流れ星には願わない | ナノ
肩書きにこだわる人って、面倒くさいと思う。友達とか仲間とかクラスメイトとかチームメイトとか。キャプテンや副キャプテンとか、リベロとかセッターとか、その名称でしか表せないその唯一無二の立場のことならまだしも、他の言葉で表せるものにどうしてそうこだわるのか。わたしは高校の子からの連絡に頭を悩ませていた。
「うああ、」
携帯なんて、合宿をしていたら寝る前にくらいしか触らない。触りたいけど触らないのではなく、触る暇を惜しんでまですることがわたしたちにはあるからだ。ぴろりん、と軽快な音が鳴って返信の催促のメッセージが入る。わたしはため息をついた。目が冴えてしまった。ふらりと部屋の外に出た。見渡した廊下には誰もいない。わたしは一度部屋に戻ってお財布を手に取り、自販機の方まで歩いて行った。野菜ジュース、ここにはないかな。
「あ、」
わたしがあげた声に菅原さんが振り返る。彼はわたしを視界に捉えてからひょいっと、片手を上げる。彼はすぐ近くの長椅子に腰掛ける。わたしもその隣に座った。人が一人入れるかどうかというくらいの距離は、近いようで遠かった。菅原さんは穏やかに笑った。その笑顔を見るだけでわたしは安心する。
「どうしたの、おなまえちゃん」
「あ、少し目が冴えちゃって」
「俺もだよ」
「どうかしたんですか」
「え、ううん」
特に何もないけど、ちょっと目が冴えちゃって。菅原さんはそう言って頭をかいた。わたしはその様子に首を傾げた。まあでも、そんな夜もある。わたしがなかなか眠れないのも特に理由があるわけではないし、彼がそうであるのと同じように、何もないと言うのが正しいのだろう。
「疲れてるだろ」
「菅原さんこそ」
「疲れてるよ、おなまえちゃんはどう」
「わたしもへとへとです」
へらりと笑って長椅子にもたれかかる。身体は疲れているのに眠れない。それがどれだけ辛いことか知らないわけではないけれど、こんなにきついことだったかと思ってわたしは目を閉じた。それでも一向に眠気はやって来ない。
「おなまえちゃん、」
「はい」
わたしはぱちりと目を開く。
「ねえ、本当に大丈夫」
菅原さんは少し怖い顔をした。わたしは見たことないその顔に内心驚きながらも笑った。平気ですよ、と言うと菅原さんは眉を寄せた。大丈夫じゃない、と言ったら彼はどうするのか。何かをしてくれるのか。そんな半ば捻くれた思考を巡らせながら、わたしはふう、と息を吐いた。ここには虫の鳴き声は聞こえなくて、ただ時間だけが流れているようだった。音も立てずにただ流れてゆく。わたしは投げ出した足をぱたぱたと揺らした。
「眠れないの」
「はい」
「何かあったの」
「何もないんです」
何もないから、眠れないのかもしれない。わたしはぽつりとそう言った。たまにいるじゃないか、すごく熱しやすくて冷めやすい人。その人たちって、わたしが思うに変化を求めているのだと思う。変化を追って熱く走って走って行ったのに、いつの間にか自分がそれを追い越してしまったかのように思えて興味を失ってしまう。わたしもそれに含まれるのかもしれない。興味を失ったわけじゃない。わたしはただ、行き着く先が分からない。何を目指したらいいのか、何に向かったらいいのか。音駒の手伝いも、正直難なくこなせている。100パーセントかと言われると違うかもしれないけど、そもそもその100パーセントが今は分からない。見本がない。手本がいない。わたしは躊躇と焦燥と困惑を手探りで掻き分けている。
「何もないのに、寝れなくて」
「そうなんだ」
「何もないからかな」
「何もないから、」
菅原さんはわたしを覗き込む。わたしは漠然と不安だったのかもしれない。何もないんだ、わたしには。何もない。やるべき仕事を終えた夜のこの時間、わたしには何もない。走って走ってこなして来た仕事がない。だから、これでいいのかと不安になっていたのかもしれない。
「じゃあ、おなまえちゃんに何かを与えてあげよう!」
菅原さんはわたしの肩に触れた。
