▼ あるいは恋人、あるいは
今朝からボスがいらっしゃらない。
社長室を訪ねてみても、空席のままで、傍らを通り過ぎようとしたボーイを捕まえて問い質してみたけれど、カジノの方にも顔を出してはいないし、会社でもその姿を見かけていないのだと言う。
誰に訊いても欲しい答えは帰って来ない。
なら、最後に頼るのはあの男だろう。
「――ねぇ ナマエ 少しいいかしら」
「ん…? あぁ、ミス・オールサンデー 一体どうしたんだ?」
君が俺を訪ねて来るなんて珍しいね? バロックワークスの建物内にある端の、端の、末端にある部屋の戸を開けばソファで寛いでいる男が顔を上げた。
社の諜報員であるナマエはボスであるクロコダイルから信頼を得ている人間の内の一人だ。性格は飄々としているが仕事ぶりが丁寧で迅速で正確だから、と気に入られている。何度か話をしたことがあるが、あまり嫌悪感は抱かない男だ。ミス・オールサンデーとにこやかに呼ばれたニコ・ロビンは、笑顔を絶やさないままに来訪の目的を告げた
「ボスを見なかった?」
すぐさま返事が返って来る。「いいや、見ていないなァ」…嘘を言っているようには見えない。この男でも駄目だったわね。ロビンは嘆息し、「そう、ありがとう」とだけ手短に伝え、部屋から退散しようとした。その背中にナマエの声がかかる
「頑張って」
何に対しての激励なのか。
もしかして、からかわれているのかしら?と頭を捻りつつも「ええ、どうも」と言い、今度こそ部屋を出た。
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オールサンデーが出て行った扉を見ていた目をテーブルの上のガラス瓶に戻す。ミルク缶のような形をしているガラス瓶には厳重に蓋がなされてはいるが、中に入っているモノにすればそれは何でもない拘束だった。
瓶の中には砂が入っていた
その砂が俄かに動き始める。ナマエは笑いながらそのガラス瓶を手に取り、固く締めてあった蓋を開けた。
一気に外界へと流れ込んだ砂が、ナマエの向かい側のソファの上へと腰を落とした
「リラックス出来ましたか? ボス」
「…ああ」
いつも身に着けているコートの裾から毛髪の先まで及んでいた砂から、元の姿に戻ったクロコダイルはゴキゴキと肩を鳴らし、懐から葉巻を取り出し口に咥えた。
クロコダイルは閉塞空間を好む性癖の持ち主だ。
他者からの侵害を受けない場所に閉じこもり、リラクゼーションの様な効果を体感するのが仕事の合間の日課となっている。
それは用意されている私室や個室ではなく、もっと小さなこのガラス瓶の中
溶けて砂となった体を瓶の中に埋めるのは至福の時だとクロコダイルは言う。
生憎、生まれてこの方自分の体が砂になると言う体験をしたことがないナマエにはガラス瓶の中に入ってリラックスすると言った行動の良し悪しも分からない。
が、こうしてたまにクロコダイルはナマエの部屋――滅多な事では人がやって来ないこの場所――に足を運び、そこでナマエの時間を拘束する
「信頼されてるんだよな」
「…何か言ったか?」
「いいえ、何も」
自分とこのボスとの付き合いは長い方だ。
設立当初からだから、十年来であることは間違いない。
こうして監視役を頼まれているのも、口に出された事はないがボスから信用されているからだと思えば気分はいい。ここで"ナマエ程度の人間がおれをどうこう出来るわけがないと思われている"と思うのはやめておく。多分こっちの方が有力説だが
「そろそろ仕事に戻られます?」
「…ミス・オールサンデーが嗅ぎ回ってるようだしな」
「嗅ぎ回ってるって……姿が見えないから心配してくれてるんでしょう」
「ハッ」
――くだらねぇことを言うな。
クロコダイルは分かりやすく不機嫌になった。他の者を擁護すれば、いつもこうだ。
仕様の無い人だよなぁ、とナマエは内心で呟く。顔は笑っていた
「それじゃあ俺も仕事に行きますんで…… あ、瓶はいつもの棚のとこに置いておきますよ」
「…あぁ」
久方ぶりの遠方への遠征任務だ。夕方には出発しなければならない。
そして何故かここで、クロコダイルがナマエの胸元に顔を近づけた。
「?」
身動きを取らず、ボスのさせたいようにさせていると、
クロコダイルは一度だけ鼻をスンと啜った。
「……ボス、今俺の匂い嗅ぎました?」
クロコダイルは答えない。無言のままに部屋を出て行こうとするのを 腕を取って引き止める
「…寂しいですか?」
「……莫迦言え」
「俺の匂い、忘れないでくださいよ」
「寝言も、大概にしろ」
――可愛い。
俺の前でだけ分かりやすく真っ赤になる貴方がとても愛おしい