その角を曲がったところで

PM7:20
腕時計を眺めて一息つくと、土方は疲れた眼を軽くこすりながら、おもむろにデスクを片付けパソコンの電源を落とした。
普段の帰社時刻よりも少しだけ早い時間。まだまばらに人が残るオフィスを出て、会社の外にある喫煙所の前を通り過ぎようとしたとき、営業部の女性の先輩から声を掛けられた。
「何?早いじゃない、金曜に。デート?」
「そう見えますかね」
「そう見えた方がいいんじゃない?アンタ良い男なのに浮いた噂一つも無くて、もういい歳なんだから早いうちにどーにかしないと私みたいに一生独身宣言する事になるわよ」
セーラムの煙草を綺麗に手入れされた指に挟んで、彼女はふっと微笑んだ。噂によるともう50に届くくらいということだが、スッキリ伸びた背筋や溌剌とした笑顔などはどう見ても30代半ばくらいにしか見えない。さばさばとしたその物言いと、先輩として彼女なりの後輩に対する配慮の言葉に、是でも非でもない微かな笑顔を返して会釈し、土方はその場を後にした。

デート、なんて久しぶりに言われたな。
電車に乗り込むと、ふと土方はそんなことを思った。そもそもどういったものが所謂「デート」なのか、こんな歳になっても未だにその基準が良くわからないが、ここ半年、大体2週間に一度くらいの割合で、金曜の夜には決まってこの時間に会社を出る。会議などではない限り、どれだけ仕事が残って居ようが、すぱっと残りを来週にまわして8時にいつもの場所に着くように仕事を終えた。まるで浮かれている。これじゃデートかと言われても仕方がないかもしれない。

「よー。お疲れ」
駅の改札を出ると、いつもの見慣れた顔が聴き慣れた声で土方を迎えた。人目を引くハッとするような銀髪に、対称的などこか気の抜けたような眼。その顔も声も、10年前と何ら変わらな過ぎて、半年前、偶然再会したその時は、まるで当時の幻を見ているのかと思って驚いた。それをこの男に言ったら、「お前だって全然変わってねーよ」と、笑いながら、彼、坂田銀時は言った。

「わり、待たせたか」
「いや、俺ちょうどさっききたとこだし」
「そうか。今お前んとこ年度末とかで忙しかったりするんじゃねーの?」
「んーまぁ忙しいっちゃ忙しいけど、だらだら仕事するよりは短期集中型だから俺」
「集中して仕事してるとこはその顔から想像できねーけどな」
「おいこら、なんだとテメー」

10年以上前、土方と坂田は、所謂そうゆう意味で付き合っていた。大学1年の春に知り合い、2年になる前に付き合い初めて、3年間。4年生の冬、坂田の就職と、土方の院進学が決定し、二人が大学を卒業する直前まで。
別れてからは互いに連絡を取ることも無く、当時共通の友人にも二人の関係は秘密にしていたため、たまたま友人と会って学生の頃の話しになっても「元気そうだ」と言った情報しか入ってきていなかった。別れたその日から、もう多分会うことも無いんだろうな、なんて意識の底で感じながら10年が過ぎた。
まさか半年前に取引先のパーティーで再会するなんて、思ってもみなかった。

「へい、らっしゃい・・って、なんだまたお前らか」
駅から少し歩いた所にある小じんまりとした昔ながらの居酒屋の入口を入ると、中の店主が威勢のいい声で出迎えた。
「何だってなんだよ。せっかくこんなちっさい店に来てやってんのに。なぁ土方」
「予約してねぇけど入れるかな?」
「はは、どーせお前らが来ると思って空けといたぜ。奥んとこ、勝手に座ってろ」
「ワリィなオヤジ」
そう言うと、店主は豪快な笑顔を見せて「いっぱい飲んで貢献してけよ」と言った。
人の良さそうなその顔の目尻には深い皺が刻まれて、頭髪にはぱらぱらと白色が混じっている。大学時代に二人でよく通ったこの店は、当時から店主はこんな風に豪快で優しくて、若い二人の世話をよく焼いてくれた。
別れたあとはなんとなく足が遠のいてしまい、今回の再会でここにもほぼ10年ぶりに訪れ通うようになったのだが、10年間音沙汰もなく挨拶に来る事も無かった当時大学生のガキの顔を、この店主はしっかりと覚えてくれていた。
10年。あの頃と同じく豪快に笑い優しく世話を焼いてくれる店主は、ほんの少し歳を取った。

