近年稀に見る豪雨の夜
強い横殴りの風により周りに生えている背の高い木々は不安定に揺れている。
山頂の方では土砂崩れがあったようで、泥が流れ込み、川の水嵩は増え、濁った土色の水が流れていた。ナマエの棲み処である洞窟の傍を流れる川も増水し、氾濫を起こして洞窟の内部へと川の水が浸水して来る
「う、わ…!」
心配でとても眠られずに起きていたナマエが外の様子を確認する間でもなかった。
すぐに寝ているクロコダイルの身体を抱き上げて、その場から逃げ出した。後になって悔やんだが、毛布の一枚でも持って出ればよかった。流れが強くてもどうにか泳げる鰐の自分よりも、小さなクロコダイルを守ることに必死になっていて冷静な判断が下せなかった自分の浅いところが原因だ
ナマエの脛の辺りにまで及んで来ている水嵩と流れと、強い雨脚と風にどうにか抗いながら暗い道をひた走った。何処へとは決めていなかったが、ただ明かりのある方へと走る。 ナマエの腕に抱かれ眠っていたクロコダイルも、強い雨の音と身体を打つ水を感じて目を覚ましたようで、寝惚けた声で問いかけて来た
「…ナマエ?…な…ん…?」
「あ、あぁ大丈夫だよ ね」
暗い。夜と天から降りしきる雨のせいでクロコダイルの位置からはナマエの顔が見られない。 ん…と頷いて、クロコダイルは寒さに身体を震わせた。
これはいけない。ナマエは動かす足を早め、明かりの見える方――人間の住む近隣の町へと入って行った
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深夜遅くなのに街道に人の姿が疎らに見えるのは、それぞれの家の住人がこの酷い嵐によって目を覚まし雨避けの策を取っているからだろう。雨合羽などもう何の意味も成していない。 顔や腕をビショビショにしながらも一心不乱な姿を見せる中、何も雨具を着用していない大柄のナマエの姿は、すぐに他の人間たちの注目を集めることになった
「…ん?おい、アンタ合羽も着ずに何を……ひぃっ!?」
「あ…」
「こ、こいつ、鰐だ!!」
「ひっ きゃああああ!」
「う、うわあああぁあ!!」
親切で話しかけてきた屋台の店主は、びしょ濡れのナマエの顔を認めるや否や大きな悲鳴を上げた。 「気持ち悪い!」 「なんて不気味なんだ!」 「ど、どっか行けよ!」 その声に釣られ、同じく付近にいた人間たちも一斉に声を上げながらナマエと距離を取る。 そそくさと工具箱を片付けて家に持ち込んでしっかりと鍵を掛ける。 閂をも締める音があちらこちらから聞こえ、暗い街道にナマエだけとなった
いや ナマエとクロコダイル だけ、
バタバタバタ ガチャガチャ ガチャン ビュウビュウ ザーザー ぽつん
「……ナマエ…」
「……………うん」
腕の中からか細い声が聞こえてくる。いくらからだが大きいと言ったって、雨風すべてを凌げるようにはなっていない
こうなる事は予測出来ていたじゃないか。 健全な一般市民なら、こんな顔が鰐の大柄な生き物、誰だって怖がるに決まってる。 怖がられて、 叫ばれて、 心に痛いことを言われるから、だから人間と離れて暮らしていたんだ。 いつもなら、この程度の雨も風もどうってことない。水中でだって生きて行こうと思えば生きていけるし、誰もいない高台へ上るくらいなら簡単に出来る。 でも今日それをしなかったのは、ナマエ独りと言う状況じゃなかったからだ。
ナマエはフラフラと歩いた。腰の少し下から大きく垂れ下がった太い尻尾を地面に引き摺り、どうにか、どこか、とキョロキョロ辺りを見回した。
その視線の先に、明かりの付いていない一軒の店があった。人間がいるような気配は…分からない。寝静まっているのかも。それなら、そこの住民が起きてくる前に移ればいい。庇のあった屋根の下にナマエは身を置いた。ナマエの身体は大きすぎて、少し屋根からはみ出てはいるが、クロコダイルにとっては充分に安全地帯だ
そこで漸くクロコダイルを腕の中から解放することが出来た。ずっと窮屈で痛い思いをさせていただろう。ナマエの手も、腕も、胸板も、クロコダイルが触れていたところ全てがゴツゴツと隆起していて食い込んでいた筈だ
