海戦において、一番の敵は天候である。 足場を不安定にさせるほどの荒波を引き起こす嵐は、中でも最大の敵だ。 空から、人間の身体を突き刺さんとばかりに篠ついてくる雨は、体力も視界も奪う。 風は船体を不安定に揺らし、乗っている人間たちの焦りを掻き立てる。 銃剣を構える二等兵達は手が滑り、武器を取り落としたところを海賊に狙われてしまえばそこで命運は尽きる。 雨や海水に濡れた甲板の上で足を滑らせてしまえば、そのまま海に放り出されることもあった。 海と言う場所は、どれ程戦いを重ねた歴戦の者でも一瞬のことが命取りになる。 それは誰もが。 海兵も、 海賊も、 そしてサカズキも、理解していたことだったのだ。 ・ ・ 「第二マストやられました!!」 伝令役の曹長の言葉を聞いたサカズキ中尉は、己の上司の指示を仰ぐべくその姿を探した。 ナマエ少将は海賊船の船首近くで、船長格の男や戦闘員たち数名と相対している。あれでは此方の船の状況も耳に入っていないだろう。 「南方より更に大きな雲が接近してきます!」航海士が乱戦に掻き消されないような大声を張り上げる。 戦いは海軍側が優勢だった。しかしこれでは、嵐のせいで両者共に海の藻屑となってしまうだろう。誰の目から見てもこれは、一時撤退をするのが懸命な状況であった。 「いかがいたしますか!中尉!」 目にあたる大粒の雨に堪えながら曹長が叫んだ。サカズキは暫し思案し、「…わしがナマエさんの所にまで行って来る。おまんらは船を安定させよれ」「了解です!」 操舵室に駆け込んで行く曹長と反対方向に向けて走り出す。 ナマエは他の戦闘員たちを倒し、船長の男と対峙している。肩に掛けられた海軍コートがはためき、相手の攻撃を最小限の動きでかわしながら、雨で濡れる甲板に足を取られないように注意をしているのが分かった。 サカズキは焦燥感に襲われる。もし今が雨でなければ、自分達が退却を余儀なくされることも、ナマエがあのように不安定な戦いを強いられることもないのに。 襲い掛かった船長を逆に突き倒したナマエ そのタイミングを見計らい、サカズキは声を上げた。 「ナマエさん! これ以上は船がおえん!」 それだけ伝えると、ナマエはすぐに理解した。 他の海兵達も同様に撤退の準備を始める。 空は暗い。海は大荒れに荒れて、帰路も安全に進めるかどうかは分からないような状況だ。雨のせいで視界も悪く、目を凝らさなければ、船首の近くにいるナマエの姿を見上げられなかった。 「よし、戻るぞサカズキ 準備は出来てるのか」 「もう走っとるからじきに……」 その時、強烈な突風が吹いた。 「!!」「うわっ!」ふいの強風により、一際大きく船体が揺さぶられる。 サカズキでさえも足場が不安定で、手をついていないと立っていられない程だ。ナマエも、足で踏ん張りながら腕で顔を庇い状況を確認していた。 そのナマエの目が、ある一点を視界に入れた時、大きく見開かれる。 「サカズキィ!!」 「な……!?」 傾く船体を駆け走ってきたナマエに強く肩を押され、サカズキは無様に、もんどり打ちながら甲板をゴロゴロと転がった。 次にズシンと大きな音が立ち、海の上で地震が起きたような衝撃が辺りに響く。 見れば、接舷していた海軍船の第二マストが、海賊船の上を分断するようにして倒れて来ていた。 それよりも真っ先にサカズキの目に飛び込んで来たのは、そのマストの下敷きになっているナマエの姿 「ナマエさん!!!」 ――直感で、庇われた、と思った。 身動きの出来なかったサカズキの上に落ちて来ようとしていたマストから、サカズキを護るようにして。代わりに自分が下敷きになって。 「う……」 「ナマエさん! あんた、何しと…!」 「…サカズキ、いいから早く、船を出せ。このままじゃ、沈没しちまう。曹長らに連絡を入れに行け。すぐに船を出航させるんだ」 「それはあんたを起こしてからする!じゃけぇ、はようかやったマストから出るんじゃ、はよう!」 「それが…さっきから、起こそうとやってるんだが…どうも身体が、上がらん。重いな、マストってのは」 ははは、と空笑いをする呑気なナマエの下へ急ごうと、船の下へと転がり落ちた場所からサカズキは走り出す。早くしなければ、この船諸共ナマエが海へと沈んでしまう。 それは絶対に、駄目だ 「ナマエさ――」 「ウ、ぁあ゛アッ!!」 「――!?」 ナマエを下敷きにして倒れたマストの反対側から、のそりと浮かび上がる黒い影 それは先ほど、ナマエに負かされ倒れていた筈の海賊の船長だった。 問題はそこではない。問題は、その右手に持っている剣が、ナマエの首に刺されてあると言うことで、 「へ…へ、へ どうせおれらは此処で海に殺されるんだ……なら海軍さんよぉ、おれらに付き合ってくれよ、ここまで来たんだからさぁ…」 焦点の合わない目で、ヘラヘラと笑う男 「…、…ナマエ、さ……」 だんだんと顔の下に血溜まりを作るナマエが、ゆっくりと顔を上げる 「………サカ、…ズ…キ……、行……け…」 ――死ぬな あ、と思った時にはもう手遅れだった。 目を見開いたままナマエは、事切れた。その目と、サカズキの目がかち合う。 嗚呼、何て事か。サカズキは、胃の中の物が全て逆流して来ようとしている感覚に陥った。ナマエが死んでしまった。自分を護ろうとしてマストの下敷きにならなければ、あんな下等な人間に殺されることなんて無かったのに。弱い自分が嵐にさえ負けなければ、ナマエは、ナマエは ナマエさんは―― 「……ぶち殺しちゃる」 「へ、へへ……」 海賊は笑う。 海軍は泣く。 「ぶち殺しちゃるけぇ待っとれ、こん悪め」 ・ ・ ――海軍にとって、サカズキと言う人間にとって悪とは何なのか。 それは弱い自分と、ナマエを殺した海賊と言う矮小な生き物たちのことだとサカズキは結論付けた。 以後、彼の考え主張結論が覆されることはない。 サカズキの中にあった心臓の半分は、あの日の雨の夜、慕っていた人の亡骸と共に葬ったのだ |