硝子の向こうに見えるもの



「また眉間に皺寄ってるぜ」
 どこかで聞いた台詞を、少しだけ違った口調で囁かれて。
 不意に伸びた指先が、無遠慮に土方の眉間のあたりを軽く押した。
 そのままその部分を撫でるように指の腹が這い、だがその行動に逆に眉間の皺が深くなるような苛立ちを覚え。
「……何の真似だ」
 ような、ではなく実際深くなった皺を更に撫でる指先にむっとしたような声を発すると、返ってきたのは対称的な声音だった。
「いや、こうしたら取れねぇかなって」
 撫でてみてる、と当たり前のような口調で告げる男に数年前であれば激昂したろうが、今は流石に沸点も少しばかりは高くなった。
「余計な世話だ」
 離れろ、と土方は眉間に触れるその指を丁寧に摘み、すいっと銀時の体の方へと押しやった。
 そうして、再び持っていた新聞の記事へと目線を落とす。
 今朝の朝刊には、昨日発覚した、幕府高官と天人との癒着事件が大きく一面記事を仕切っていた。
 細かい文字を目で追い、だが不意にその文字がぼやけるような錯覚に襲われれる。
 自然、新聞を手に持った土方の腕は瞳から新聞を引き離した。
 それは、本能的にそうしたほうがよく見えることを知っていたからで。
 だが、そんな土方の様子を見ていたらしい銀時が、不意に小さく唸った。
「……お前さ」
「あ?」
「老眼じゃね?」
 思わず、先程とは違う理由で眉が寄る。
 そういえば先日、似たようなことを山崎にも言われた事を思い出し、思わず目を伏せる。
「……てめぇといい、山崎といい、……俺を馬鹿にしてんのか」
 少し離せば見えるのだから、別段問題はないと、そう告げる土方に、だが銀時は首を振る。
「いや、別に馬鹿にするもんじゃねぇだろ。特にお前は、今まで書類仕事とかで人一倍細かい字見っ放しだったんだし、老眼入っててもおかしくねぇだろ?」
 山崎だって、馬鹿にしたんじゃなく必要だから打診したんじゃねぇの、と。
 至極、真面目にそう告げられれば、流石に一瞬言葉に詰まった。
 確かに、銀時にしろ山崎にしろ、そんな理由で己を誂うような性格をしているわけではない事くらい、わかっている。
 だが、やはりその言葉の響き故か、老眼だと認めるのはどうしても抵抗があり。
「平気だ」
 少しばかり苦しいかも知れないと思いながらも再びばさりと新聞を広げる己に、だがその手から唐突に新聞が取り上げられた。
 驚き顔を上げる土方の前に、銀時が手を差し出す。
「はーい、ストップ」
「……は?」
 動いちゃダメよ、と少しばかり軽い口調で言いながら、銀時は土方から取り上げた新聞をばかりと胸の前で広げてみせた。
「見えるか? そこから」
 問われ、土方は銀時の意図に気づく。
 だが、こうなってはその質問を回避することも出来ずに、土方は渋々紙面に視線を向けた。
 紙面までは約一尺。
 恐らく普通であれば問題なく読み取れるのだろう。
 だが、本能的に身体を後ろに下げたい衝動に駆られた。
 もしくはもっと、限りなく近づけば焦点が合うだろうか。
 無意識に、瞳を細めそうになって慌ててそれをやめた。
 そんな、見えませんと体現しているような仕草をすることには抵抗を覚えた、が。
「……、少し、ぼける」
「うん」
 散々言い淀んで、だか認めるしかなかった結論にも、銀時は多くを言わずにただ少しだけ笑って。
「なんだよ」
 笑みの意図が解らずについ声に不機嫌さが交じる土方に、銀時は新聞をローテーブルに置くと、ソファから立ち上がり箪笥へと向かった。
 その二段目の引き出しにしまわれていたらしいそれは、千代紙の貼られた細長いケース。
 銀時はその中から、飾り気のない眼鏡を取り出す。
 一体何をと銀時の動向を目で追っていた土方は不意に戻った銀時に後ろから抱き込まれるような体制になり、狼狽した。
「っおい、」
「いいから、じっとして」
 耳元で囁く声は優しく、出会った時よりも少しだけ低さを増している。
 掠れたようなその声に囁かれる事に、土方は酷く弱い。
 動揺していることを悟られぬよう口を結ぶと、そんな土方の視界に、不意にガラスの板が滑り込んだ。
 驚き、だがすぐにそれが銀時によって掛けさせられた眼鏡だと気付く。
「おい……」
 これは一体と、問いかけようとしても銀時はまるで聞いておらずに。
「はい、もう一度」
 そうして、言葉通り再度目の前に広げられた紙面に目を落とし、土方は驚いた。
 先程のぼやけがまるで嘘のように、紙面がはっきりと見える。
 少しばかり度が強いような気もするが、それでも先程よりはずっと字の輪郭は整って見えた。
 しかも普通の眼鏡のようにきっちりとではなく、少し鼻頭に近い辺りに固定された眼鏡のお陰で、顔を上げれば遠くを見るのには裸眼を使うことが出来る。
「見える?」
「……あぁ」
 悔しいが、認めざるを得ないだろうと土方はため息混じりに頷いた。
 こんな所でくだらない嘘を付くほど、幼稚ではない。
 土方の肯定を聞けば、銀時はよかった、とすぐ土方の顔から眼鏡を取りさった。
 そうして、眼鏡のツルを丁寧に畳んで、元通りケースにしまう。
「下のスナックで昔客が忘れてった奴でさ。引き取りに来ないってんでちょっと貸してもらったんだ。オメェ、老眼入ってきてんのに気付いてなさそうだったから」
 掛けさせれば、きっと納得すると思ったと告げる銀時に、故意犯かと溜息が漏れるが、それを詰る気はない。
 確かにその位しなければ、己は納得しなかっただろう。
 自分の性格は、理解している。
「……おせっかいな奴」
 そんなふうに言いながらも、悪い気はしていないだろうこともきっと目の前の男はわかっているだろう。
「お前の事ならな」
 次いで耳に届いたまるで惚気のように甘いその言葉に、土方は思わず顔を脇へと逸らし俯いた。
 いくつになっても、この男の言葉に動揺してしまう部分だけは、全く成長しない。
 それが、いいことなのか悪いことなのかは、わからないけれど。
「よし、じゃあ今日の予定は決定。眼鏡屋回って、お前に似合うヤツ探そうぜ」
 その有無を言わない口調に、気づけば無意識の内に首は縦にふられていた。



