉間には数本の皺が寄った。それから半ば呆れた溜息を吐いて、料理を振る舞ってくれた張本人に向かって不満げに口を開いた。

「ねえ、ダイゴさん。またこれ?」

するとダイゴは私と同じように眉間に皺を寄せて不満げな表情を見せた。その表情は『せっかく作ってあげたのに』とか『文句言うくらいなら自分で作れ』というのがひしひしと伝わってきた。

「我侭言わないの」

そう言われてしまっては言い返す言葉も見当たらない。私は黙って、スプーンで料理を掻きあげた。どろりとスプーンから落ちて行く其の姿は一見食欲を失うもの。そもそも毎日こんなものを食べさせられてしまえば当たり前のように食欲も湧かなくなってしまう。

目の前に置かれている料理はビーフシチューだった。野菜とお肉のたっぷり乗っかった、シチューやカレーに次ぐ定番料理というものだろうか。始めは美味しく頂いていたのだが、今は溜息しか出て来ない。何故こうも毎日この料理が出るのかと言えば、きっと私が彼が初めて振る舞ってくれた料理に向かって「おいしい。私これ好きかもしれない」と言ったからだと思う。それがビーフシチュー。本音を言ってしまえば人が折角振る舞ってくれた料理に文句等言えるはずもなく、定番ではあったが半ばお世辞混じりにあのようなことを言ったのだ。ダイゴは勘のいい人だから、それに気付いて嫌がらせをしているのだろうか。

「ダイゴは食べないの?」
「ごめんね。来る前に食べてきた」
「そうなの。ごめんね、作ってもらって」
「大丈夫」

ダイゴは忙しい人で、よくホウエン中を飛び回っている。カナズミシティやトクサネシティを渡っていたり、友人に会いにルネシティに行ったり趣味のために流星の滝に行ったり。会える日の少ない中、時間を割いてまで私に会いに来てくれているダイゴは疲れているだろうに。
先程文句を言ってしまったことに申し訳なさを覚えて、テーブルを挟んで座ったダイゴに向かってもう一度「ごめんね」と謝った。「気にしなくていいよ」と苦笑の混じった返事が聞こえて来て、ほっと安堵の息を吐いてスプーンに乗ったビーフシチューを口に運んだ。おいしい。

「…ねぇ」
「ん?」
「おいしい?」
「とっても」

私が笑うと、ダイゴも笑った。

一口、二口と口に運んで料理を味わいながらちらりとダイゴの方を見ると、ダイゴと視線がぶつかった。恥ずかしくなって、照れ隠しのようにもう一口、口に含んでみた。それでも私の元に感じられる視線は隠すことができなくて、もう一度ダイゴの方を見つめるとまた視線がぶつかった。それはつまり、ダイゴは私のことをじっと見つめているということ。ただ食べているだけの姿を見つめ続けられると流石に恥ずかしく食べ辛いとも感じてしまって私は顔を上げた。

「あのさ」
「なんだい」
「さっきから何見てるの」
「美味しそうに食べてるなって思って」
「は、恥ずかしいの」

多分、今の私は顔が赤いのだろう。
誤魔化すように顔をふいっと背けると、何かが私の頬に当たった。


「名前」


名前を呼ばれて、その場所を中心に身体がどんどん熱くなっていくのを感じた。頬に宛てがわれたのはダイゴの手で、愛撫するように厭らしく親指で私の唇を撫で回すのだ。あっ、と声が漏れてしまって、薄く開いた唇が割られた。口の中にダイゴの親指が忍び込み、ぐちゅぐちゅと口内で遊び始める。

「んふ…っ、ぁう」
「やらしい声」
「っ…ふぁ、は、」

腕の力が抜けて、手に持っていたスプーンがガチャンと地面に叩き付けられた。其の音は嫌に大きく聞こえて、肩を震わせているとダイゴの指がそっと引き抜かれた。じゅるっと水の音が聞こえて、ぼうっとした頭を抱えながらダイゴを見ると、濡れた親指を嬉しそうに口に運んでいた。その姿が厭らしいものと思えてきて、もう一度赤らんでくる顔を誤魔化すように地面に落ちたスプーンを拾おうとした。
ガガッ、と椅子の引き摺られる音と落ちたスプーンに指が触れた時に、ダイゴの口から言葉が漏れた。