奥のカウンターに腰を付けると、とりあえず二人は生ビールと枝豆と唐揚げを頼んだ。
「何かさっきまでさみーさみー言ってたのに、やっぱ仕事の後ってなるとビール飲みたくなるな」
「仕事の後関係無くお前は大抵ビールだろ」
「そうゆうお前だって。あ、あとでこれも食いたくねぇ?」
「ああ、うまそうだな。あ、でもこれもこないだ美味かったしな」
「にしてもこないだは調子にのって食いすぎたな。腹膨れ過ぎて帰ってからなかなか寝れなかったし」
「昔のようにはいかねぇな。30過ぎると胃も歳をとるんだってことを実感したぜ。」
「驚くよなぁ。俺なんてまだ25の気分なのに」
阿保か、と小さく笑って、土方は横目でちらりと坂田を見つめた。
 何気ない言葉の端に今を感じる。
俺は、25のこいつを知らない。

そうこう話しているうちにビールとつまみが運ばれてきて、二人は「お疲れ」と言い合い乾杯を交わした。
10年前、あれだけ激しく感情をぶつけ合い、傷付け合い、泣いて、互いにぼろぼろになるような別れ方をしたと言うのに、10年ぶりの再会はひどく穏やかだった。当時の事を思い出す、と言うよりは、自分の意識ごと10年前の当時にタイムスリップしたかのような感じで、まるで、通い慣れた賑やかなキャンパスで昼休みにばったり出会ったときの様な感覚だったからかもしれない。「久しぶり」といった、本来再会時に交わすべき言葉よりも先に、「今晩飲みに行かないか」という言葉がどちらからともなく発せられた。きっと、奴もおなじ感覚だったのだろう。

「今日さ」
「ん?」
「会社出て来る時、デートかって言われた。女の上司に」
「は?どんな浮かれ具合だよお前」
「浮かれてねぇよ。・・俺がいつも金曜の夜だけ早く帰るからじゃね?」
「何?お前普段はずっと仕事仕事なの?」
「んだよ悪いか」
「仲間と飲みに行くとかさ」
「たまにあるけど同期はみんな部署ばらばらだし、もともとうちの社風自体非体育会系っつーか。去年部署異動になってからはまわりみんな上司ばっかだから堅苦しいっつーのもあるけど」
「ふーん・・」
じゃあ、女は?
と、坂田が心の中で呟くのが聴こえる様だった。
再会し、こうして頻繁に飲みに行くようになって、仕事の話しやプライベートの話しは沢山しているのに、その部分だけは暗黙の了解のようにお互い触れない。指輪はしていないから、おそらく互いに結婚はしていないのだろうとは思うが、今特定の相手はいるのかとか、最近どうなのかとか、そういった話題に触れようとしないのは、逆にそれが気になっているということで、気になっているのに触れられないのは、二人とも「実は」と言われるのが怖いからだ。
坂田と別れてから、土方自身、今までずっと一人だった訳ではない。その間何人かの女と付き合ったりもしたが、長くて1年持てばいい方。付き合って1年程経つと、自然と距離が出来始め、自然と関係が消滅した。決して不真面目な気持ちで付き合ったつもりはないが、本気で好きかと訊かれたら、もうあの時以上の感情を他の人に対して抱ける自信はない。
こいつさえ居てくれるなら、他には何も要らないと、本気で思っていた。

「はいよ、お待ち」
威勢のいい声とともに、突然店主が土方たちのテーブルにおでんの皿を置いた。
「え?これ頼んでねぇけど」
土方がそう言うと、店主はニカッと笑って「サービスだよ」と言った。
「いいの?」
「残りもんだしな」
「サンキューおやじ」
ビールをおかわりし、出されたおでんを二人で摘まむ。どうする、といった確認や断りも特に無く、自然におでんのねたを半分ずつにして取り分ける坂田を見ながら、店主がふっと微笑んだ。
「しかしお前らは相変わらずだな」
「え?」
「そういや確かお前らがはじめてこの店来たのもこのくらいの時期じゃなかったっけか」
「うそ、覚えてんの?」
「当たり前だろ。こんな店に珍しく若造二人が来たかと思ったら、仲が良いんだか悪いんだか、喧嘩みてーにぎゃーぎゃー騒いで飲んで、仕舞にお前さんは潰れちまうし」
お前さんは、と言って店主は彫りの深い優しい眼を土方に向けた。
あの日の事は、もちろん忘れるはずがない。こいつと付き合うことになった、その日だ。その日、土方の方から坂田をこの居酒屋に誘った。
何故この店にしたのかはよく覚えていない。ただ当時の自分達のアパートのちょうど真ん中くらいの距離にあり、大学からは若干離れていて、知り合いの学生なんかはあまり来ない様な店だったからだと思う。この日に、全てを伝えてスッキリしようと思っていた。出逢ってから約1年、友達だと思っていたのにいつのまにか自分がこの男に向ける感情が友情では無いことに気が付いて、それでも居心地の良いその関係を壊すのが怖くて、何もできなくて、気持ちは膨らむ一方で、ただ苦しくて、限界だった。
もう何だっていいからとにかく気持ちを伝えようと決心した土方は、慣れない日本酒にまで手を出して、次から次へと酒を飲んだ。卑怯な手段だとは思ったが、とてもしらふでは言えないと思った。それでも、どんどん火照っていく身体とは反対に意識は妙に冴えていって、いつまで経ってもたった二文字のその言葉を切りだすことができず、気付いたら店を出る頃には一人で歩けないような間抜けな状態になっていた。

