犬がmuffinと嗤う 03 緩んだ空気が淀む部屋を一つの溜め息が落ちる。 役員達はそれにビクリと肩を震わせつつその音の方へ視線を向けた。頬をつき窓から外を眺める金海は視線をぼんやりと外に向けながら再度、溜め息を零し呟く。 「何か面白ぇことないの?」 その言葉に役員達は安堵の息を漏らしつつ緊張に凝り固まっていた身体を弛緩した。 金海は近しい者から尊信と敬畏の念を抱かれている。その実権力者である親の力と金で追従している生徒を釣り上げては中学時代に学んだ独特の遊び方を彼等に教えていた。外の世界にある意味で無知な彼等はそれに情景を抱き金海の理想像を自身の中で膨らませては信仰心にも似た感情で伺うように見る。そんな浅はかな彼等を見下ろすのは、金海にとってとても心地が良かった。 そして、同時に反感と敵も多い金海はそれすらも自身の遊び道具として扱う。他人は彼の事を屑や下衆と罵ってはその醜悪に浮かぶ憎悪を彼の前に晒していたが、彼の前ではそれすらも愉悦だった。むしろ、人が醜い感情を向けられる事に恍惚すら覚えていた。 追従してる中の一人が、沈黙を破る様に恐る恐る挙手しながらも身を乗り出し口を開く。 「会長、俺女不足ッス、死にそうッス」 「そこらへんの小さいの捕まえて掘りゃいいじゃねーか」 「バッカ、目ぼしいのは全部会長が捕まえて姦してんだろ」 一人の言葉を皮切りに他の役員達も次々に口を開く姿を金海はぼんやりと眺めながら、自身の中に感じる空虚さを埋める様に胸元を握り締めた。そう言えば最近その様な憎悪を向けられる事も減ったと脳裏に一人の男の姿形を思い浮かべる。 彼の事を考えただけで上がる熱は確かに恋、だった。ここまで情熱的な感情は最早初恋と呼べるのではないだろうか。それでも彼が自身に振り向く事のない絶対的な確信に、痛くなる心臓を鷲掴みにして嗤いたかった。因果応報だと罵ってその情を踏み躙ってやりたかった。漏れる自嘲に吐き気がした。 「最近女の方は釣れないんスか?」 「さーっぱり。つか、ちょっと派手にやり過ぎたかも。外でサツが動いてるらしいし」 役員達の会話を聞き流しながら、金海は淀んだ空間に耐え切れず立ち上がった。求めているのは怠惰に溢れた空気ではない。張り詰めた、緊張にも似たけれどもそれ以上に張り詰める憎悪と少しの情感が金海を刺し、同時に戸惑いに揺れる眼差しが遠慮がちに自分を見るその矛盾した彼の作り出す空気が、息が欲しい。 「…ダーリンに会ってくる」 そう一言残して金海は立ち上がり扉へ足を進めた。背中から聞こえた戯けた、茶化すような声に口角が無意識に上がる。 「虐めてくる、の間違いじゃないっすか?」 「あれが俺の愛情表現なんだよ」 間を置かず振り向き返せば目を見開いた役員が顔を歪めて笑った。 「おー、こわっ」 その言葉は金海にとっては至福でしかなかった。 □■□■□ 最上階と違い一階にある風紀委員室に向かう為階段を下り廊下の角を曲がった所で、金海は視線の先に目的の人物と見掛けない影を見つけた。 足を躊躇することなく踏み出し近付けば、他人にしては近しい距離で談話をする二人を確認して胸に濁った泥水のような嫌悪感が溜まる。 苛立つまま床に唾を吐けば、漸く気付いた二人が金海に気付きまるで気まずそうな空気を醸し出す。それが余計にジリジリと内臓を焼かれる様な吐き気を呼び起こし舌打ちした。 「おい、何勝手に俺以外の奴と許可なく話してんだ」 「…一般生徒の相談を聞いただけだ」 躊躇いながら小さく返された言葉は金海の満足する答えではなかった。 俯く小柄な生徒を嫉妬心露わに見下せば、小動物の様に小さく震えた肩が余計に逆鱗を刺激する。 「ふーん…」 金海は生徒に近付くと頭を掴み俯いた顔を上げさせる。不安に濡れた目とかち合い迫り上がる不快感に眉根を寄せた。 生徒は背は低く顔も別段優れた所のない平凡な男だった。けれどその怯えた表情が金海の心に引っ掛かりを覚える。 「お前、どっかで会ったことねぇ?」 「えっ、あ…いや…」 不意に脳裏のどこかでこれに似た顔を思い出し首を傾げる。 小柄で女性的な生徒ならばいざ知らず、この程度ならばわざわざ食指が動く事などない筈だ。記憶に残らない様なその容姿に中途半端だ、と心中で半ば八つ当たりをしながら掴んだ頭に力を加えた。 「なぁ、聞いてんだけ―――」 瞬間。 視界の端でぐらりと揺れる村尾を捉えて金海は意識をそちらに集中させた。傾き倒れ込む彼に手を伸ばそうとして、自身も突然訪れた痺れと脳髄に走る衝撃に足を縺れさせる。 「っ」 辛うじて腰に力を入れ踏ん張ると村尾の身体を支えそのまま膝を付く。受け身も取らず崩れるように落ちた彼に焦燥を感じて顔を覗き込もうと頭を下げるが、また訪れた先程よりも強い刺激に脳が揺れた。 振り返り睨み付けた先には先程の生徒が脅えた眼差しで金海を見つめている。 「ご、ごめんな…さ…っ」 状況は手に持つ道具で一瞬にして理解出来た。その様子を見るに恐らく彼自身脅されているのだろう。しかし金海は彼に唾棄の混じった眼光を向ける。 自身が害意に晒される事は厭わない。むしろそれさえをも悦と感じている。 けれど、村尾を巻き込んだ事はどれだけ言い訳と懇願をされても許すつもりなどなかった。ひたすらに嫌厭と憎悪を含めた顔で生徒を戒めと悔恨の情を含めながら見つめる。 赦すつもりなど、なかった。 (*)back|main|next(#) → top |