04
"歩"
「っ、!」
いつも以上に鮮明に聞こえた音が意識を覚醒させた。霞んだ視界に映る薄暗い室内と、頬を滑る涙の感触。手のひらで触れなくたってわかる。自分がまた、泣いて目を覚ましたことくらい。ベッドの隅に転がっていたスマホに触れて表示された数字は、アラームが鳴り響く一時間も前の時刻を示していた。
「……うー…」
脳の片隅にあるような鈍い痛みに頭を抱える。首の後ろや腕なども、汗でベタついていた。暑さのせいだろうか。タイマーで切れていた冷房を付け、足早に風呂場へ向かう。シャワーから勢いよく飛び出したぬるま湯が汗や涙を洗い流してくれて、幾分かすっきりした。今日は月曜日だ。世の中の半分は憂鬱な気分になるであろう五日間の日常の始まり。切り替えなければ。
「………。」
タオルで体を拭きながら、夢のなかで私を呼び続けている誰かを思う。姿形もわからないそのひとは、どうして私を呼び続けているのだろう。どうしていつも、夢に出てくるのだろう。そして、どうして私はその夢を見るたびに涙を流してしまうのだろう。脳裏には、「歩」と、今までになく鮮明に聞こえた音が、ずっと残っていた。
▽▽▽
「ハシゴの旅というと…、あの番組ですか?」
「そうなんですよぉ!すごくないですか!?」
自他共に切り替えが早いことが取り柄の私は、職場が昼休憩を迎える頃にはすっかりいつもの調子を取り戻していた。昼食を囲むテーブルの向かいで微笑んでいるのは、この病院の副院長である胡蝶しのぶさんだ。誰もが見惚れるほどの美貌と細い体、加えて理不尽な患者と正々堂々戦える度胸までをも持ち合わせている、私の憧れのひとである。
「そのモデルさんなら私も知っていますよ。この間までドラマに出ていましたよね?」
「そうですそうです!もうね、めっちゃ手足長かったよね、成子ちゃん!」
「すごかったです、同じ人間じゃなかった」
「では来週、テレビデビューということですね」
「そうなんです、しかもゴールデンタイム!やばい!恥ずかしいけど楽しみ!見てくださいね!」
「先輩結構うまいこと喋ってたし承諾書書かされたんで絶対使われますよ。カレンダーに書いとこ」
目立つことがあまり好きではない成子ちゃんもさすがに嬉しかったようで、軽い足取りで休憩室のカレンダーと向き合った。小さな四角い枠に収まるように書かれた、「歩先輩と長谷部、地上波デビュー」という予告。しのぶさんが「予約録画必須ですね」と、口元を抑えて上品に微笑む。私も、両親に連絡しなきゃと張り切っていた。だというのに、現実というものは非常に無慈悲なもので。そういう日に限って、激務というのはやってくるのである。
「はぁぁぁぁぁぁぁ…!!」
例の番組の放送日。退勤ラッシュを過ぎたことでいつもより幾分か空いていた電車から降り立ち、大きすぎる溜息をひとつ。ホームに設置されている時計が示す時刻は、既に二十時を回っていた。あの番組は十九時から始まり、私たちが取材を受けたコーナーは前半に放送すると言っていたから、もう終了している頃だろう。
行儀が悪いと思いつつも、改札口へ向かいながらチラリとスマホを確認する。メッセージアプリの通知が多く表示されていて、そのほとんどが母からのものだった。「すっごい出てるじゃん!」「見てる!?」「録画してあるよ!」。どうやら母はリアルタイムで見ることができたようだ。なんて羨ましいことだろう。返信する気力は申し訳ないけれど無かったので、そっとボタンを押して鞄へ突っ込んだ。
一緒に映る予定だった成子ちゃんは、体調を崩したとのことで急遽欠勤していた。それにより人員がひとりマイナスの状態で稼働することになり、加えて夏風邪が流行り始めていることもあって患者も多く、激務となったわけだ。