*     *     *



「これなんてどうだ?」
 ひょい、と後ろから鼻先に眼鏡を掛けられ、土方は小さく唸る。
 鏡に写る己の鼻に乗っているのは、銀で縁取られたノンフレームの眼鏡だった。
 その外観は、通常のメガネと殆ど大差ない。
 老眼鏡というとどうしても年老いたものが身につける印象が強いが、やはり土方のように四十路に入った段階ですでに老眼を患っている人間も多いと、先程目の検査を担当してくれた店員が言っていた。
 なるほどこれなら普通の眼鏡と大差なくかけられるなと感じる、が。
「……よく、わかんねぇ」
「おめーほんとに物欲ゼロだよなぁ……」
 そんな事を言われた所で、本当にわからないのだから仕方が無い。
 元々誰かに何かを与える機会は多少なりともあったが、他人に何かをねだることなどついぞしたことがない。
 それは、この年になりもう十年以上の付き合いになる恋人――銀時相手とて、変わらない。
 銀時は律儀な男だから、貧乏の割に土方の誕生日には毎年何かしらのプレゼントを与えてくれていた。
 その事は素直に有り難いと思うし、銀時がくれるものならばとありがたく受け取っている。
 だが、土方の方からそれを望んだ記憶は皆無だった。
「習性みたいなもんだ」
 そうして、土方は自分の性格をそんな一言で片付ける。
 そも、人間の人格形成などは二十歳までにほぼ決まり、三十路過ぎては余程のことがない限り覆らない。
 四十も過ぎる己が、この年で突然甘えるようになればそれはそれで不気味がるだろうと、土方は思う。
 銀時もそれはわかっているのかそれ以上言葉は発しないものの、やはりどこかで不満に思っているのだろうか。
「じゃあ、俺が勝手に選ぶからな」
 言葉には僅かにその色が混じり、だが土方にとってむしろそれは好都合で。
 土方はあっさりとその提案に頷いた。
「あぁ、それでいい」
 大体、今の今まで散々様々な眼鏡をつけて外しては付けて外されているのだ。
 いちいち意見を求められてはいるが、もうとっくに銀時が選んでいるようなものである。
 それに。
「俺に似合うものは、てめぇが一番良く知ってる」
 だから、それでいいと。
 そう告げれば銀時が一瞬酷く驚いたような顔をして。
 だが、すぐにその顔はだらしなく緩んだ。
 しゃきっとしろと思う反面、そんな顔が好きなのもまた事実で。
 それじゃあ、と本当に楽しそうに眼鏡を選び出す銀時を見ていると、なぜかこっちまで顔が緩むような気分になってくる。
 時を重ねても、まるで変わらないそんな銀時が、愛しい。
 そう、素直に思える程度には歳を重ね、二人でここまできた。
 まさかこんなに長い時間を共に出来るとは、『生き急いでいる』と揶揄されたあの頃の自分からは、考えられない。
 だが、そんな自分の変化を悪くないものだと感じた。
 そうして、幾らかの時間が経ち。
「おまたせ、土方くん」
 顔を上げれば、手に数種類のサンプルを持った銀時が笑っていて、早速その内の一つが目にかけられる。
 そうして、鏡の方へと顔を向かせられた土方を、銀時は少しだけ考えるように眺めた後、それを外した。
「んー、やっぱこれは色が強いか……」
 まぁ、似合ってるといえば似合ってるけどー、などと呟きながら次に掛けられたのは、今度はシンプルな半フレーム。
 硬質なデザインは悪くないものだと思ったが、近代的なフォルムは着流しには浮いてしまう。
 また暫しそれを眺め、最後にかけられたのは少しだけ型が珍しい、アンティークのような色合いのもので。
 セピアに近い、だが浮きすぎず強調もしすぎないモダンな色合いは、今土方が身につけている藍の着流しにも綺麗に溶け込んでいる。
 それに作りがいいのか重さを感じさせず、長時間付けていても疲れることもないだろうと感じた。
「……これ、いいな」
 そうして、初めてぽろりと口から零れた呟きに、銀時が鏡の向こうで心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「だろー? 俺も今、やっぱこれいいなぁ、って思ってたとこ」
 似合う似合う、とはやし立てる銀時に、脇に控えていた店員も本当に、とその意見に同調した。
「とてもお似合いですよ。ただ、そちらは受注生産品なので、用意に少しお時間をいただきますが……」
「構わねぇよ。急ぐもんでもねぇし」
 申し訳なさそうに項垂れる店員に、土方はサンプルの眼鏡を外し丁寧にツルを折る。
 そうして、銀時が持っていたニつのサンプルと一緒に店員へとそれを返し、席を立った。
「じゃあ、支払いは……」
「あ、俺が払います。いくらです?」
「は!?」
 だが、当然のように財布からカードをだそうとした土方を制するように、銀時が己の懐から金の入った封筒を取り出したことに、土方は酷く狼狽した。
 まさか、初めから奢るつもりであれやこれや選んでいたのだろうかと、土方は己の所業に焦る。
 そうとも考えずに選んだ眼鏡のフレームは銀時の普段の生活水準から考えれば軽くゼロが一つ多いもので。
「お、おい。いいって、無理すんな」
 流石にこれはと首を振る土方に、だが銀時はいーのいーのと言いながら封筒から万札を数枚取り出した。
「たまにはいいカッコさせろって」
「いいカッコって、そういう問題じゃ……!」
「そんなに心配しなくても、銀さんだってもういい大人だし」
 恋人にこの程度のプレゼントくらいなら、何とか買ってあげられるようになったんですーと言う銀時に、土方は迷った末、今年の誕生日は少しばかり奮発してやろうなどと心に決めどうにか折り合いをつけた。
 なにより、こんな店の中でいつまでもどちらが払うだなんだと喧嘩を始めれば店は大迷惑だろうから。
 おそらく銀時の中では眼鏡を買いに来ると言い出した時点で決まっていたことなのだろう。
 それに気付きもせずに、痛い出費だったのではないかと土方は伺うように銀時を見た、が。
「では、丁度頂きます」
「ありがとね、よろしく」
「承知致しました。こちらが受取証になります」
 支払いをしている銀時の、その横顔が余りに幸せそうで。
「はい。じゃあ、今度の土曜に一緒に取りに来ような」
 こちらへと向ける笑顔が、あんまりにも嬉しそうだったから。
「………、あぁ」
 文句らしい文句など総て押し流されたような気分で、土方は手に握らされた受取証を素直に懐へと仕舞った。





