07
「……暑いね…?」
「…暑い」
「…お茶飲もう。冷房、付けるね」
「うん…」
さすがにこのままでは二人一緒に熱中症になって病院行きだ。無一郎くんも同じことを思ったのか大人しく離れ、グラスを手に取った。それを口元に持っていったのを確認して、リビングへ向かう。ローテーブルに起きっぱなしだった冷房のリモコンを手に取り、青色のボタンを押した。ぴぴっ、という間抜けな起動音と、無一郎くんが一気に麦茶を飲んだのか、グラスを静かに置く音が響く。
「おかわりしていい?」
「どうぞどうぞ」
「ありがとう。歩は?何飲むの?」
「んー、私も麦茶かな。入れてくれる?」
「うん」
「ありがとー」
リビングにやってきた無一郎くんの手には、来客用のグラスと、私愛用のマグカップがあった。なんの変哲もない普通のマグカップなのに、無一郎くんが手にしているだけで特別なものに見えてくるから不思議だ。手渡してくれたそれをお礼と共に受け取って、ローテーブルの傍に腰を下ろす。無一郎くんも同じように隣に座り込んで、グラスの麦茶を一口煽った。向かい合うわけではなく、寄り添うように隣に座ってくれるところが昔の無一郎くんと変わりなくて、ひどく安心した。
広がる沈黙。冷蔵庫と冷房の機械音、たまに外から聞こえる車の音。気まずい気持ちなんて一切なくて、むしろ温かみさえ感じる静けさだった。
「……夢の中に、歩が居たんだ」
無一郎くんがぽつりと呟いたことで、沈黙が破れた。肩に乗った重みで、彼が私の肩に寄りかかっているのだとわかる。すぐ傍にある体温に胸の奥が優しい音を鳴らしていたけれど、"夢の中"という言葉に、優しかった音が少しだけ大きくなった。
「十一歳のときからたまに見る夢があった。僕の前に誰かが居て…、声を掛けようとしても、手を伸ばそうとしても、何故か何もできなかった。そこに居たのが歩だった、って気づいたのは、さっきなんだけど」
「さっき?」
「うん。テレビ見てたら歩が出てきたんだ。それで、全部思い出した」
「あ…、ハシゴの旅、ですか」
「そう。それで、駅前に行かなきゃって思って、家を飛び出したんだ。生放送じゃないんだから、いるわけないのに。馬鹿だよね」
耳元に広がった軽い笑い声と、重なる手。傷跡だらけだった私たちの手は現代に染まり、すっかり綺麗になっている。でも、体温も感触も触れ方も、あの頃と何ひとつ変わっていない。すり、と手の甲を優しく撫でられる仕草に惹かれて、顔を上げた。愛の色を宿している翡翠色の瞳のなかに自分が居て、これは夢でもなんでもなくて現実だと思い知って、また、視界が揺れる。
「でも、会えた。見つけられた」
あまりにも幸せそうに笑うから、思わず飛びついてしまいそうになった。でも、無一郎くんの「夢の中に私がいた」という言葉で、私も同じような夢を見ていたと伝えなきゃならないと思ったことを思い出し、なんとか踏みとどまる。重ねられていた手に、そっと指を絡めてみると、無一郎くんの手がピクリと震えた。生まれてくる小さな愛しさと、記憶。
「私も同じだよ」
「…え?」
「私も、夢の中でずっと誰かが呼んでたの、覚えてる。でもそれが何なのか、ずっとわからなかったんだけど…、今ならわかる」
傷跡の無くなった手を両手で包み込む。手のひらから伝わる温もりは、あの頃から、ずっと触れたかったもの。
「無一郎くんだったんだね。ずっと、探してくれてたんだね。こんなこと…、っ、本当に、あるんだね…!」
