06
それは、遠い遠い昔の話。
「買い忘れ無し、と」
夏の終わり、日の入りが早まってきたと気付きだす頃。夕焼けの橙色に染まる道の端っこで、手提げ袋の中身と買い物用の紙を見比べて、ひとり呟く。生活に必要なもの、九重さんに頼まれた食材、今度蝶屋敷へ行くときの手土産などなど。色々と放り込まれた袋のなかをざっと整えて肩に背負い直し、足を進めた。横を通りすぎていく女性、男性、お年寄り、小さな子ども、赤子を抱えた母親。平和の象徴である街並みの真ん中で笑い声を上げながら、飲食店へ入っていく少年たち。すっごい楽しそうだなぁ。呑気に思って、彼らが入っていった店の外観へ目をやった。
「…あ」
見覚えのある赤い看板に足が止まり、記憶が巡る。そこは、ちょうど一年ほど前に無一郎くんと共に訪れた、定食屋だった。品数が多くて味も良いという理由で九重さんがお勧めしてくれたお店。確かこのとき、無一郎くんはおむらいすを知らなかったから、私のを分けたんだっけ。少し驚いたような表情で「美味しい」と言いながら咀嚼していた姿を思い出す。…向こうでも、美味しいもの、食べてるかな。
「………。」
体の奥でぶわりと膨らむ虚しさに、息が止まりそうなる。こんな道中で定食屋を眺めて涙を流すなんて、ただの不審者だ。そうなるわけにはいかないので、必死で堪えて帰路についた。下瞼で留まっていた涙は、玄関扉を開ける頃にはなんとか引っ込んでくれていたけれど、気を抜いたら全て流れ出てしまいそうなくらいには、私の心は悲しみに暮れていた。今日はちょっと、駄目な日らしい。
「…今日ね、あの定食屋さんの前を通ったよ」
夕食と湯浴みを終えてから、金色の仏壇と向き合う。彼が私の隣からいなくなって以来、就寝前にその日の出来事を報告することが日課になっていた。時に笑い、時に泣き。後者のほうが圧倒的に多くて、やるせなくなるときもある。でも、空の向こうにいる愛しいひととの繋がりが無くなるのが嫌で、どんなに疲れていてもどんなに悲しくても、必ず、向き合うようにしている。
「おむらいす、美味しかったよね」
初めて食べる西洋の料理に目を瞬かせていた姿が懐かしい。美味しかったよね。他にも、美味しいものってたくさんあるんだよ。かれーらいすとか、さんどいっちとか。私は食べたことないけど、とうがらしとかいうすっごく辛い食べ物もあるんだって。もし無一郎くんが生きていたら、一緒にいろんなものを食べて、一緒に目を丸くすることができたのかな。鬼のいない、平和になったこの世界で、笑い合いながら、生きていくことができたのかな。
「……無一郎、くん…っ、」
我慢していた涙が、膝の上にあった握り拳に落ちた。ぽたぽたと静かに流れてくるそれを、私は拭わずにいた。いくら拭っても、止まることは無いとわかっていたからだった。
戦いが終わった日から、私は毎晩、涙を流している。まるで赤子の習慣のように、毎晩。それから、彼が最期に紡いだ「約束」を想いながら、涙と共に眠りにつく。翌朝、目を覚まして、仏壇に挨拶をしてから、生きるために、朝食を食べる。これが今の私の一日だ。寂しくないと言ったら嘘になるし、たまに、生きていることがどうしようもなく虚しくなるときもある。それでも、残った命を無駄にしないように、毎日を生きている。
"必ずまた会える"という希望を胸に留めて、ずっと無一郎くんを想って、生きている。
▽▽▽
何度、涙を流しただろう。何度、会いたいと願っただろう。全てが終わってから、楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。そのたびに、「ここにあなたが居たら」と、考えた。毎日、あなたを想って泣いてから眠りについていた。苦しかった。悲しかった。寂しかった。でも、また私を見つけてくれると、あなたは言ってくれたから。絶対にまた会えると、約束をしてくれたから。私は、私の人生を生き抜くことができたんだよ。無一郎くん。
「やっと…、っ、見つけた…!歩…!!」
「むい、ち、ろう…、くん…、!」