「あん時はお前が背負って行ったんだっけか?」
「そうそう、いつ頭の上で吐かれるんじゃねぇかとひやひやしてた」
「ははは、真っ赤になって相当酔っ払ってたもんな、こいつは」
「ポケットから部屋の鍵出すのもやっとでさ。で、着いたら俺水用意してやったり上着掛けてやったりして」

潰れた土方をベッドに連れて行き、コートを脱がせて壁に掛け、水を飲ませたところで坂田が言った。
ずっと自分が言えなかった言葉を言ってくれた。
多分、いつもと様子が違う自分に気付き、見るに見かねたのだろう。こいつは、優しい男だから。

「懐かしいねぇほんと、お前ら全然変わんねーから何か嬉しいや」
そう言って店主はカウンターの中で水の様な酒をぐいっと煽った。
多分この人は、あの頃から、全部気付いていたのだろう。自分達がそうゆう関係にあった事も、何故二人とも10年もここに立ち寄る事が出来なかったのかと言うことも。そして、勘違いしている。自分達は決してよりを戻したわけではない。あの時と同じようにここで酒を飲み交わし、くだらぬ事を喋って、相変わらず仲がいいのか悪いのか分からぬ様な喧嘩ばかりしているが、あの頃と今の自分達は違う。
酒を飲む理由も、喧嘩をする意味も、店を出てから掛ける言葉も、違う。
もう、恋人同士じゃない。
この10年、もしもといったことを何度も考えた。
もしも自分がもっと素直になれていたら。ちゃんと気持ちを伝えられていたら。もしもあの日自分が部屋を出て行かなかったら。もしもあの時コイツが引きとめてくれていたら。
だが、「もしも」なんて考えた所で、それらは何の救いにもならない。現実は、今でも自分は素直になれないし、実際に10年という時間が流れ、自分達が恋人同士であった時間は確実にあの時止まった。

こうして再会できたことだけで奇跡なのだ。
止まった時間を再び動かそうなんて思わない。例え互いがいつか他の人と一緒になろうとも、ずっとこうして下らぬ話しをしながら酒が飲めるのであればそれでいい。
もう傷つきたくないし、傷つけたくない。他には何も要らないからと言ってしまうには自分達は色々なモノを抱え過ぎて、無我夢中で全力でぶつかっていけるほど、もう強くはない。

「・・変わりましたよ。もう俺らも30超えたし」
「ようやく男の花盛り到来じゃねーか」
「おやっさんはまだ若いなぁ」
「まーな。お前らくらいの世代にはまだまだ負けねーように踏ん張ってるとこよ」

あの頃、卒業が近づくにつれ、ばらばらの進路に不安を抱き、どうしたらずっと一緒に居られるのかをずっと考えていた。こいつが傍に居てくれるなら何だっていいと思った。仲間も多くてなにかと輪の中心になる様な男だから、行動を制限するような束縛も一切しなかったし、重いと思われたくないから自分から気持ちを素直に吐き出したりもしなかった。心の中ではあれもこれも聞きたいのに、知りたいのに、束縛も独占もしたいのに、何も気にしていないふりをした。
好き過ぎた。
こいつがそんな自分の態度に傷ついているなんて事も気付けなかった。

