海凶に出くわした漁師は死ぬ運命しかない。
たった一匹で嵐を体現するこのモンスター…――海竜・ラギアクルスは獰猛に光る眼で漁船の上で立ち竦むナマエを見ている。まるで品定めをするかのような、じっとりとした目付きだ。定めるも何もあるか、とナマエは恐怖の渦中にありながら愚痴ってみる。ラギアクルスの立場からすれば、考えるまでもないだろう。その太く大きな尾で叩きつけるだけで、ナマエ個人が所有するボロ漁船は一瞬で沈没だ。迂闊であった。先日、村の若い衆が噂していた海凶の存在を もっと念頭に置くべきだった。しかし後悔先に立たず。ナマエに待っているのは死のみであり、生はないのだから。
『…………』
「……?」
それにしても。ラギアクルスは一向に船を襲って来ない。海面に首を出した姿のまま、微動だにしていなかった。衝撃に備え瞑っていた眼を ナマエは恐る恐る開いてみる。
やはりそこには動かずにじっと視線を投げかけてくるだけのラギアクルス おかしい。この事態が、ではなく、ラギアクルスの様子が、おかしいのだ。どうしたんだ…?と思わず心配になってしまう。村一番のお人好しな性格をしたナマエは、今自身にいつぞ降りかかるやも知れない死の恐怖にさえ心を配っている。
「ど、どうしたんだ…?」
人間の言葉なんてモンスターに理解できるのだろうかとも思ったが、思考するよりも早く言葉は口から出ていた。
するとラギアクルスはゆっくりと、漁船の上に伸し掛かるように長い首を持ち上げてくる。な、なんだなんだ?とナマエが体を固くさせるその横に、ラギアクルスの青い外殻と背中の赤色の突起がくる。"そこ"にあった物を見たナマエは「あっ!」と声を上げた。
ハンター達が峯山龍を討伐する際に乗り込む撃龍船に備え付けられてある撃龍槍の先端が、このラギアクルスの背中に深々と刺さっていたのだ。
根元からボキリと折れてしまったようなささくれの見られる撃龍槍を初めて見たのにも驚いたが、もっと驚いたのはそのラギアクルスがこの刺さっているモノを取ってくれと頼んで来たことにも仰天する。
「ど、どうすりゃあ…!?」
ラギアクルスの背中には、何度も体を打ちつけたような痛々しい痕がある。恐らく、打ち付ける度に、逆効果のように槍は刺さって行ったのであろう。堅いラギアクルスの外殻を持ってしても傷は出来たらしい。
どうするべきなんだ、とナマエは狼狽する。助けてもいいのだろうかが分からなかった。村の漁師たちが何人もラギアクルス種に襲われ帰らぬ者となった。この海龍がそうであるかは分からないが、そうであるかも知れない。それを考えると、とても手を貸す気にはなれない。だが、
『グルルル……』
ラギアクルスは、待っている。深く細い眼で見上げて来る。
――やはり、とても放ってはおけない。
ええい、ままだ! ナマエは船に積んであったロープを手に取り、刺さっている槍の根元のところへ固く巻き付ける。
大きな顔を船の上に押しやっていたラギアクルスに声をかけた。
「ちょっとスマンが、船から顔を離してくれ」
またも聞き分けた賢いラギアクルスは、ナマエの言葉どおり大人しく船から離れる。
括りつけられているロープの強度が少々心許ない気もしたが、きっと上手く行くと信じる。伊達に漁師の世話を焼いている女衆が編んで作ってくれた縄じゃないぞ。
ラギアクルスに括りつけてあったロープの反対側を 船の後部の手摺に引っ掛ける。
これで準備は整った。
「よし ――お前さんはそこを動かずに踏ん張っておいてくれよ!」
そう伝えるとラギアクルスの体が少し海中に沈んだ。水の中でも踏ん張りが利くなんてやっぱりモンスターって凄いなあと思う。
とにかくやってみるしかない。
ナマエは船の動力を最初からフル稼働させた。ゴゴゴゴと音を立てながらオンボロ船にエンジンがかかる。ギチギチとロープは嫌な音を立てていたが、それでも気にせずに船を発進させた。
『・・・!』
ロープの取り付いた槍がラギアクルスの背中の上で引っ張られるように動く。かなりの激痛が奔っている筈だ。それでもラギアクルスは石のように、海中の中で踏み止まっている。
「あと少し…!」
ロープの限界も近い。あともうちょっと持ちこたえてくれよぅ、と村の女たちの顔を思い浮かべてみた。
そして――
『――――!!!』
「!」
大きな咆哮が聞こえたと思えば、大量の血がラギアクルスの背中から噴出し、刺さっていた槍が抜けた反動で空中にふわりと持ち上がる様子が眼に飛び込んで来た。
「やったぞ!」
停止させた船の上から、歓声を上げる。自分でも思ったより嬉しい声が出てしまった。
ラギアクルスは血が止まるまで海中に潜っていたかと思うと、船の側面にまでやって来ていたらしく、ひょこりと海面から顔を覗かせた。存外に愛くるしい行動だ。
「良かったなあ!」
本心からそう伝えた。経緯は知らないが、もう背中に痛みを感じることはなくなったはずだ。
ラギアクルスは『ウオオゥ』と鳴き、一度 尾で海面をぱしゃりと叩いた後、海の中へと帰って行った。
友好を結んだわけでも、何か多くの利益を得たわけでもなかったが、一時だけでも人間と海凶が心を通わせた、とても大切な 数分間の出来事だったのだ。
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