虫の心臓 04



 いつのまにか眠っていたのか、気づくと尻にはなにも入っていなかった。
 代わりに腹が張ってすこし痛い。
 喉は相変わらずからからに乾いていて、口を開くだけでべりべり音がしそうだった。
 ベッドのそばにいた兄が、気配に気づいたのか横目で振り向く。
「これから五日間の休暇なんだ」
 その言葉を理解した瞬間、すっと体温が下がった。
 それでも澤井は表情を変えずぼんやりと兄を見る。
「うれしいだろ、理智」
 微笑んでよばれる名前に怖気が走る。
 兄が彼を名前で呼ぶのはろくでもないことを考えているときだ。
「五日間全部、お前のために使ってやるからな」
 やさしく髪をすかれ、恐怖が澤井を支配した。
 はあはあと、自分の呼吸がおおきく聞こえる。
「会社は辛いんだよ。学生はいいよな、自由で。お前がうらやましいよ」
 そういいながら兄は、ペットボトルを手に取った。
 喉の乾いた澤井の目は、飲み物の入ったそれに釘付けになる。
 すると兄がいま気づいたというように、手に持ったものを軽く振った。
「ああ、喉が渇いてるのか? 待ってろよ」
 キャップを取って兄がそれをひと口ふくむ。細めた目がなにをしようとしているのか物語っていた。案の定顔が近づき、口移しに水を飲まされる。他人の口内を経た液体は、生温く煙草の悪臭が混じっていた。
 なんどか笑いながらそれを繰り返し、最後は澤井の顔の側でペットボトルを逆さにする。ばしゃばしゃとベッドに落ちる水を、澤井は顔を突き出して必死で飲んだ。
「お行儀よくしなさい、理智。犬じゃないんだ、そんなことをしなくても飲めるだろう」
 いっていることはまともなようだが、していることはまともじゃない。
 兄は空のペットボトルを放ると、澤井の腹をするするとなでる。
 張った腹の上を軽く押されてクソがもれそうだった。
「兄さん」
 呼びかけると「ん?」と問いかけるように顔を向けられる。
 その目に笑みを見つけて、動かしかけた舌が凍りつく。
 トイレに行きたい。
 その欲求を兄が見抜いていることに気づいた。
「なんだ、理智。いってみなさい」
 また腹をなでながら兄がいう。
 トイレに行きたい。
 そういうのは簡単なはずだ。行きたい。すぐにでも腹の中のものを出したい。いやそれよりも、このままではここで出てしまう。もし出してしまったら兄がなにをいいだすかわからない。
 耳元でブンとうなる羽音の幻聴が聞こえる。
 澤井の体は小刻みに震えだしていた。
「トイレにっ、トイレに行きたい」
「そうだったのか、気づかなくてごめんな。理智」
 頬をそっと撫でて兄が立ち上がる。にこにこと機嫌よく見下ろす兄の顔に、よせばいいのに一瞬だけ澤井の胸に希望が浮かんだ。浮かんでしまった。
 だが、そんなものを与えてくれる兄ではない。
 兄は唐突にシャツに手をかけるとそれを脱いだ。細い体が光にさらされる。次にズボンをおろし、下着も脱ぎ去る。
「けど、悪いなぁ、理智。だめなんだ」
 にこにこ笑ったまま眼鏡を側の椅子に置いて、代わりにコンドームを手にした。
 封を切って投げ捨てられる袋を澤井の目が追った。
 腹の上をまたなでられる。
「栓をしてやるから、がまんしなさい」
 顔をのぞきこんで笑われて、ぞっと背筋がおののいたとき、ゴムをつけた性器が尻に無理やり押し込まれた。ひきつれてきれそうな感触と、中身を押し出そうと蠕動する腸内をさかさにまくり上げられる感触に叫びがくちから飛び出し、強い吐き気が襲ってくる。
「今度はさすがにきついなっ」
 はっと息を吐きながら兄がうれしそうにいった。
 押し込んだものを一気に引き抜いて己の股間を見下ろして笑う。
「ははっ、汚いな、クソがついてる」
 笑いながらまた押し込めるだけ全部押し込み、腰をちいさくゆらして中をかき混ぜる。
 引き抜き押し込まれたとき、ぶちゅぶちゅという音とともに尻からなにかがもれた。
 腹の中で便をこねられている、そう理解した瞬間に澤井はこらえきれずに嘔吐した。
「うぐぇっ、はぁ、げぇっふっ、あっ、あっ、げぇっ、あっんっあ、あ、あ」
 喘ぎなのかえずきなのかわからない音が口からもれる。吐くものもまともにないのか、喉の焼けるような胃液の味だけがせり出した。
「上からも出しちゃったのか。ダメな子だな」
 短いストロークで腰を打ちつけながら、そういって罰だというように腹を押す。
 尻の穴は開いているのに中身が出て行かない。中をぐちゃぐちゃにこねられて、冷や汗の出る違和感と、前立腺をえぐられる快感がいっしょくたに襲ってくる。苦しい呼吸の中でからえずきを繰り返すものだから、唾液がだらだら口の端から垂れていく。
「きもちいいだろう、理智。ずっとこうしていたいだろ?」
 くすくす笑ってそういわれ、返事ができなかった。
 痛いの代わりにイイということには慣れても、ずっとこうしていたいなんて、ウソでも言えない。
 くちびるを開いたまま震えていると、兄の目が冷たくなった。
「どうした、理智。こんな簡単なこともいえないのか? そんな子は、置いて行ってしまうよ」

