勿体無いと思った。それだけ、彼の肩にかかり風と共に揺れる海軍コートは輝いて見えたのだ。だがもう、彼は海軍コートを羽織ることはしないだろう。腕を上げることは愚か、立つことでさえまま成らないと言う状態だ。どんな医師もドクターストップをかけている。「ベッドから起きてはならない」と。多くの者達からの制止の声にも、彼は朗らかに笑うだけ。「仕事してぇんだけどなぁ」 いい加減にしとけよ、ナマエ 病室内は禁煙だ。無沙汰になっている口をへの字に歪めながら、極力トーンを落とした声でスモーカーは寝台の上のナマエを叱る。己の部下にかけるようなスモーカーの台詞に、「随分サマんなってるじゃないか、スモーカー」嬉しそうにしている。育ての子であるスモーカーが出世し、多くの部下に恵まれている今の状況が、余程面白くて堪らないようだった。 「こんな薬品臭い病室なんぞで油を売ってる暇なんて無いんじゃないのか、"大佐"殿?」 「今は休憩時間中だ。そんなにおれに馬車馬のように働けって言いてぇのかナマエは」 「言いたいな。 今この時も海で海賊たちが狼藉を働いてるのかと思うと、鳥になってここから抜け出して行きたいくらいだ」 「…冗談は程ほどにしとけよ病人 安静にしとかねぇと、海軍医の連中の方が心労でぶっ倒れるぞ」 「………はは」 「…? なんだ」 「似たような台詞を3日前に見舞いに来てくれたクザンも言ってた。さすがは上司と部下だな」 「……やめろ、気色が悪ぃ」 「そう言うな。かつての部下と息子が立派になってて父さんは嬉しいぞー」 ナマエはスモーカーの本当の父親ではない。二十年以上前に、海を漂流し遭難していたスモーカーを発見したのがナマエだった。それから以後、浅からぬ縁により、両親の記憶を失っていたスモーカーの親代わりとして接していた。 無論、そこには筆舌に尽くしがたいほど感謝しているスモーカーだったが、あの自他共に認めるぐうたらな男との同一視は勘弁してもらいたい。クザンがどうかは知らないが、少なくともスモーカー自身は、ナマエの直系の部下になるべく猛訓練を受けた過去がある。 「…しかし、いつまで病室の世話になってるつもりだ。まだ50ちょっとしか生きてねぇくせに、もう仕事をリタイアするつもりか?」 ナマエと肩を並べて任務に就いたこともある。かつての日々を思い出して、近年のナマエの体調の崩れを慮った。 それについて言及したスモーカーに、ナマエは「ああ、実はな」と実にあっけらかんと答える。 聞かされたスモーカーの方が、暫くの間呼吸が止まってしまうぐらいに。 「病名は長ったらしくて失念したが、呼吸器官が壊死する病気に罹っていたらしい。 今朝方、余命はもって三ヶ月だと言われたな」 「…、ぁ…?…な、ん…」 「……そんな顔をするなスモーカー 余命を聞かされた時よりも、心臓が締め付けられるな」 腕を上げるのも痛むだろうに、ゆっくりとスモーカーの銀色の頭髪を撫で付ける。 スモーカーには、嘘を吐くなと言える余裕はなかった。そもそもこの男は、どれだけスモーカーをからかおうとも決して嘘や虚言の類は吐かない。ならば、医師の方はどうだ。ナマエの再起を妨げようとした理由による虚実ではないか。いや、その線も薄い。そんな事をして医師側になんのメリットがある。 ならば、ならば、それは―― 「…スモーカーの顔を見て、ようやく事態が深刻であることに気付いたよ。 そうかぁ……俺は、三ヶ月後にはもう此処にはいないのか」 なんと言う暴力、ナマエの言葉が、スモーカーの頭を横殴りに打ち付ける。 「……手術じゃ、もう治せねぇのか」 「…知らんよ、俺は。治せないから、残りの人生の日数を告げられたんじゃないか?」 「どこかの、島に どんな悪病でも治すことの出来る能力者がいるって聞いたことがある。そいつなら…」 「探して来てくれるって言うのか、スモーカー お前が」 「やってやる。ナマエが治るんだったら、仕事を他の奴に押し付けて飛び出してって行く」 「……そうか。ありがとうなスモーカー 優しい息子を持って父親冥利に尽きるぜまったく」 「茶化すな! ナマエ、もっと冷静になれってんだろうが! お前、死ぬんだぞ?病気でだ!海賊との戦いの末に殺されるんじゃなくて、こんな狭い海軍病室で死ぬことに…!」 拳を固く、強く握り締めながらスモーカーは激昂する。 ナマエは笑顔のような、無表情のような、何とも区別しようがない表情のままポツリと零した。 「…スモーカーは、俺に逝って欲しくはねぇか」 口先に力を込めて言葉を投げかける 「――あったりめぇだろうが!」 海の見える窓辺へと目線を向けたナマエが消え入りそうなほど低い声で「そうか」と言う。どっちを向いてるんだよナマエ、おれの方を向かねぇか。 「…俺も、逝きたくねぇなぁ…」 ――それは、 逝かないでくれと懇願する最愛の息子からの望みに応える為か、 それとも、――暗い夜の海でスモーカーを救ったように、 今この時も海で助けを求める人を助けると言う己の信念の為か スモーカーは、あの日の病室で本人に投げかける事が出来なかった問いを 物言わぬ冷たい海軍慰霊碑に向けて投げかけた。 無論、答えは返って来なかった。 彼の耳に聞こえてくる潮騒は とても静かである |