目の前に在る翡翠色は、間違いなく、本物だった。鬼殺隊の柱、時透無一郎。十四歳という異例の年齢で"柱"という高位に君臨し、冷静沈着ながらも仲間のために命を惜しまない、どこまでも強く、凛々しく、美しかった戦士。大好きで、大切で、ずっと一緒に居たい、会いたいと願っていた、私にとって唯一無二の、想い人。彼の最後の姿を、よく覚えている。格上の相手に死ぬ物狂いで喰らい付き、どんなに痛めつけられようとも、命の尽きるその瞬間まで戦い抜いた。そして、十四年という短い人生に幕を下ろし、天国へと旅立っていった。
私の目線より高い場所にある翡翠色の瞳が揺れている。私と同じくらいだった身長は、少し高くなっていた。それでも、何も変わらない。男の子にしては大きな瞳も、長い黒髪も、綺麗な肌も、全部が無一郎くんのままだ。
「無一郎、くん…、無一郎くん…、」
人の目なんて気にしている場合じゃなかった。何年ぶりか、と考えることすら気が遠くなるほどの時を越えて、大好きだった無一郎くんが目の前に居る。その現実が信じられなくて、でも、夢ではなくて。思わずその肌へ手を伸ばす。両手で包んだ頬は、確かに、温かった。
「っ…、無一郎、くん、だぁ…!」
体温と同じような生温い涙が流れ出てくる。夢じゃなく、ちゃんと目の前に居る無一郎くんをしっかりと見たいのに、視界が滲んでしまってまともに見れやしない。でも涙を拭うためにその手を離すことすらしたくなかった。無一郎くんが生きてここにいるということを、感じていたかった。
「歩っ…!」
「っ、!」
がばり。そんな効果音だったと思う。温かな体温に包まれて、反動で手が離れてしまった。もはや痛みすら感じそうなほどの強い抱擁と、耳元に広がる、震えた音。
「会いたかった…、歩…!!」
「……!!」
無一郎くんらしからぬ、涙を誘うような声に、また涙腺が壊れてしまう。私も会いたかった。ずっとずっと、会いたかったよ。話したいこと、たくさんあるんだよ。無一郎くん、無一郎くん。想いを込めて抱き返そうとした、ところで。体に刺さっている妙な違和感に気が付いた。刺さると言っても物理的なものではなく、感覚的に何かが降りかかっているような、そんな違和感に顔を上げる。
「………あ"」
血の気が引く、って、こういうことを言うのだろう。OL、サラリーマン、学生、お年寄りなどなど、周囲からの視線に、背中の後ろを冷たいものがサァッと流れて、私の頭は一気に平静を取り戻した。そりゃあそうだ。こんな信号の真下で男女が泣きながら抱き合っているなんて、目立って当たり前だ。文句のひとつも言えない。しかもそれが無一郎くんと美女ならまだしも、私なんてどこにでもいるただのアラサー社会人。しかも激務終わりで疲れ切っている顔ときたもんだ。そんなの、誰だって凝視してしまうと思う。お目汚し、本当に申し訳ありません。ごめんなさい。
「と、とりあえず、移動しよ、無一郎くん…!ここ目立つよ…!」
「…あ」
「あっち行こう、あっち…!」
抱擁が緩んだ隙に無一郎くんの手を引いて、ひとまずアパートまでの道のりを進み始めた。一刻も早く周囲の視線から逃れるためにいつもより速く進む。しばらくして視線も感じなくなり、人もまばらになってきた頃、道中にある自販機の傍で足を止めた。中途半端に速く足を進めたからか、私も無一郎くんも息が切れてしまっている。ヒールで来なくて正解だった。
「ごめんね、なんか変なかんじになっちゃって…」
「ううん、僕も嬉しくて周りが見えてなかった。歩が気付いてくれて助かったよ、ありがとう」
「そんなそんな…」
とりあえずひと段落、といった雰囲気だけれど、繋いだ手が離れていく様子はない。それどころか、ぎゅ、と強く握り返されて、言葉が出なくなった。
「…歩、」
「でさぁー!アイツさぁ!!」
「「っ、!」」
私の名前を紡いだ優しい響きは、曲がり角から現れた女性二人組の声にかき消された。その女性たちはお酒を飲んで出来上がっているのか、私たちには目もくれずに横を通り過ぎていく。危ない危ない。また二人の世界に入ってしまうところだったけれど、まだここは外だ。僅かに残った理性を繋ぎ留め、繋がれた手の先を辿る。無一郎くんはその大きな瞳を僅かに伏せて、呟いた。
「……ゆっくり、話したい…」
「…うん。私も。でも、どこにしよっか…」
