キリンはおかしいな、と頭を擡げた。白銀に光る体毛がさらりと揺れ動き、その些細な身動ぎでさえ"キリン"と呼ばれるモンスターの神々しさを窺わせる。キリンは擡げていた首を元の位置に戻し、もう一度洞窟の中を覗き込んだ。そこにいる筈のナマエが、何故かいなくなっているのだ。
キリンは何度も黙考した。
どこかで落としてきただろうか、いやそれは無い。落とせば気付く。気付かない程鈍感ではない。
他のモンスターがこの場所を見つけ襲撃したのだろうか、いやそれも無い。痕跡も臭いも残っていないし、何より通常のモンスターではこの場所を見つけることでさえ稀だろう
ならば自らの足でここを出て行ったのだろうか。これは直ぐに否定出来なかった。キリンはナマエを育てていたが、ナマエの人間としての意思を尊重していた。
生まれて間もない赤ん坊だったナマエをキリンが拾って連れ帰って来てから数えで十年は経っていたが、もしナマエに人間社会で暮らしたいと言う我が芽生えればキリンはそれを止めることは出来ないと考えている。しかし…人間の言葉も上手く喋れないようなあの子が、どう人間社会で生きれるんだろう。そもそもこの山奥深い場所から人里に下りるまでには結構な時間を要する。単身では無謀だ。
キリンはあれやこれやと仮説を打ち立ててはそれに対し色々と考えを添えてみた。
それからどうも暫く、思考の海に没頭していたらしい。すぐ背後で気配がした。地面を踏み締めた音がして、キリンは振り返る。そこへ立っていたのは、今の今まで思考の中心にいた、ナマエだった
『?』
――何処へ行っていた。問いかけるように、そして帰りを労うようにキリンは顎の下でナマエの小さな頭を撫でる。
すり寄って来たキリンの体を ナマエと呼ばれた少年は撫で返した。
そして、ずずいと手に持っていたバケツを持ち上げて見せる。
中には数匹のサシミウオが生きたまま狭い空間を泳いでいた。
なんだ、釣りに行っていただけか。キリンは安堵した。いつもより釣果が多いところを見ると、ついつい熱中して何時間も釣りをしていたから、帰りが遅かっただけらしい。
よかったよかった、と言うようにキリンは何度もナマエの体に頭を摺り寄せる。いつもより熱心な出迎えに、ナマエは疑問符を浮かべた。普段ならもっと淡白なキリンなのに、どうしたのだろうと首を擡げた。その様子は、先ほどまでのキリンのそれとそっくりだった。
――何でもない、少し考えが後ろ向きになっていただけ
キリンはもう考えないことにした。ナマエの口から――ナマエは喋れないが――「此処を出て行く」と言う言葉を聞くまでは自らそんな考えは持ち出さないようにしよう。
きっとこの子との別離は、まだ先だ。
しかし必ず訪れる天命でもある
それがキリンには、少しだけ哀しいことだった
(公式「野生のキリンが人間の子供を育てていたという事例」より)
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