09
無一郎くんが帰ってからは、いつも通りの流れだった。シャワーを浴びて、カロリーカットのカップラーメンを食べて、歯磨きをして、ベッドに転がって、アラームを確認して、電気を消す。目を閉じる。
「……寝れるわけないじゃん!?」
切タイマーを設定した冷房とサーキュレーターの音のなかで飛び起きた。叫びにも似た独り言は誰にも拾われず、寝室に落ちていく。アドレナリン全開というやつなのか、目はギンギンに開いているし、意識だって真昼間のごとく覚醒しまくりだ。帰りの電車から降りたときは疲労困憊で、色々済ませたら即就寝のつもりだったのに、眠気なんて遥か彼方へ飛び去ってしまっている。当然と言えば当然だ。ずうっと昔の記憶が突然戻ってきて、死別した大切なひとと再会を果たせたなんて、漫画やドラマでしか見たことのないような出来事が自分に降りかかったのだから。
暗がりのなか、自分の頬を抓って現実かどうか確かめる。合計十回目くらいのこの行為も、変わらず痛みがあって、現実であることを再確認する。それでもやっぱり、信じられなかった。こんなことが本当にあるのかと。今、頬に広がったこの痛みでさえも夢なのではないかと。今、ここで眠ってしまったら、全ては夢となって消えていってしまうのではないかと。
「…………っ…、」
また失ってしまうことへの不安が、体の真ん中に生まれてしまった。それは瞬く間に全身へ行き渡り、指先を震わせる。大丈夫、私はちゃんと思い出したし、痛覚だってあるし、今も意識はハッキリしてるから、これは夢なんかじゃない。でも、でも。無一郎くんの姿が見えない場所でも、声が聞こえない場所でも、無一郎くんはちゃんとこの世に生きているという証が欲しい。時刻は23時を回っている。顔を見ることはもう難しいだろう。それならせめて、声だけでも。
「………何考えてんだろ…」
そこまで考えて、自分の思考回路があまりにも幼稚であることに気付き、枕に顔を埋めた。震える指先を握りしめて、小さく深呼吸して心を落ち着ける。何が、声が聞きたいだよ。一丁前に、恋する乙女みたいな考えに至ったことが自分で恥ずかしくて、頭を抱えた。馬鹿じゃないの。この場で外出せずに無一郎くんの声を聞くためには、電話をするという方法しかない。しかし、時間が時間だ。さすがに迷惑すぎるし、アラサーのくせにそんな思春期まっさかりの学生みたいなことしたら、さすがの無一郎くんもドン引きだろう。確実に寝不足になることは受け合いだけれど、「これは現実だから大丈夫」と言い聞かせながら眠るしかない、か。暗がりの中で溜息と共にタオルケットを被る。目を閉じようとしたその瞬間、布の向こう側に現れた、ぼんやりとした光。直後、鳴り響く独特な着信音。こんな時間に着信、って、まさか。…いや、まさかね?淡い期待とは裏腹に、タオルケットを放り投げてスマホを掴む。暗がりの中では眩しすぎるその画面には「無一郎」の三文字が。
「っ、!!」
喜びとか驚きとかあったけれどそんな感情を自覚する暇もなく、私は何も考えずに、緑色のボタンをタップした。
▽▽▽
かぽーん。アニメやドラマでよく聞く間抜けな音は響かない、なんの変哲もない浴室。薄い青色が揺れている湯船に浸かると、疲労感が流れ出ていくような感覚に包まれた。一息ついたものの、頭のなかは歩のことでいっぱいだ。
「…………生まれ変わりって、本当にあるんだ……」
反響した自分の言葉は信じられないけれど、先程までの出来事は間違いなく現実。触れた体温も、重なり合った唇も、「無一郎くん」と僕を呼んでくれる声も、全部、本物だった。歩が、そこにいた。
ふわりと揺れる焦茶色を想う。歩は、あの頃よりも大人になっていた。年齢は詳しく聞いていないけれど、自分で"社会人"と言っていたから、二十五、六あたりか。短かった髪は少しだけ伸びていて、さっぱりしていた目元は化粧でキラキラと輝いていた。触れた唇もリップでほんのりと色づいていて、妙に柔らかくて。なんだか良い匂いもしたし。いや、それはもしかしたら久しぶりに会ったから色々補正されてるのかもしれないけど。とにかく、ひとことで言わせてもらうなら、すごく綺麗、で。