 二週間後。
「ふく、……顧問、入ります」
「応」
 未だに呼び名を三度に一度は間違える山崎の声に、土方は刀の手入れをしていた手を休め呼びかけに応じた。
 すーっと麩が開き、山崎が手に数枚の書類を持ち土方の方へと歩み寄る。
「今日の分の書類です。昼過ぎにまた少し増えるかとは思いますが……」
 そうは言うものの、今までの激務に比べれば微々たる数だ。
 書類を受け取り、問題ねぇよと笑いながら、土方は文机の引き出しを開ける。
 そこから取り出した漆塗りのケースを開けば、中には数日前に店舗で受け取った老眼鏡が入っていて。
 自然な動作でそれを目にかけ書類に視線を落とす土方に、山崎は何か微笑ましい物を見る目で土方を見つめた。
「………なんだ」
 だが、土方にしてみればそんな視線を向けられることが嬉しいはずはなく。
 ついドスの利いた声で問いかければ、山崎は慌てたように首を振った。
「い、いえ! お似合いだなぁと」
 今の着流しにも、きっと隊服にも似合いますよと、矢継ぎ早に告げる山崎に。
 土方は灰皿に置いていた煙草を燻らせ、ゆっくりと肺から紫煙を吐き出す。
 そして一言。
「当然だ」
 そう告げて、また書類へと視線を落とした。


 あの日、眼鏡を引き取るための受取証に書かれた受け渡し日時は、五月五日だった。
 それがまったくの偶然なのか、はたまたあの妙に小賢しい男が仕組んだ戯言なのかは、わからない。
 だが、わからないままで良いと、土方は眼鏡の位置を指先で直した。
 今更そんな事を問い詰めたところで、意味があることとは思えない。
 いくつになっても、あの頃のようにあの男に振り回され、驚かされ、そして鬱陶しいほどに愛されて。
 それでいい。
 それが、いい。
 きっとそうして、この先道が分かれるその時まで。
 そうであれたら、いいと思った。


END

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