夢の中で、彼はずっと私を呼んでくれていた。最後に交わした約束の通り、ずっと私を探してくれていたんだ。本当に訪れた再会を改めて実感したら、もう駄目だった。情けない姿は見せたくないのに、また涙が溢れ出してしまう。両手のなかにある無一郎くんの手を一層強く握り込んで、胸元に持っていく。かつて、"ずっと傍にいる"という誓いの込められた指輪が揺れていた、その場所。もう誓いの証は無いけれど、その代わりに、無一郎くんが目の前にいる。約束のとおり、傍にいてくれている。嬉しい。嬉しくて、幸せで、喜びから来る涙が止まらない。
「っ、」
無一郎くんの手が私の手を一層強く握ったことに気付いたときには、彼の胸元に飛び込んでいた。驚いたけれど、それよりも大きな幸せが心を包んでいく。シャツの襟の隙間から見える肌に頬を寄せて、心臓の上に耳を付ける。生きている証の音が聞こえてきて、彼を愛おしく思う気持ちがまた溢れてきた。
「好き、」
「…!」
「好きだよ、歩…!」
何年振りか。透き通るような声が、ずっと求めていた言葉を告げた。頭に過ぎる、死と隣り合わせでも間違いなく幸せだった日々。無一郎くんが隣に居て、たくさんの「好き」をくれた、あの頃。蘇る全てが愛おしく、その背中に腕を回して強く抱きしめた。
「うん…、私も、好き、大好き…!」
「もう絶対離さない…、ずっと傍にいる…、約束する…!もう、絶対、一人にしない…!」
涙ながらに愛の言葉を繰り返す、無一郎くん。私も同じ想いだった。もう、絶対離れたくない。今度こそ、人生の終わりまで、ずっと共に在りたい。互いの想いを込めた抱擁に時間を忘れかけた頃、無一郎くんの腕の力が緩んだことで、私たちの間に僅かな距離ができた。寂しさを感じる間もなく、頬に手のひらが触れて、優しく滑る。涙の跡を拭うような動作と、合わさる視線。どちらかともなく唇が近付いて、静かに重なった。ずっと、ずっと求めていた口付けに、また、目元が熱くなる。
音もなく離れたそれが、また重なった。しばらくくっついて、一瞬だけ離れて、角度を変えて、また、くっついて。何度も何度も、何度も。離れていた時を静かに埋めていくような優しいキスに答えたくて、無一郎くんの首の後ろに手を回す。指先に絡む柔らかい髪にまた懐かしさを感じたとき、唇に水っぽい感触が広がった。無一郎くんが舌で私の唇を舐めるのは、「口を開けて」という合図。断る意味は勿論、抵抗なんて一切無かった。大人しく従って、閉じていた唇を緩める。覆い被さる無一郎くんの唇と、侵入してくる舌の先。
「……ん…、」
「っ…」
湿り気が、口内を這い回る。性急なものではなくて、なんだか、じっくりと味わうような、そんな動きだ。後頭部を優しく滑る右手と、腰の辺りを這う左手。無一郎くんからの愛を一身に受けていることを自覚して、お腹の奥が震えていた。唇から入ってくる幸せが指先まで巡る。体が、勝手に動き出す。私も唇を押し付けて、無一郎くんの舌に己のそれを絡めた。響きだした水の音が、互いの意識を霞ませていく。けれど、そこで。
「………!」
肌と衣服が擦れる感覚がしてからすぐ、背中に冷気が入り込み、ぬるい体温が肌を這った。無一郎くんの手が、服の下に侵入してきている。かんかんかん。とろけてしまいそうなほど気持ちがいいキスに流されかけた意識のなかで、なけなしの理性が警告音を鳴らした。やばい、このままでは。無一郎くんと触れ合っていたい本能を頭のなかでぶん殴り、唇を離す。背中に触れている手のひらを掴むと、目の前の翡翠の瞳が何度か瞬いた。
「だっ、駄目…!」
「…?どうして?」
こてん、と首を傾げる動作が可愛すぎて思わず目を瞑る。アホか、それどころじゃないだろ、落ち着け、私。ていうか無一郎くん、力強っ…、知ってたけど!