「………んぶぶぶぶぶ…」
どくりと強く動いた心臓を誤魔化すために、鼻から下を湯につけて、息を吹き出す。水面がぶくぶくと泡を立てる様を見ながら、なんとも言えない気持ちになった。"女の子"から、"女性"へと変わっていた歩。可愛い。綺麗。また会えて嬉しい。好き。ずっと一緒にいたい。大好き。時を超えて蘇った想いと共にすぐにでも抱きたいのに、年齢という高い高い壁が邪魔をする。再会できただけ良い、と思うべきなのだろうが、肌を重ねられるまで一年以上は待たなきゃいけないなんて、どうしたものか。こちとら思春期真っ只中の高校生だというのに。湯船の淵に頭を預けて、盛大な溜息をこぼした。
「下手な拷問よりきつい…」
「無一郎、大丈夫かー?寝てないよなー?」
「っ、!」
脱衣所から突然響いた声に飛び起きる。水面が揺れ、ばしゃりと音を立てた。曇りガラスの向こうには父さんのシルエットが。僕が長風呂するときは眠っていることが多いから、心配で見に来たのだろう。別に普通に風呂に浸かっているだけだし、見られて困るようなことはしていないけど、なんとなく平静を装うために背筋を伸ばしてみる。
「起きてるよ。もう出る」
「はいはい、起きてるならいいよー。父さんもう寝るからなー」
「はぁい、おやすみー」
「おやすみー」
あっさりと去っていく父の影。安堵の溜息を吐いてから、長風呂で生ぬるくなった湯船を抜け出した。パジャマ代わりのスウェットとTシャツに身を包み、バスタオルを洗濯機へと放り投げようとしたところで、奥の方にあるものが見えて手が止まる。母さんのバスタオルにある白いウサギ、歩が先程メッセージアプリで送ってきたスタンプと同じだった。
「……歩、」
こぼれた独り言が、蒸し暑い脱衣所に落ちる。歩に会いたい。声を聞きたい。何百年ぶりかの再会を果たしてから、たったの一時間程度しか一緒にいられなかったんだ。会いたい、話したいと思うのはおかしくない、はず。それから風呂掃除をしている間も歯磨きをしている間も、その思いは消えなくて、迎えた就寝前。自室のベッドの上にて向き合うのは一台のスマホ。画面には、歩の連絡先。ご丁寧にフルネームで表記されたそれの、受話器のマークから目が離せない。画面の左上にある時刻は23時を越えている。僕はまだまだ起きていられる、というか意識覚醒しまくりだけど、社会人はこのくらいには眠りにつくのだろうか。この間見たドラマでは主演俳優が「忙しくて死んだように眠る」という演技をしていたし、もしかしたらとっくに夢の中かもしれない。でもこのままだと僕は眠れそうにないし。でも、歩は明日も仕事だろうし。…あぁ、もう。
「えい」
ウダウダ考えるのは性に合わない。切り替えた思考のまま、人差し指で受話器のマークをタップした。「呼び出し中」という文字が映り、呼び出し音が響く。しかしそれは思ったよりも早く消えて、代わりに。
「も、もしもし…!」
少し驚いた色の乗った声が、部屋に広がった。まさかこんなに早く出てくれるとは思っておらず、僕も僕で動揺してしまう。でもそれを悟られるのも恥ずかしくて、サッとスマホを耳にあてつつ、いつもと変わらないふりをした。我ながら必死すぎる。
「ごめん。こんな時間に」
「ううん、全然…!ちょうど眠れなくて困ってたところだから、大丈夫!」
「…眠れないの?」
時間も時間だと言うのに、歩はいつもと変わらない快活な声で語る。それに心地よさを覚えた一方で、発言に違和感を覚え、思わず聞き返してしまった。僕が知る限り、歩は寝つきがいいほうだ。共に過ごした日々は柱稽古の期間だったせいもあり、就寝の挨拶をした数秒後には眠りについていた記憶もある。それなのに眠れない、なんて。僕の問いかけに歩は「えっと」と少々濁しながら続けた。
