奥歯を噛み締め、流れ行く寛大な海を眺めながら精一杯集中してみたがだめだった。頭の中には今も深い霧が立ち込めていて一向に晴れる気がせず、窓の外の景色から視線を外した。

「カーテン閉めてもいいか?」
「ごめんなさい眩しかったですよね。えーと…」
「ああ遅れてごめん、おれはサボ。同じ景色って何だか飽きちゃってさ」

留め具を外すとふわりと広がったカーテンの端をサボが手繰り寄せると完全に窓が隠れた。西陽が差して水色のカーテンが光っている。

「ありがとう」
「いえ、お気になさらず」
「畏まらなくていいよ。ところでガレーラカンパニーに勤めてるなんて入社するのにかなり努力したんだろ?ちゃんと休みが取れて旅行できるだなんて羨ましいな。具合はどうだ?」
「ぼんやりするけど大丈夫」

サボはナマエを食堂車まで引っ張って行こうとしたが食欲が湧かずその場に留まる事にしてやけに嬉々とするサボの背中を見送った。サボは私よりも私を知っている。何故知っているのだろうか。そうか、このバッグだ!身元確認の為に中を確認したであろうハンドバッグを勢い良く開けた。シガレットケース、長財布、化粧ポーチ、ボトルのままの香水、そしてガレーラカンパニーのロゴが入った社員証を見付けた。ガレーラカンパニーといえばウォーターセブンにある大きな造船会社だが自分が船大工とは到底思えない。事務員として働いているのだろう。ファスナー付きポケットを開けようとした時、目の前にサボがドカッと座ったので膝の上に広げていた物を慌ててバッグに押し込んだ。

「早かったね。お目当ての物は買えた?」
「これからプッチへ行くっていうのにここで満腹になってちゃ元も子もないと思って飲み物だけ買ってきた。ナマエの分の炭酸水も買ってきたから良かったら飲んでくれ」
「あの、本当にありがとう。あと何分くらいで着くのかな」
「三十分ちょいだな。到着は五時半だ」

それからサボはずっと喋り続けていたのだがそれは浮かない表情をしているであろう自分を元気づける為だとナマエは気付いた。受け取った蓋の開いた瓶を傾けると今度は冷えていて、強い炭酸の刺激で心が軽くなった気がした。

「プッチへは旅行しに?」
「残念ながら仕事だ。時間があったらどっか有名所でも立ち寄れればいいんだけどな」

諦めたようにしんみり言うサボはあまりにも突然眠ってしまったので急いで再びバッグの確認を再開した。ウォーターセブン発プッチ行きの切符とスナップ写真、ファスナー付きのポケットにはホテル・ブルゾンへの行き方の下に伝言を殴り書きしたメモが入っていた。

「"おれとアイスバーグさんに超美味いもん買ってこいよ。特に辛口の酒とつまみ忘れんな。他の奴らはどうでもいい。パウリー"…アイスバーグにパウリー?……誰だろう」

溜息を吐いた。分かっている事は私はプッチへ旅行をしに来たガレーラカンパニーで働く女という事だけ。スナップ写真と社員証に写る自分の顔を見ても記憶は全く蘇らない。気を落ち着けようとすやすやと寝息を立てるサボを見た。サボは親切にしてくれるが自分が記憶喪失だなんて打ち明けられない。きっと大事になってしまう。怯えたり感情的になってもどうにもならない。頭を打って記憶をなくしたのは私が初めてではない。気を楽にして焦らないようにすればきっと何もかも思い出せる。身元がはっきりしているだけ幸せだ。目を閉じるとそのまま眠ってしまった。

「着いたぞ」

優しく肩を揺すられ微睡みから浮上した。列車は駅に滑り込むところでスピードが落ちている。「荷物持つよ」というサボの言葉に甘えてトランクケースを預けてホームに降り立った。駅員に切符を渡し、駅の出入り口から目の前にある噴水まで無言で歩いた。サボがトランクケースと、コートのポケットから出したメモをナマエに手渡した。

「友人が運び込まれたっていう病院の住所と電伝虫の番号を控えたメモを医者から預かってたんだ。それじゃ、おれはこれで」
「ここまでありがとう。お仕事頑張って」
「ああ。もしかしたら偶然ばったり会うかもしれないな。良い旅を」

ここまでサボをすっかり頼りにしていたナマエは夕日が浮かぶ方向へと足を進めるサボの姿に一瞬ひどく心寂しく感じたが、カバンに放り込まれたメモを頼りに一先ずホテルへ向かおうとすぐさまサボとは逆の方向へ歩き出した。後ろからじっと注がれるサボからの視線には気付かない。


  

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