犬がmuffinと嗤う 06



 三日後、金海は平然とした顔で村尾の前に姿を現した。以前と変わらぬ高慢な態度に自分の感情を後悔したのは記憶に新しい。更にその翌日耳にした生徒が行方不明になったという事件は、その被害者の写真を見て彼に更なる不快感を抱く事しか出来なかった。
 それでも続く従僕の様な扱いに辟易しながらも諦観を覚えていたある日の事。

「…は?」
「だから、昨日。死んだそうですよ、会長」

 そう言えば昨日は珍しく早くに開放された記憶を脳裏に呼び出して、椅子に腰掛ける村尾の前でこともなげに立っている風紀副委員長の顔を見上げた。

「どうやら恨みを持った者の犯行だそうです。…まぁ、あの人恨まれすぎていつかこうなるんじゃないかって思ってましたけど」

 詳細を求められていると思ったのか、簡易的に報告する彼は続けて「大変失礼ですが正直僕は清々してます」と無感動のまま呟いた。自分の感情を表立って見せない彼にしては稀な言葉の棘に、村尾は返す言葉が現れないまま相槌を打つ。

「これで委員長もようやくあの男に振り回されずにすみますね」
「あ…あぁ…」

 呆然と若干嬉しそうにも見える彼の顔を見つめていると、漸く気付いたのか書類に落としていた視線を上げて小さく微笑む。元々村尾を心酔していた彼にすれば今回の話は願ってもなかった事なのだろう。

「じゃあ僕、この生徒会解散の書類を職員室に届けてきます。やっと学園の掃き溜め達を一掃出来て良かったです」

 清清しい空気を振り撒きながら一礼すると踵を返し退出する姿を視線で追う。扉の開閉音の後に漂う静寂な空間に一人取り残された村尾は、自分のいる空間だけが歪曲して別世界にいる様な夢心地な眩暈を起こして頭を抱えた。
 終わりは余りにも呆気なかった。

「はっ…」

 自嘲の息を吐いて、そう言えば金海の訃報を聞いてから呼吸を忘れていたと気付かされる。何度か咳き込んだ後自暴自棄に身体を背凭れに重く預けて上を見上げた。無機質な天井がまるですぐ傍まで迫り来ている錯覚を感じて手を伸ばす。届かない事など分かって、いた。

「今更、…どうしろって言うんだ」

 既に村尾の身体は、心は、習慣は、癖は、感情は、矜持は、思想は、生き方は、死に方は、金海の手によって歪曲的に捻じ曲げられていた。新しく造り変えられたと言っても過言ではない。それ程に彼の顔色を仕草を視線を伺っては憎悪とその裏に潜む感情を押し込めて従順の意を示していた。勿論彼はそんな事お見通しだと嘲笑われては村尾の驕りを吐き捨てるように笑った。嗤い、哂い、咲った。
 細められる目に哀しい色を滲ませながら微笑、した。
 村尾は目頭に集まる熱を感じて瞼を下ろし震える喉から悲痛な叫びにも似たか細い声を上げ彼を呼ぶ。

「裕也………っ」
「呼んだか?」
「…っ!?」

 間髪入れず背後から返ってきた言葉に思わず息が止まる。心臓を鷲掴みされた様な驚きに村尾の両肩は大きく震えた。
 恐る恐る振り返れば、昨日の別れから何も変化の見えない金海が開けっ放しの窓に足を掛け身を部屋の中に乗り出している。

「よっこらせ、っと」
「…お、お前…」

 未だ驚異の渦に取り残されている村尾を余所に、金海は長い足を床に落として近付くと椅子の肘掛に手を付き村尾の身体を自身の方へ向かせる。

「あぁ、死んだと思った?」

 醜悪に歪む顔が滑稽そうに嘲笑った。村尾は咥内に溜まった唾液を一呑みして、今から種明かしをするであろう口を見つめる。聞くなと警報を鳴らす脳髄は痙攣を起こしたかのように麻痺していた。

「ちょっとさぁ、俺を殺したい奴ってどれだけ俺を憎んでんのか知りたくて、適当に金で替え玉見繕ってこれ見よがしに一人で路地裏歩かせてみたんだよねぇ…。そしたら馬鹿みてぇに顔も確認せずナイフぶっ込んで、ヒィヒィ言いながらぐっちゃぐちゃにしてやんの。隠れて見てたけどマジ笑うの堪えるのに必死だったわ」