「……ごめんね、クロコダイル君 痛かったろう」
「………どうして、さいしょに言うのが謝罪なんだよばか」
「いや……だって、ね…」
クロコダイルにも聞こえていたに違いない。クロコダイルは罵声は聞いていて、気持ちの良いもの、だと思わない子どもだと思っているから。
雷が頭上で大きく音を鳴らし、すぐに稲光が見えた。近いなぁ…とナマエはボンヤリ考える。行き場もなく三角座りした膝の上に置かれているナマエの手に、そっと触れるものがあった。水で濡れている、小さなクロコダイルの手
「……ど、どうしたのかな」
「……また……」
「ん? ごめん、雷の音でよく聞こえなか…」
「また、あの家にもどれる?」
それはもしかして、飛び出して来た洞窟のことを指しているのか? クロコダイルの言葉の意図を掴みきれず、疑問符を浮かべるナマエはそこでようやく気が付いた。
クロコダイルの顔を濡らしているのは水じゃない。涙だ
「ここは、息苦しい。 あんな にんげんが沢山いて、反吐がでる。 もう、あの家にもどれなくなる? 水没したから、もう帰れないのか?」
ナマエからしてみれば酷く小さな身体を折り曲げて、しゃがみ込んでしまったクロコダイルは必死に伝えた。雨の音にも、雷の音でさえも遮ってこないように。隣にいるナマエによく聞こえるように
さっきまでの負の心が嘘のよう。 最初は成り行きで強引に押し切られた形で、厄介なことになったなぁとか、面倒な子どもに付き纏われちゃったなとか、色々思っていたけど、やはり人間――自分は鰐だが――、半年も釜の飯を共にすれば情の1つや2つ、生じるもので
ナマエは必死に言葉を選んだ。いつもつっかえてばかりの話し方は今は情けない。なるべく、この子を不安にさせないように言わなくては
「……ほ、ほら! あ、あんまり暗い顔してると、 食べちゃうぞー!!!」
「…、……」
「……なーん、てね……… はは、は」
えらい事をした
出だしからドモったし、自分で言うのも哀れだが多分、迫力が半端じゃなかったかもしれない。
思い切り歯を剥き出しにしてしまったし、丁度いいタイミングで稲光が上空に発生したものだからとんでもないアクセントになっただろう
失敗した……!!何やってんの俺ぇー!! 上げていた手を下ろそうとすれば、その手をガシっと掴まれた
「…は、」
「……クロコダイル君?」
「く、くく…くははっ、はは!」
「あ、あれ もしかして、笑ってくれてる?」
「だ、だって…!ナマエ、ナマエの顔、すげぇおっかない…!はは、はは、し、しかも、雷なって、ぎゃ、逆光に…!!くははは!」
すっごい 笑ってくれてる 初めて見た
突然のことに呆けていたナマエは、クロコダイルの笑顔を見ていると徐々に何だかこの事態全てがとても面白いことに思えてきた
はははは! 大きな声を上げて笑った 喉の奥をこんなに震わせて笑うのは久しぶりのことだ
(…あー、そうか。 安心させたかったのはクロコダイル君のことじゃなくて、俺自身だったのかも)
"安息" それはナマエにとって、一生縁のないものと思っていたもの
だがそれは今、クロコダイルとの二人の空間に確かに存在している
「……大丈夫だよ、クロコダイル君 洞窟が半壊になってようが全壊になってようが関係ない。 また二人で一から作ればいいんだよ」
「…ナマエが、ドモってない」
「あ、あれ?本当に?今俺ドモってなかったの?」
「ちゃんとスラスラ口にしてた」
「う、うわー恥ずかしいなー」
「何でだよ……… ふふ、それにしてもさっきのナマエの、顔……くは、はは…」
「お、思い出し笑いとかしちゃうんだねクロコダイル君って…」
明け方には、恐らく嵐も去っている筈だ。この空も晴れる。そうしたらクロコダイル君と手を繋いで帰るのがいい。 山の斜面は土砂が崩れていて子どもの足じゃマトモに歩くことが出来ないだろうからさ。 言い訳…いや、理由はこれでいこう。 きっとクロコダイル君なら、嫌がったりしないと思うから