「彼が、風邪を?」
「はいですニャ…」
温かいお湯の張った桶とタオルを持ったルームが言う。
「旦那さんが風邪を引いた」と。
申し訳ないことに、私はそれに気がついていなかった。
だが思えば、昨日の夜からずっと執務室に篭っていて寝室に戻っていない。だから彼の様子も知らないでいたのだ。居を共にする仲として、失念していたのを申し訳なく思う。しかし、だ。
「いつから容態が悪くなった?」
「昨夜の寝る前におやすみなさいを言った時はお元気そうに見えましたニャ…。でもでも、昨日の狩りから帰って来て、『疲れたからもう休むよ』っていって、お風呂に入って温まってくださらなかったのですニャ!」
「……なに?」
昨日、彼は昼過ぎから村の者達の頼みでドスバギィ率いるバギィの群れを狩りに出かけていた。それ自体はなんら不思議なことではなく、問題となったのは彼の帰還時刻が予定よりも大幅に遅れた、夜になってからのことだ。
何でも、群れのリーダーであるドスバギィを狩りとって下山しようとした際、残っていたバギィの集団と出くわし、バギィらが用いる「睡眠ブレス」を背後から浴びせられて、二時間ほど雪の中で眠っていた後だったというのだから、こちらの頭がいたくなる。
幸いと言うべきか、完全に眠りに落ちる前にバギィの集団も掃討したために追撃を受けることはなかったと言っていたが、やはり頭がいたい。このことは彼の"慢心"ではなく、彼の"間の抜けている"部分が要因で招いたことだ。
予定よりも遅い帰還に心配をしていた身としては、無事に帰って来てくれたことは嬉しく思うも、その後で、「だるいから」と言ってそのままベッドに横になってしまったことは厳重に叱っておくべきだろう。無論、彼の容態が良くなってからの話だが。
「今、彼は?」
「ベッドに横になって貰っていらっしゃいますニャ。キッチンが温かい食べ物を作ってくれているので、起きていて待っていてくださいニャと言っておりますニャ」
「そうか……」
「主人さま、お顔を見に行かれるのでしたら今ならベストなタイミングですニャ」
「む……。 うん、そうだな。…だがその前に、彼に薬は?」
「ニャ、それが…… ちょうどお屋敷に保管してあったお薬が無くニャってまして、これから雑貨屋の女将さんのところへ行こうと」
「ならば、私が行って来よう」
「ニャ?主人さまがですかニャ?よろしいのですかニャ?」
「ああ。君たちは、どうか彼の看病を続けていてくれ。薬はすぐに持ち帰ってくる」
「ありがとうございますニャ!旦那さんのことは僕とキッチンに任せてくださいニャ」
その頼もしい言葉を受け取り、玄関脇にかけてあった防寒用コートを羽織って、家を出る。
瞬間、突き刺すような冷気が、ずっと暖かな室内にいた自分の頬に当たった。
彼は、こんな寒い中を二時間もの長時間、ずっと雪の中にいた。常人ならば、とっくに凍死していてもおかしくない。ホットドリンクの効力も、きっと眠っていた途中で切れていた筈だ。身につけていた防具だって寒さ対策が特別に施されていた代物でもない。それでも彼は二時間後には目を覚まし、その足で下山したと言うのだから、つくづく心配をしてしまう。彼と出会ってもうすでに長いが、風邪を引いているところを見たのも初めてだと言うのに、どうして私の頭もこれほどに痛むのだろう。