「あしたの朝、早く起きて俺とパス練習をしよう!」
わたしは目を丸くする。どういう意味だ。パス練習をするとして、その約束によって、わたしが眠ることと何の関係が生まれるんだ。早く起きなければという意味なら、今のままで十分足りていると思う。
「おなまえちゃんじゃなくちゃ嫌だから、絶対に起きるんだよ」
「は、い」
菅原さんはそう言ってにかっと笑った。わたしはその笑顔を見つめた。眩しいなあ。日向くんより、ずっと眩しいよ。
「おなまえちゃんにしかできないことがあるからさ、」
「え、」
「俺らのサポートもそうだけど、音駒の手伝いだってそうだ」
みんなおなまえちゃんのこと、頼りにしてるよ。猫又監督だって、おなまえちゃんだからこんな大変なことでも頼んだんだよ。菅原さんはこちらに身体を向けた。わたしもゆっくりと彼の方に身体を向ける。少し近づくと膝がこつん、とぶつかった。わたしはそんなことは気にせずに菅原さんを見つめた。
「菅原さんは、」
「うん」
「わたしのどこが心配ですか」
「え、」
「わたしのどこを支えてあげたくて、どこが守ってあげたくなるの」
嫌味とか屁理屈とか褒めて欲しいとかそんなことはなく、わたしはただ疑問に思っていたことを尋ねた。どうしてわたしのことが心配になるのだ。支えて、守ってやろうだなんて思うのか。甚だ疑問だった。菅原さんはくすりと笑う。
「そういうところだよ」
気付いてないからだよ、と菅原さんは笑ってからわたしに少し近寄った。太ももと太ももが触れ合う。わたしは菅原さんの顔を見上げた。気付いていないって、何にだ。
「自分が傷ついてることにも、無茶をしていることにも、魅力的だということにも」
わたしはぐっと押し黙る。
「本当はおなまえちゃんが寝不足だって言ってたからさ、夜どんな気持ちで起きてるのかなって考えてたんだ」
菅原さんは宙を仰ぐように、少し上を見上げた。わたしはその横顔を眺めた。変なの。わたしの気持ちが理解できたところで何があるわけでもないのに。そもそもわたし自身、眠れない理由が分からなかったのに、彼に理解ができるのだろうか。わたしはそのまま同じように宙を仰いだ。ぼんやり眺めたクリーム色の天井は、何も語らず何の面白みもなくただただそこに存在していた。
「おなまえちゃんのことなら、何でも知りたいと思うよ」
わたしはちらりと菅原さんを盗み見た。
「菅原さん、」
「今日は無理に寝ようとしなくていいよ」
眠くなるまで話していよう、ね。そう言って菅原さんはまたわたしに近付いた。肩がとん、と触れ合う。暑い夏の夜なのに、その温もりは不思議と嫌じゃなくて、わたしはその横顔をまた見上げた。口にするべき言葉が何なのか分からなかった。ありがとうなのか、ごめんなさいなのか、もっと他の意気込みなのか弁明なのか。わたしはその言葉に甘えて黙ってその肩にもたれかかった。この人は、いつも優しい。
「そういえば今日旭がね、」
控えめの声で菅原さんは呟いた。ずんとまぶたが重くなる。眠れなかったのは、きっと不安だったからなんだ。これでいいのか、どうしたら心配をかけないのか、何故気遣われるのか。その解決の糸口を見出せた今、何だか気持ちが軽くなった気がした。心につかえてていた重くて苦いそれを嚥下したら、肩の力が抜けて、もう休んでもいいんだと思った。休んではいけない、そんな場合ではないと思って自分を間違った方法で戒めていたのだろう。菅原さんの声を聞きながら、わたしはゆっくりまぶたを閉じた。それに気付いたのか、菅原さんはわたしの身体をその胸に抱いた気がしたけど、もしかしたらそれは夢の中の話かもしれない。
「ゆっくりおやすみ、おなまえちゃん」
確かに聞こえたその言葉にわたしはふう、と息をついた。鼻腔をくすぐる優しい匂いに安心して、ぎゅっと握った拳をゆるめた。ふわりと身体を包む温もりが、いつまでもそこにあればいいのにと思った。
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