話したい、というのは私も同じ気持ちだけれど、内容が内容だ。外で話していたらきっと、隣の席のひとが聞き耳を立てそうな会話になるだろう。それに見る限り、無一郎くんは。チラリと、本人に気付かれないよう、さりげなく彼の身なりを再確認する。白い半袖のシャツに、黒いスラックスパンツと有名ブランドのローファー。誰がどう見ても制服だ。つまり、今の無一郎くんは"学生"。一方で私は、アラサーの"社会人"。学生と、社会人、加えて今の時間帯。そこまで考えると、ますます場所は限られる。
ファーストフードは話を盗み聞きされそうなので却下。ファミレスは知り合いがいそうなので却下。カラオケは聞いてる人はいないものの、犯罪感が拭えないので却下。そのほかに、誰にも見られない、聞かれない、となると。そこまで考えて出た答えに、これは一周回ってマズいのでは?と思ったけれども、これ以上に良い場所が思いつかない。やましいことをするわけではないので大丈夫だと自分に言い聞かせながら、出た結論を口にした。
「…うち来る?」
「………え?」
「あ、ほら、えっと、一人暮らしだから…、聞いてるひといないほうが話しやすいかなと、思って…」
「…そっか、確かに」
私の誘いに無一郎くんは目を見開いたものの、すぐに納得した様子を見せてくれた。それから顎に手をあてて少し考える仕草をしてから、スマホを取り出した。
「ちょっと電話してもいい?」
「あ、うん…」
するりと手が離され、少しの距離が開く。背を向けた無一郎くんはスマホを軽く操作してから耳にあてた。電子機器を操作する一連の動作すらも格好良くて、見惚れてしまう。
「もしもし?母さん?」
「!」
衝撃的単語から始まった通話。盗み聞きするのは良くないので、離れていた距離を更に少し開けてから、スマホを引っ張り出して時刻を確認した。まだ九時は回っていない。学生の補導時間は確か十一時だ。それでもさすがに十時くらいまでには帰さないと、ご両親が心配するだろう。重要事項を話したらすぐに帰さないと。無一郎くんの家の場所によっては、タクシーを呼んでおいたほうがいいかもしれない。
「おまたせ」
「!」
ネットを開いてタクシー会社を検索しようとしていたところで、無一郎くんも通話を終えたらしく、こちらに戻ってきた。なんだか清々しいような表情を浮かべているのは気のせいだろうか。
「大丈夫そう…?」
「うん、全然平気。歩の家どこ?」
「あ…、ご案内します!」
「なにそれ」
▽▽▽
暑い。
最近夜も暑いよねぇ。
冷房かけたまま寝ちゃって喉やられた。
うわ、あるあるだね。
アパートまでの道中はこんな話ばかりで、深い会話というものはなかった。でも私たちの手はしっかりと繋がれたままで、無一郎くんはちゃんと私の隣に居てくれているということがわかって、どうしようもなく幸せな気持ちになっていた。
私が住んでいるアパートは、駅から遠くない場所にある。スーパーがすぐそばにあり、部屋も1LDK、鉄筋鉄骨で騒音トラブルも皆無という素晴らしい物件だ。ついでに言うと家賃がそれなりにするけれど、職場が家賃補助制度を導入してくれているので、約半分ほどの家賃で借りることが出来ている。こればかりは院長に感謝するしかない。
「こちらの二階になります」
「はい」
ホテルの案内人のように指先を揃えてアパートを示すと、無一郎くんは小さく笑いながら、同じようにご丁寧に返事をして、階段を上がった。廊下を進み、部屋の前に辿り着き。そこで、私はようやっと重要なことに気が付いた。
「あ"!!」
「え?」
「ちょ、ちょっと待ってて!一分!」
制止の合図である手のひらを無一郎くんの眼前に出し、返事を受け取る前に鍵を開けて飛び込んだ。一目散に窓際へ向かい、物干し竿に掛かっていた洗濯物を、これまでにない速度で取り外す。引っ張って取り込めるタイプのハンガーで良かったと、ここまで思ったことはない。下着が掛かっていないことを再度確認してから、衣類を抱えて寝室へ走る。その勢いのままそれらをベッドに放り投げ、薄掛けで隠してから扉を閉めた。ついでに脱衣所の扉も閉めて、最終チェックとしてリビングを見回す。週末に掃除をしたので綺麗、のはずだ。準備完了!