「無一郎くん、まだ学生でしょ…!?」
「そうだよ。高校二年」
「こっ…、」
こ、ここ、こうこう、にねん。高校、二年。改めて言葉にして言われると衝撃が大きすぎる。けれども、それを甘んじて受けてる場合ではない。無一郎くんは高校生、そして、私は社会人。言うなれば、未成年と成人だ。本来なら、こうして家に招いて、こんなキスをしているだけでも世間的には良くないのだ。そこから更にひとつ進んでしまっては、世間どころか、警察のお世話になってしまう。ここは大人の私が意地でも止めなければならない。決意を新たに、なんの悪びれもなく「高校二年」と語った無一郎くんの瞳を見据える。
「駄目だよ…!私は社会人で…!無一郎くんは未成年なんだから、」
意を決して、心を鬼にして、言ったのに。体の奥に生まれた熱に気付かないふりをして、言ったのに。眼前、数センチほどの距離にあった翡翠色が、すっ、と色を変えたのを見て、言葉が止まってしまう。その瞬間に、背中の後ろで抑えていた手がいとも簡単に解かれて、今度は無一郎くんが私の手首を掴んだ。
「…だから何?」
熱の灯された瞳から流れ出す色欲が、体に流れ込んでくる。ああ、駄目、駄目だよ。意思に反して重なる唇と、絡み合う舌と、体に触れる手のひら。乱れていく呼吸、熱くなっていく体。頭の中で流れていた警告音が、遠くなっていく。
「っ、むい、んっ、」
「は、ぁ…、歩…」
「ん…!」
「歩…、歩、」
歩、歩、歩。キスの合間、譫語のように繰り返される自分の名前。大好きな無一郎くんにこんなにも求められたら、拒むことなんて出来るわけがなくて。手首を掴んでいた無一郎くんの手が一瞬だけ離れ、指先が絡められる。縫い合わせるような繋ぎ方が堪らなく愛しい。そのまま、押し付けられる唇にされるがままでいたら、不意に体の力が抜けてしまって、背中に軽い衝撃が走った。キスのあいだ、ずっと閉じていた目を、そうっと開く。離れた唇と、それを繋いでいる銀色の糸。リビングの照明を背景に私を組み敷いている無一郎くんの唇は、どちらのものかもわからない唾液で光っている。毛先だけ色の違う幻想的な髪が頬に掛かって、熱い吐息が耳元に落ちる。
「歩…っ、」
「っ、ぁ…!」
ぞくぞくぞく。緩い電流が背筋を駆け抜けた。足のあいだの熱が溶け出しているのがわかる。気持ちいい、早くしたい、もっと触ってほしい、無一郎くんと愛し合いたい。そんな本能と、未だ戦い続けるほんの少しの理性。「駄目」の二文字が、頭の中に大きく浮かんでいる。未成年と社会人。同意、してるけど。私たちはずっと昔から愛し合っているけど。まだちゃんと、話していないし。こんな年にもなってちゃんとしたお付き合いなんて笑えてしまうけど、無一郎くんは学生だし。ご両親にも挨拶してないし。それなのに、こんなの。
「っ……!!」
自分が導き出した「両親」という言葉に、理性が更に声を上げる。そうだよ、まだ無一郎くんは保護者がいる未成年だ。高校生だ。両親。せめてご両親に挨拶しないと。だ、駄目だ。絶対!絶対、駄目!
およそ0.1グラムほどしか残っていなかった理性がクリティカルヒットを決め、本能にK.O.勝ち。無一郎くんの髪を撫でようとしていた右手を止め、握り拳を作る。文字通り、私は心を鬼にして、それを彼の後頭部目掛けて落とした。
「だめ、だって…、ばっ!!」
「ぐっ」
「あ"」
思っていたよりも鈍い音が鳴り響き、先ほどとは温度の違う沈黙が流れる。無一郎くんは私の首元に顔を埋めたまま、石のように固まってしまった。
「ご、ごめん…!」
「………。」
生まれてくる莫大な罪悪感と共に、拳をぶつけた後頭部を撫で付ける。それで切り替わったのかどうか定かではないけれど、首元の熱が離れて、自分の頬に翡翠色の毛先が掛かった。鈍い動きで上がった無一郎くんの顔に乗せられていたのは、盛大な不満と、少しの悲しみ。そんな顔しないで、なんて、偉そうなことは言えない。この顔をさせたのは間違いなく、私なのだから。ごめん。ごめんね、無一郎くん。
「…どうして?」
「……、」
「僕は歩が好きで、歩も僕が好きでしょ?それなのに、どうしてダメなの?」
捨てられた子犬のような表情で、あまりにも悲しげに言う姿に、心が抉られたような感覚が走った。私を見下ろすその顔へ手を伸ばし、そっと触れる。無一郎くんはそれを振り払うことも、かと言って手を重ねることもせず、黙って私を見つめていた。
「…ごめんね。無一郎くんが嫌ってわけじゃないんだよ。私も、したいよ」
「じゃあ、なんで…」
「大人はね、未成年の子とそういうことしたらいけないって、法律で決まってるの」
「……知ってるよ。知ってるから、聞いてる」
「…え」
「なんで歳が離れてるだけでエッチしたらいけないの?ちゃんと、好きなのに」
「すっ、ストレートに言うね…!」