「寝て起きたら、全部夢でしたーってなってそうで…、なんか、怖くて。…恥ずかしいよね。全然大人じゃないや」
スマホを耳に充てながら苦く笑う姿が容易に浮かぶ。ああ、今すぐにでもアパートまで駆けていって抱きしめてやりたい。でもそれをしたら、歩が捕まってしまうんだよね。飛び出したい衝動をなんとか抑えるために、何故か正座をしてしまった。
「そんなことないよ。気持ち、すごくわかる。僕も、本当にこんなことあるんだなぁって思ったし…」
「…そう、かな。……ねえ、無一郎くん」
「ん?」
「声…、聞こえるから、本当なんだよね?嘘じゃない、よね?」
「…うん。夢でもないよね」
「うん…、うん、夢でもない。現実…!」
現実、現実。噛み締めるような呟きが、機械音と共に耳へと流れてくる。これは夢じゃない。歩と再会できたことも、今こうして現代ならではの方法で繋がりあえていることも、眠ったら全て消えるなんてことはないんだ。改めて実感して、自分の頬が綻んでいくのがわかった。兄さんがいたら「だらしない」と言われるような顔をしているだろう。それほどに、心も体も喜びに満ちていた。
「…嬉しい。嬉しいよ、歩。本当に嬉しい」
「っ、うん、私も嬉しい!」
「今度は、もっといろんなところ、遊びに行こうね。美味しいものもたくさん食べよう。ずっと一緒にいよう」
「うん…!うん!」
吐息の混じった返答と、鼻を啜る音。流れる涙を必死で拭っているのかな。明るくて、前向きで、立ち直りが早くて、それなのに泣き虫で、感情豊か。何も変わってない。僕の知っている、僕の大好きな、歩。
「また泣いてる?」
「っ、泣いてない!」
「嘘ヘタなの変わってないね」
「ねえ!悪口!」
「悪口じゃないよ。僕の大好きな歩のままでいてくれて嬉しいってこと」
「ぐぅっ…!無一郎くんも、そういうことサラッと言うところ、変わってない…!」
「あははっ!」
呻き声に混ざった言葉に、笑いが溢れた。夜中だと言うのにこんな声を出しては、兄さんに怪しまれてしまう。ごほん、とひとつ誤魔化すような咳払いをして、ほんの少しだけ声を潜める。正座していた足はとっくに崩れて、ベッドの淵に投げ出されていた。
「歩、明日も仕事?」
「うん。寝れなくて困ってたけど、もう大丈夫そう」
「そっか。良かった」
「無一郎くんも学校だよね?」
「え?夏休みだよ」
「あ"っ」
社会人は夏休みというものが無いからか、その存在をすっかり忘れていたらしい。歩はこれまた妙な声を発した。よくもまあ、素っ頓狂な声ばかり出るものだ。そういう面白いところも、僕は好き。
「いいなぁ、夏休み…」
「まあ大体は部活だけどね」
「あっ、そっか!将棋部!え、それってさ、………、」
「? …歩?」
歩の声は、朗らかなのに耳を劈くような不快感は一切ない不思議なもの。心地のいいそれが不自然に止まったことに、再び違和感を覚えた。また何か気になることでもあったのだろうか。どうしたの、と聞く前に、「ねえねえ」と想像していたよりも軽い呼びかけがスマホから響く。
「無一郎くん、今週の土曜日か日曜日空いてる?」
「え?うん、今のところどっちも…」
「じゃあ、土曜日にうちで話さない?」
突然のお誘いに動揺してしまって即答ができなかった。歩はそんな僕の様子などお構いなしなようで。
「話したいこと、たくさんあるんだ!」
焦茶の瞳を細め、頬を朱色に染めて嬉しそうに笑う姿が浮かぶ。胸の真ん中が急激に縮んで、どくんどくんと動き出す。これが俗に言う"きゅん"とか"ときめき"ってやつか。顔を合わせていないのにこの威力なんて、この先、やっていけるのだろうか。僕、一年も待てるのかな。いや、待たなきゃいけないんだけど。誰か僕と同じような立場のお偉いさんが早急に法改正してくれないかな。
「うん。僕も、たくさんある」
その後、絶対に叶わない願望を頭の片隅に据えてスマホを握りしめ、「おやすみ」を言い合うまで、必死でいつも通りを装った。長い戦いの始まりだ。