 置いて行ってしまうよ――。

 ブンとまた耳元で羽音が聞こえる。
 胸が圧迫されたように苦しくなり、呼吸が難しくなった。
 縛られた手首をなにかが歩くくすぐったい感触がする。やわらかいものが無数に、尻のまわりと手首をはいずる。ブンブンと羽音がやまず、全身を我が物顔で歩き出す。
 ひゅっと喉がなって、奥からまた吐き気がこみあげた。
 目じりからぼろぼろと零れ落ちる涙が止まらない。
「兄さん、置いて行かないで。嫌だっ、兄さん。もっとして、もっと、あっ、げ、ぅっ、ああっ、もっと、兄さん。きもちいい、うっぇぐっ、ふっ、あっ、きもち、いいからっ、もっとっ、して」
 澤井は自分から尻を振って兄に媚びた。
 冷たい笑みで見下ろす兄の顔は無視する。尻からずるずると零れ落ちるものがなんなのかは考えない。矜持は忘れてしまう、どうせそれだけを抱えていても生きられない。これは気持ちのいいことのはずだと自分に言い聞かせた。
「理智は本当に、困った子だ」
 げぇげぇとえずきながら、きもちいいと繰り返す。
 だんだん本当に気持ちがよくなってきて、自分がなんなのかも忘れそうになる。
 ただ、うなる羽音だけは消えない。
 ブンブンと鳴る幻聴を聞いていると、自分を見下ろす平凡な顔が誰なのかよくわからなくなった。
「捨てないで。行かないでっ、お願いだから。あっ、きもちいい、すごいっ、イイっ。兄さんっ、兄さんっ」
 お願いだから置いて行かないで。
 最近誰かが同じことをいっていた気がする。
 耳障りな羽音をそのときも聞いた気がする。
 ――澤井っ、嫌だ。捨てないでくれ、なんでもする。だから、許してくれ、頼む。
 そんな懇願だった。愛を告げるような欲情した目が脳裏によみがえる。
 藍沢……。
 澤井は胸の中で、その名を呼んだ。
 敗北者として屈服する男。
 藍沢を切り捨てられない理由はわかっている。
 自分より優秀で取り澄ました相手が屈服するのを見たいからだ。いま澤井を犯している兄のように、成績がよくて周囲に笑みを振りまく男が、自分に屈服するのを見たいのだ。
 澤井は縋るように藍沢の名前を胸の中で繰り返した。目を閉じて空想に頭を逃がすと、快楽が強くなる。
 眼鏡も煙草もない兄の顔は、澤井の顔によく似ている。
 藍沢を犯しているとき澤井は自分が兄になったような気がすることがある。そうしていまは、自分が藍沢とオーバーラップする。
 自分を犯す兄と、犯される自分と、藍沢を犯す自分と、犯される藍沢がごっちゃになってまじりあい、どれが正しい感覚でどれが嘘なのかわからなくなってくる。藍沢が犯されていて、藍沢を犯していて、けれど澤井は犯されていて、兄がどこかにいる。兄などいなければいいのにそれはいて、耳元ではぶんと羽虫の羽音がする。
 羽音は切り替えスイッチのように、澤井の感情を恐怖へと塗り替える。
 捨てないで、捨てないで、捨てないで。
 繰り返す懇願は何年前のものか。
 夏休みのときだったのは確かだ。猛暑のつづくなか、澤井はこの廃屋でいまのように縛られていた。兄はひとしきり澤井を犯して、飽きたように家を出たまま戻ってこない。
 どれくらい戻ってこなかったのかはわからない。
 ただ、尻の下ではぐちゃぐちゃの汚物が垂れ流され、縛られた手首はまさつで皮が剥げていた。その汚物と皮の剥げた傷跡にハエがたかっていた。
 もうろうとした意識の中で、ハエが歩いたり皮膚にすいついたりする気色の悪いかゆみと、耳元でひっきりなしに羽をうならせていた音を覚えている。
 あのときは眠るのが怖かった。
 目を閉じると死ぬんじゃないかと思って怖かった。それとどうじに、目を開いて誰もいないのを知るのも怖かった。夜が明けるのも一日が終わるのも、生きているのも死ぬのも怖くて怖くてたまらなかった。
 それでもまだ、澤井は生きている。
 生きて、反吐とクソまみれになって兄に犯されている。

 あっ、兄さん。もっと、もっと、あぁぁぁ! イクっ、イクっ。

 ――結局これが、澤井理智の現実なのだ。






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