思春期まっさかりであろうに、"エッチ"という言葉を恥ずかしげもなく使う無一郎くんに驚いてしまう。表情は何の変わりもなく、「何か問題でも?」とでも言いそうなくらいだ。なんだそれ、意識した私が恥ずかしいみたいじゃないか。誤魔化すために、ひとつ咳払いをして、不満の色を宿しているその瞳を見つめ返す。
「私も詳しくはわからないし…、厳密に駄目、ってわけじゃないんだろうけど…、何かあったら、私が警察のお世話になっちゃって、一緒にいられなくなっちゃう」
「…歩だけ?どうして?僕も同じでしょ?」
「違うよ。私がちゃんと指導しなかったから、って理由で私のせいになるんだよ」
「………歩の、せい…」
それはそれは小さな呟きを残し、無一郎くんは、眉を下げ、視線を落とした。事の重大さを理解したらしい。悲しそうな姿に私も私でひどく胸が痛んだものの、仕方がないのだと自分に言い聞かせる。これは、あの頃とは色んな意味で立場の違う私と無一郎くんが、今度こそずっと一緒にいるために乗り越えられなければならないことなのだ。
頬に触れていた手のひらを、彼の後頭部へと持っていく。優しさを意識して滑らすと、落ちていた視線が僅かに揺れて、私の視線の上へと戻って来た。
「それにまだ、無一郎くんのご両親にもご挨拶してないでしょ?」
「………うん」
「だから、そういうのも含めて万が一を考えて、今はやめておこう?私のためでもあるし、無一郎くんのためでもあるんだよ」
「……ん」
絵に描いたように落ち込む無一郎くんは、実家に居る愛犬を彷彿とさせた。悲しげに垂れ下がる耳と尻尾の幻覚が見える。しゅん。そんな効果音が聞こえてきそうな雰囲気に、募っていく罪悪感。でもここで、私が折れてしまったらいけない。
私は、無一郎くんが好きだ。だからこそ、彼の人生の"枷"にはなりたくなかった。無一郎くん自身は勿論、その周りの家族や友達に、「私がいたからこんなことになってしまった」なんて思いは、絶対にさせたくなかった。彼の人生の障害になることは、私の願いではない。私の、たったひとつの願いは。
「私、無一郎くんと、ずっと一緒にいたい」
嘘偽りではないことを伝えたくて、翡翠の瞳から目を逸らさずに告げる。波のように揺れていたそれが一瞬だけ見開き、僅かに歪んだ。涙を堪える仕草と、「…僕も、」という微かな呟き。それから、無一郎くんが少しだけ距離を縮めて。私を組み敷いたまま、彼は私の背と床の間に腕を滑らせ、抱きしめた。体重が乗ったことで重みを感じたけれど、そんなことよりも、隙間なくくっついている体に、どうしようもない愛おしさを覚えた。
「僕も、歩と一緒に居たい…」
「…じゃあ、頑張ろう。二人で」
「うん…、うん」
ぎゅうぎゅうと容赦なく抱きしめてくる様は、高校二年生というには少し幼かった。先程までの男としての色気はどこに行ってしまったのか。つい、小さな笑いが漏れてしまう。
「いつになったら、していい…?」
「………あー…」
耳元で響いた小さな問いかけに、一瞬固まった。確かに、その疑問はごもっともだ。成人と十八歳以下の子どもがそういった行為をすることは、法律で禁止されている。それなら来年、無一郎くんが十八歳を迎えたら、いいのだろうか。しかし十八歳を迎えたといえど、その年度の三月三十一日までは、無一郎くんは"高校生"だ。その状態で私と性行為をしたら、法律違反になるのだろうか。なんとも難しい問題である。
「十八歳になったらか、卒業したらか…、ちゃんと調べてみるね」
「……ん、」
「無一郎くん、誕生日変わってない?」
「うん。八月八日…」
「そっか…」
ということは、このあいだ十七歳になったばかりで、十八歳を迎えるまで、あと約一年はあるということだ。どちらにせよ、一年以上は肌を重ねられないことが確定してしまった。そう思うと、今こうして触れ合っている体温が恐ろしいほど尊く思えてくる。人間って、単純だ。
「……はやくしたい」
「…うん。そうだね」
無一郎くんの小さな呟きに共感し、長い髪を梳く。これは無一郎くんだけの問題じゃない。私と無一郎くん、二人の問題で、私だって我慢しなきゃならない。ずっと恋焦がれた愛しいひとが手の届くところにいるというのに、愛し合うことができないなんて、きっとそれは想像以上に苦しく、つらいことだろう。でも、この先の未来も無一郎くんと共に生きるためには、この壁は乗り越えなければならない。
「無一郎くん」
名前を呼ぶと、無一郎くんは再びゆったりとした動作で顔を上げた。今度はその瞳に悲しみの色は宿っていない。あったのは、ほんの少しの、熱。翡翠の瞳に残るそれが、胸の奥を小さく叩いている。
「一緒に頑張ろう」
「…うん、」
絡み合う視線と唇が静かに近付いて、触れ合った。そっと重ねるだけの口付けは、この先の未来を約束する、誓いのキスのようだった。