そんな成子ちゃんも、寝込んでいたから見逃したと、先程の通知のなかに連絡が入っていた。こればかりは仕方がない。ひとりで見るのも寂しいし、成子ちゃんが罪悪感にでも暮れていたら申し訳ないので、今度の休みに一緒に録画を見ようと誘ってみよう。ひとまず今は、一刻も早く家に帰ってシャワーを浴びたい。
「はぁ…」
改札を出て、重い足をなんとか動かして階段を下りた。横断歩道がチカチカと点滅していたけれど走る気力なんて勿論無いので潔く停止。この横断歩道を渡った先、アパートまでの道中にはコンビニがある。夕飯を作る力なんて勿論残っていなかったので、コンビニで済ませようかとも思ったけれど、食べるものを選んでレジに並ぶ、ということさえも億劫だった。こんな日は即席麺か何かで済ませるのが一番だ。確かこのあいだ薬局で買ったカップ焼きそばがあったはず。茶色に映える赤や黄色で彩られた四角いそれを思い出しながら、青信号を渡る。いや、渡ろうと、した。
「っわ、!?」
ぐらり。突然、視界が思い切り傾いて、高架下の天井が映った。何が起きたかわからないなかで反射的に足を踏ん張り、なんとか倒れることは免れた。手首に広がっている僅かな痛みと体温。誰かに後ろから腕を引かれたのだと気付き、これまた反射的に振り返る。
「なにっ…………、……、」
この疲れたときに一体なんなんだ、厄日か何かですか?不審者だったらぶん殴ってやる。様々な苛立ちを顔に乗せていたというのに、目の前に現れた"それ"に、全てが流れ去っていく。
「………え?」
私の手首を掴みながらも、はー、はー、と、もう片手を膝に付いて顔を伏せるようにして息を整えている、そのひと。全速力で長距離走を完走しました、とでも言うような姿に開いた口が塞がらない。本来の私ならきっと、その手を思い切り振り払っていただろう。疲労困憊な上に見たい番組にも間に合わず、とにかく早く帰りたいというこの状況で見知らぬひとにこんな引き留めるようなことをされたら、問答無用でキレていたに違いない。それなのにどうして何も言えないのか。手首に広がる体温を、振りほどけないのか。理由はわからないまま固まっているうちに、長い黒髪がふわりと揺れた。
「やっと…、っ、見つけた…!」
透き通るような、美しい音。聞き覚えのあるものだった。彼が顔を上げたことで、音と同じく美しい翡翠色の瞳が露わになる。
「歩…!!」
息を切らしながら紡がれた私の名前と、夢の中で響いていた声が、重なった。同時にとんでもない量の情報が脳に直接飛び込んできて、一瞬視界が飛んだような錯覚を覚える。
血の海にあった翡翠色、馬鹿みたいに広い屋敷。白い包帯、光を失った瞳、使い古したような御守り。靡く黒い髪、動きに合わせて揺れる大きめの服。飛び散る赤色、光を取り戻した翡翠の瞳と、共に流した涙。夕陽で光る銀色、触れ合う肌、柔らかな笑顔。繋ぎ止めることの叶わなかった手、流れる涙、震える言葉。
"僕は…、この先、っ…、何度、生まれ変わっても…、必ず、歩を見つける…!!"
再会の、約束。
「ぁ…、」
体の奥底から湧き上がってくる熱さと、大きすぎる想い。視界がみるみるうちに滲んでいく。
先日行った焼き肉屋で、テレビから目が離せなかった自分。既視感のようなものに捕らわれてたなんて、馬鹿みたいだ。既視感どころじゃない。なんでだろう、どうして私は今の今まで気付くことができなかったんだろう。
彼はずっと、夢の中で私を探してくれていたのに。
「むい、ち、ろう…、くん…、!」
途方に暮れるほど永い時のなかで、もう一度呼ぶことを望んでいた名前が、静かに零れ落ちた。