「あ!」
と突然店主が大きな声を出して、店の端に置かれたテレビのチャンネルを切り変えた。小さなテレビ画面に映っていた大衆向けクイズ番組が、野球中継に切り替わる。
「なんだ野球かよ」
「なんだじゃねーよ。今日開幕戦なんだぞ。あーもう6回まで行っちまったか」
悔しそうに頭を掻く店主を眺めながら、土方は2杯目のビールを飲みほした。今日は少しだけピッチが早いかもしれない。自分でそう思いながらも、再びビールを追加した。すると、負けじと坂田もジョッキを空けて、「生、二つね」と横から口を出す。
「おやっさん、どっちのチーム応援なの」
「決まってんだろ、カープだよカープ」
どこがどう決まっているのかわからないが、店主は赤いユニフォームの方を応援しているようだった。坂田も土方も、スポーツは好きなほうだがどちらかというと野球よりもサッカー派であり、プロ野球中継もあまり観ない。特別好きなチームもない。
しかし、土方はこの店主がやたらと熱心に応援するこの赤いチームを、なんとなく応援したくなってきた。
「おめーらはスポーツ観戦とかしねぇのか?」
「あ〜、サッカーとかならたまに観たりすっけど、野球はあんまねぇかな」
土方がそう答えると、店主は腕を組んで軽く首をかしげながら、「ガキにはこの醍醐味はわかんねぇよ」と無邪気な顔で笑った。視線は先程から8割方テレビの方に向けられている。
「ガキって、俺らいくつになったと思ってんだ、おやっさん」
「俺からしたら、お前も隣の白いあんちゃんもまだまだガキなんだよ」
そう言われて、土方は運ばれてきたビールを無言のままゆっくりと口にした。口の中に、爽快な炭酸と仄かな苦みが広がる。この苦さを美味しいと感じるようになったのはいつの頃からだったか。
「ねぇ、野球の醍醐味って、何?」
「最後の最後まで何が起こるかわかんねぇとこだよ」



カラカラと軽い音を鳴らして店の扉が開き、「らっしゃいませ!」と威勢のいい声が店内に響き渡った。店主は、新しく入ってきた常連客の注文を聞きながら、一緒に野球の話しをしている。世代的には客も店主と同じ世代だろうか。今年のルーキーの誰がどうとか、今年はどこのチームが要注意だとか、楽しげに和気あいあいと、まるで子供の様な表情を浮かべて。
坂田が、ほんの少しだけ冷めたおでんの大根を頬張りながら、「なぁ」と声をかけた。

「野球、どっちが勝つと思う?」
「あ?正直どっちが強いのかもよくわかんねぇが」
「俺もだよ。去年どこのチームが優勝したのかも曖昧な記憶」
「あー…どこだったっけか。ここのチームじゃねぇよな多分」
「たぶんな。じゃ、お前この試合どっち応援する?」
「まぁ・・おやっさん贔屓なあの赤いチームじゃねぇかな。今んとこ1点差付けられてっけど」
「だよなぁ。じゃあ、もしあのチームがこの試合に勝ったら、もう一回俺とやり直してくんねぇか」

坂田はビールをゴクリと一口飲んでから、土方を見つめた。土方は、そんな坂田を見つめながら、箸で掴んでいたおでんの卵をそのままゆっくりと口に入れた。
その言葉があまりに自然すぎて、驚くことすら忘れた。

「なんだそれ」
「俺やっぱまだ好きだわ」

なぁ お前ら、奇跡って何か知ってるか

「じゃあ、って、意味わかんね」
「流石にこの歳になると勇気を出すのに勇気がいるというか。」
「運任せかよ」
「一生に一度くらいは、運命ってやつ信じてみてもいーんじゃねぇかなって思って」
「負けたら?」
「どうしようか」
「考えてねぇのかよ」
「じゃ、今日の飲み代俺が出す」

 それはなぁ、信じて願うことだよ


カキン、
と軽快な音がテレビからから聞こえて、一瞬店内がザワッと沸いた。
7回裏。2アウト。2対2。

向こう側で、店主と常連客が、盛り上がって楽しそうにああだこうだ野球談議をしながら無邪気な顔で笑っている。
隣で自分を真っ直ぐ見つめる男の顔を、半分横目でぼんやり眺めながら、ぐいっと大きくビールを煽ると、身体がじわりと熱くなった。
野球って、何回まであるんだったっけか。決着まで、あとどのくらいの時間がある。

あの頃と変わらぬ店と、この空気と、少しだけ年をとった大人達。
 この再会が、それだけで奇跡なのだとしたら。

「・・おやじ、次熱燗で。」

とりあえず俺は、浴びるほど酒を飲んでおこう。




《終》

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