「おまたせ!どうぞ!」
「お邪魔します」
玄関を開け、廊下で待ちぼうけをくらっていた無一郎くんを招き入れる。脱いだ靴をきちんと揃える様に、成長を感じてしまった。昔の彼は、脱いだ草履も放ったままだったから。狭い玄関に私のパンプスと無一郎くんのローファーが並んでいる景色が見慣れなくて、でも、妙に嬉しくて。ふわふわする気持ちのまま、リビングへ続く扉を開ける。
「わあ」
私の後ろを大人しくついてきて、リビングへと足を踏み入れた無一郎くんが物珍しそうな声を上げた。
「広いね」
「いやー、普通にワンルームでも良かったんだけどね。1L使うほど物があるわけじゃないし」
「わんえる?」
「あ、1LDK。リビングとダイニングキッチンに、プラスで一部屋ってこと。向こうが寝室なんだ。汚いから覗いちゃ駄目だよ」
「へぇ…」
「はい、ここで手洗ってね。無一郎くん、なに飲む?」
脱衣所は掃除が行き届いていないので見られるわけにはいかない。キッチンで手を洗いながら、無一郎くんにもここで手を洗うように示し、自分用のマグカップと来客用のグラスを取り出す。
「何がある?」
「麦茶とコーヒーとカフェオレとー、玄米茶と、紅茶。ストレート」
「じゃあ…、麦茶。喉渇いた」
「あはは、そうだよね。たくさんどうぞ」
最近お気に入りの麦茶のペットボトルを冷蔵庫から取り出し、透明なグラスへ注いでいく。夏らしさを感じる薄茶が波打つ間も、近くには無一郎くんの気配があった。
「無一郎くん、麦茶持ってくから適当に座ってていい、っ…」
よ。最後の一文字は紡がれることがなかった。背後から掛かる無一郎くんの匂いと、体温。あの日と変わらない、滑らかな長い黒髪が首元に触れている。お腹の前に回っていた無一郎くんの腕の力が強くなって、背中と、彼の体が密着する。隙間なんて、最初から無かったみたいに。
「……会いたかった…、歩…」
「っ…」
鼓膜を揺らす言葉が、無一郎くんへの想いを増幅させる。また壊れそうな涙腺を止める理由は無い。ここには私と無一郎くんしかいないのだから。お腹にある硬い腕を無理矢理解き、回れ右をして向き合った。何度見ても、間違いなく現実である翡翠色の瞳に、涙がぶわりと溢れ出す。
「わだじも"あ"いだがっだぁぁぁ!!」
「うわぁ」
誰もいない、見ていない、聞いていないことをいいことに、私は子どものように声を上げた。無一郎くんが若干引いたような表情をしているけれども気にしていられない。
だって、寂しかったんだ。
無一郎くんが隣からいなくなってから、屋敷でその姿を見ることが無くなってから、寂しくて堪らなかった。鬼のいなくなった世界で美味しいものを食べるたびに、無一郎くんが居たら、と考えて、毎晩涙を流して眠っていた。無一郎くんを失ってから、自分の人生の幕が下りるまで、無一郎くんを思い出さなかった日なんて無い。それくらい、寂しかった。
それが、どうだろう。今、目の前にいて、喋ることが出来ている。触れることが出来ている。最後の瞬間、今際の際で交わした約束のとおり、私を見つけてくれた。また、会うことが出来た。こんな嬉しいことがあるだろうか。
「無一郎くんんんん…!!」
「わ、っ…」
あの頃より幾分か高くなったその首に手を回して、真正面から思い切り抱き着いた。無一郎くんの匂いと、少しの汗の匂い。鼻腔を通る香りに、愛しさが募っていく。無一郎くんに恋をして、手を取り合って、隣で過ごした日々が蘇る。
「見つけて、くれて…っ、約束、守ってくれて…、ありがとぉ…!!!」
あんまり泣いたら、ただでさえ崩れていた化粧が更に落ちてしまうし、無一郎くんの制服も汚れてしまう。そんな懸念も忘れて、私はその体に縋りつくように、抱擁する力を強くした。腰のあたりに体温が触れて、優しく滑る。自分と同じ、鼻を啜る音が頭上から聞こえた。
「覚えててくれて…、ありがとう…、歩…!!」
「っ…、無一郎、くん…!!うっ、うわぁぁぁん!!」
もうこれ以上くっつくことが出来ないのはわかっているのに、それでも一刻も離れたくなくて、私たちは強く抱きしめ合った。二人で一緒に、子どものように泣いた。遠い昔、隣で笑い合っていた幸せだった日々を、想いながら。