▼ アプテノディテス・フォルステリ
シャチのアレは、"擬似的恋愛感情"だと思っていた。
他人――この場合はキャプテンのことだ――がついぞ聞かせていた"異世界"で出会った"素敵な人"の話
キャプテンは平素は口に出さなかったが、酔うと箍が外れ何度も何度も繰り返し異世界で出会ったナマエさんのことをおれ達に聞かせていた
やれどこそこが素晴らしいだの
やれこんなところが好きだの
やれこんな事を言ってくれただの
やれこんな愛し方をしてくれただの
やれどんな風に笑う人なのかを
シャチはああ見えて酒に強い。皆と一緒のように盛り上がっても、結局最後まで酔わずに後片付けをするような奴だ。
だから他のクルー達が酔いが回って話半分にキャプテンの惚気話のような自慢話を聞いていてもシャチだけは最後まで真面目に聞いて付き合っていた。
時には相槌を打ち、時には質問をし、時には肯定して、キャプテンの話す"ナマエ"と言う人の像をシャチの中でどんどん作り上げて行っていたのだろう
それはある意味で乗っ取りと言えた
シャチはいつの間にか、キャプテンの話す"ナマエ"と言う人物に好意的な感情を抱いてしまっていたのだ。
他人のモノほどよく見える、とは言ったもの。シャチにそんな難しい心理が働いたのかどうかは推測でしかないが、いつしかシャチはキャプテンが話すナマエさんの話を熱心に、そして羨ましそうにしながら聞き始めていた
やめておけよ、と言ってやらなかったおれ達が悪かったのかも知れない
ずっとナマエさんが好きだったキャプテンのことを 尊重し、お二人の心が通じ合ったときも我が事のように喜んでいたシャチも本物のシャチだろう
しかし影で辛そうな表情を浮かべていたシャチも、また本物である
「どうせ報われないんだから」
これをわざわざ誰かの口から伝えてやらずとも、それを一番に理解しているのも紛れもなく本人な筈
生憎うちの船に精神科医は乗っていない。専門的な処置も、助言も、与えてやれない
なのでおれ達はこの件に関しては口を噤んでいるしかない。
いつかシャチ自らが諦めることを願うのみだ。
「ペンギン君? どうしたんだ船縁に寄りかかって……気分でも悪くしたのかい?」
「…や、大丈夫ですよナマエさん おれめちゃめちゃ元気です」
「そうか? なら良かったよ」
…どうせならナマエさんが、"とっても悪い人" ならまだ、良かったのにな
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