「イヌの味がするね」



意味がわからなかった。
私の動きはその言葉のせいで一時停止した。この人は一体何を言っているのだろうか。
それが理解出来ていないのに、何故だかぞっとしてしまった。変な汗が顳かみから流れて、口の中に溜まった唾液をごくりと飲んで、ゆっくりと身体を元の位置に戻しながら私は問いかけた。

「どういう意味?」
「そのままだよ」
「…意味が、」
「おいしかったんでしょ、それ」


飼っていたポチエナが居なくなって一週間が経っていた。
可愛がっていたポチエナはモンスターボールに入れることなくごく普通のペットのように飼っていて、だからいつ野生に返ってしまってもおかしく無い状況だった。しかしよく考えてみると、あのポチエナは私が窓を開けっ放しの状態で外出しても、いつも尻尾を振りながら私の帰りを待っていてくれた。「野生に返ってもいいんだよ」と言うといつも首を振って私と共に生活する事を選んでくれていた。そのくらい私に懐いてくれていた子が、忽然と姿を消すはずが無いのだ。

あれ、なんだかおかしい。

ダイゴはニヒルに笑いながら私の言葉を遮り、また私の方へと腕を伸ばしていた。


「ねぇ、ダイゴ?」


伸びた手が私の頬に触れた。
私は其れを受け入れながら、ダイゴを真っ直ぐ見つめて問いかけた。
何故だろうか、身体が震えている。

「ポチエナ、どこ……?」
「さあ?野生にでも返ったんじゃない」
「うそ!うそ、うそ、うそだよ」
「ねぇ名前」

興奮してしまった私を、ダイゴの低い声が宥めた。

「嘘だって分かってるのに、なんで訊くの?」
「ダイゴ、ねえ、嘘でしょ、?」
「本当は分かってるくせに、なんで聞きたがるの?」
「うそ、うそだよ…だって、だって、」
「おいしかった?」
「やめてよ!」
「さっきは美味しいって言ってたのに。……いや、さっきだけじゃないか。“一週間も”言い続けてきたのに」
「やだやだやだやだ」


「腹が立つんだよね」


ぴたりと、お互いの動きが静止した。
ダイゴの顔は苛立の表情に犯されていた。いつもそんな顔しないのに、いつものダイゴはにこにこ笑っていて、嫌なことがあっても疲れていても優しい表情を絶やさなかったのに。私の瞳が捕らえるダイゴの姿は何か悪いものに取り憑かれたようにおぞましい表情をしていた。

こわい、こわい、こわい。

この恐怖は、いろんな怖さがまとまったものだ。居なくなったポチエナの行方のこととか、ダイゴの見た事の無い姿だとか、この先のことだとか。


「もう、今日で終わりだね?」


私の身体は硬直してしまって、静かに私の頬を撫で回すダイゴの腕を素直に受け入れていた。
先程までの、いつもと変わらないダイゴとの会話や生活、それから甘い雰囲気。急に私の精神を痛めつけるような言動、彼は何がしたいのだろうか。
そしてまた、いつものように優しくなったダイゴの声、その言葉は一体何を意味しているのだろうか。

「あのね、名前。僕はね」

頬に触れていた手が落ちる。
首筋を伝い、肩と二の腕をなぞり、力無い私の腕を優しく掴み上げた。


「君さえ居てくれればいいんだ。他には何も要らない。君の傍に居るのは僕だけでいいんだ。だって、他のものはあったって何も意味がないだろう?いらないものは全部、僕が消してあげるんだから」


握られた左手の薬指に、輪っかが嵌った。キラキラと光る其れは、女性なら誰でも待ち望むもの。きっと、普通ならば心の底から喜び、涙し、必死に頷くものなのだ。
私には、涙しか流れなかった。

「ねえ、結婚しよう」
「いや…」
「嫌だなんて言わせないよ。嬉しいだろう?。一生“ふたりだけで”生きていこうよ」

ダイゴの腕に力が籠められた。握られた腕が今にも折れてしまいそうなくらいに痛い。
痛いと眉を顰めるとダイゴは嬉しそうに笑った。
イエスと答えなければ離してくれないダイゴの腕、私には拒否する権利など無いのだ。涙を流しながらそっと頷くとダイゴは笑いながら言った。


「名前、もっと喜んでよ。それじゃあまるで、感情を無くした兎みたいだよ」


ポチエナが居なくなって一週間。ダイゴの作ったビーフシチューを食べ続けて一週間。
シンクの中に置かれた、空っぽになった鍋の中に蛇口から零れた水滴が落ちた。