 よく回る口をまるで人形のようだと思いながら腹に淀み濁ってくる感情を抑え付ける。それでも憎悪の混じる瞳を金海は意も介さず細めていた瞼の奥にある眼球で舐るように見つめた。

「おまけにその後潰れた替え玉の顔の前でオナニーして精子ぶっ掛けてやんの。お前俺のこと好きなのか嫌いなのかどっちなんだよって…マジキチガイ過ぎて腹痛かったぜ」

 脳裏にその情景を思い浮かべているのか、恍惚とした頬が上気し上擦る様な声を上げる金海に村尾は堪え切れず立ち上がった。戯けた表情でたじろぐ彼の胸元を掴み上げると、引き寄せ眼前に濁る黒い瞳を捉えながら噛み付く様に吼える。

「…っお前は…!どうして…!」
「あぁ、後さぁ…」

 怒りや呆れでは表現出来ない程のドス黒く濁った感情が全身を侵食していくのを感じながら村尾は拳を振り翳したが、同時に小さく呟く目の前の男の声に訝しげな視線を送った。
 醜く歪められた瞳がほんの僅かな不安を混ぜて村尾を見つめる。

「俺が死んだら、あんたがどんな顔すんのか…見てみたかったんだよ」

 そう唇の端を歪めて笑う男は眉根を寄せながら自嘲して瞳を濡らした。醜悪に歪められた顔が笑い、嗤い、哂い、泣く。

「俺の愛は重いだろ?ダーリン」

 その言葉に重力に従った腕はそのまま宙を切り、落ちた。
 どう足掻いてもこの男には敵わないのだと理解して村尾は悔しそうに歯軋りすると、突き飛ばす様に金海から手を離し苦し紛れの悪態を付く。

「下衆が…っ」
「だからそれ、誉め言葉にしかなんねーよ」

 愉快そうに笑む彼を一瞥して大きな溜め息をつきながら、先程自覚した自身の感情を持て余している村尾は苦しそうに眉を潜めて口元に手を当てた。
 見てしまったものは、気付いてしまったものは消す事など出来なかった。

「で、流石にやらかし過ぎて親父にアメリカの寄宿学校に放り込まれることになったんだけど、あんたもついて来るよな?」
「断ってもどうせ連れて行くんだろう?」
「当然」

 人の死に対してすら悪びれもしない金海の人間性は最早清らかな程に黒く澄み切っていた。純粋なまでの悪意とその裏にある情愛に村尾はただ感嘆する。そしてそう感じる自分に吐き気と自嘲が漏れた。
 身一つのまま連れに来たらしい男はまた窓に手を掛けると顎を刳って口角を上げる。それに重い足取りで侮蔑混じりに追従する様を見せる村尾の顔を醜悪な笑みが覗き込んだ。

「なぁ、ダーリン。いつか俺にハニーって白々しく囁いてくれよ」
「言うか」

 間を置かずに答える村尾の眼前に歪められた目が哀しそうに微笑する。自業自得だ、と視線で罵れば閉じる瞼に長い睫毛を見た。

「言ったらお前は俺を捨てるんだろ?マフィン」

 嗤いながら代わりに伝えた白々しい蔑みの言葉はどうやら金海に意図が伝わったらしい。驚愕に開かれた目はやがて嬉しそうに細められると、耐え切れず腹を抱えて大声で笑い出す。

「ぶはっ」

 人目を気にして窓から侵入していた事を忘れたかのような金海の笑い声は、清清しい程に澄み切った空に向かって霧散して消えた。一頻り笑い終った彼の目には涙が滲む。
 苦しかったせいか恥ずかしかったせいか、どちらとも取れる頬の紅潮は次いで村尾の肩を叩いて綺麗な笑みを見せた。根底に残っていたのであろう僅かな純真を掬い取った様な、綺麗な笑みだった。

「俺、やっぱあんたのこと好きだわ」

 そう笑った金海の表情は、確かに笑顔だった。
 胸に詰まっていた憎悪と言う名の愛が混じり合う感覚をその胸に感じた村尾は、悔し紛れに彼に初めての口付けを落とす。
 それに笑い、嗤い、哂い、咲う男は常套句を口にしながら彼を力強く、抱き締めた。



end.






(*)backmain|next(#)


→ top
「#お仕置き」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -