第三回プロット交換会 | ナノ

ハーメルンのワスレナグサ



 音が目に見えるようだった。
 誘い、惑わせ、狂わせ、十本の指先から巧みに繰り出される音色は街の景色を変えてゆく。そのさまはまるで戦っているようにも見えた。笛の音色とはこんな風であっただろうか、そもそも笛の音を多く聞いたことのないナマエにはわからない。

 笛吹き男のリヴァイはあっという間に街中の鼠たちを片付けてしまった。鼠といっても、小さな野ネズミのことではない。ある日突然マリアの街にあらわれ、人々に乱暴し、家屋を壊し、金品を奪い、狼藉の限りを尽くした悪党たちのことを鼠と呼称していた。気づいたら街中に住み着いていたからだ。鼠たちは多勢に無勢で、街の憲兵もすっかりお手上げ状態のところにあらわれたのがリヴァイだった。彼は笛ひとつで鼠たちを街から追い出せるという。ナマエも俄かに信じがたかったが、彼はものの見事にやってのけた。美しさすら伴って。

「さぁ約束だ。報酬ははずんでくれるって話だったな?」
「ああ、まったく助かったぜ。本当に笛の音で追い出しちまえるなんてなぁ。すごいやつだよ、いや感服しちまう」

 大げさに笑いながら手を叩いてリヴァイを褒めたのは、ナマエの叔父でありメイヤー街の大地主のジークだった。

「俺はあまり気が長い方じゃねぇ」
「そう急かすな。こっちもやっと鼠がいなくなってこんなに良い気分は久しぶりって話だ。先に子どもたちの様子を確認させてくれ」

 ジークが「おおい」と声をあげる。ナマエを呼んでいた。

「ナマエ、教会にかくまっていた子どもたちを出してあげるといい。大人たちは俺が声をかけておくから」

 鼠たちが街で暴れはじめてすぐ、ジークは教会の大きな門を補強して、要塞のようにしていた。教会の中だけは安全だったのだ。
 門を開くと子どもたちは外へ飛び出し、太陽の下を走る。ナマエも嬉しかった。すべて笛吹きの男、リヴァイのおかげだ。ジークはリヴァイに報酬を払うと言っていたが、ナマエもきちんとお礼を伝えたかった。子どもたちと一緒に街の噴水広場まで走って戻ると、リヴァイとジークが立っていた。ふたりはなにか話し込んでいる。

「ジーク叔父さま……」

 ナマエが声をかけようとすると、ジークはてのひらをナマエの方に向け、こっちへくるなとジェスチャーする。リヴァイは怪訝そうにジークをにらみ、それからナマエの方もにらんだ。彼の美しい笛の音に反して、表情も口調もどちらかというと悪党に見える。

 ついさっきまで、蠱惑的な笛の音が響いていた街には子どもたちの笑い声で溢れている。それから噴水の音。ナマエは水音とジークとリヴァイの声を耳の中でかき混ぜながら、話が終わるのを待つ。

「見たらわかるだろ? 街はこんなありさまでみんな余裕がない。リヴァイ、お前は笛ひとつでなんだってできるだろう。ここは人助けってことで、な?」
「だったら、そうだな。てめぇらの大切なものを代わりにいただこう」

 茶色のベストに真っ白なブラウスを着ていたリヴァイは、ベストの腰元に下げていた笛を取り出した。

「おいおい、その笛を取り出してどうするってんだ兄弟。お前はこの街を救ってくれた……」

 ジークがリヴァイの肩を叩こうとした瞬間、笛の音が響いた。ナマエは耳よりも先に視覚が奪われたような感覚になる。まっすぐ、音が道しるべとなってリヴァイしか見えない。彼の切れ長でするどいひとみが光のようで、そこにしか進めないのだ。ああ、鼠たちはこんな風に彼の音に囚われ、身動きひとつできなくなったのだ。
 笛を吹きながらリヴァイは歩きだす。遠くでジークがナマエの名を呼んでいるような気がした。しかしこの音に乗って歩かなければ、暗くて深くて怖いところへ落ちてしまう。ナマエの隣や前や後ろにも、街の子どもたちが同じように集まってきていた。リヴァイの音に連れられて、街から子どもはひとり残らず消えてしまった。


 街の大人たちがすっかり目を覚ましたのは次の日の朝のことだった。リヴァイの笛の音は夢か現か、大人たちだけをうたかたの世界に閉じ込めていたのだ。笛が遠ざかり、お日さまがのぼると同時にみな起きだした。

「ジークさん、だめだ。どの家の子もひとり残らずいなくなっている」
「リヴァイのやつだ。やられたな、あいつ……俺たちの大切なものって子どもたちのことか」

 ジークは姪であるナマエのことを案じた。子どもというには彼女は大きいけれど、ジークからみればまだ少女に違いない。知らない男にかどわかされて、心細い思いをしているだろう。

「子どもたちを探そう。森に入れば足跡が残っているはずだ。なんとしてもナマエをリヴァイから取り返す」

 朝一番だというのに、街中で火が焚かれていた。大人たちは手にそれぞれ灯りを持ち、リヴァイたちの痕跡を探しはじめる。


 森の奥。
 音の導くまま、街の子どもたちは太い木々の間を跳ね、頬に雨露を受け、笛吹き男の根城についた。さながらそこは古城のようで、入り口の門は街の教会よりずっと立派で大きかった。

「いいかガキども、よく食ってクソして早く寝ろ。掃除さえきちんとしてりゃあ、なんだって与えてやる。お前ら全員痩せすぎだ。豚みてぇに好きなもんを好きなだけ食え」

 相変わらず口は悪いが、笛吹き男が言うには城の食べ物をたくさん食べろということらしい。子どもたちは大きなバンケットホールへ案内され、全員が一斉に歓声をあげた。見たこともないようなごちそうが長テーブルいっぱいに並んでいたからだ。
 つやつやのミートパイ、厚切りのハム、ハーブとチーズのパン、甘いにおいを放つ果実やケーキに焼き菓子まで。どれもぴかぴかの銀のトレーに盛り付けられていて、ナマエはそれらを一体誰が用意したのだろうと考えた。
 バンケットホールにはごちそうの他にも、大きなぬいぐるみや積み木でできたお城や兵隊、くるみ割り人形たちが並べられている。どれも自由に遊んでいいらしい。

「あの……リヴァイ、さん?」
「お前は確か、あのクソ髭面野郎のとこにいた」
「ナマエです。あのう」
「そうか。お前はもうガキどものおもちゃで遊ぶ年ごろじゃねぇな。悪かった」
「いえ、そうでなくて」

 ナマエには聞きたいことがあった。
笛の音に誘われるまま歩いていたら、知らない場所にいた。大人たちはひとりもいない。状況から見てまったく誘拐そのものである。やはりリヴァイに誘拐されたのだろうか、この状況で。
しかしリヴァイはナマエが言葉を紡ぐ前に、眉間の皺をいっそうくしゃりとさせ、さっさとバンケットホールを出ていってしまった。すぐに追いかけようとするが、子どもたちの声に気づいて振り返る。気づかないうちにナマエもたくさん森の中を歩いていたので、おなかはぺこぺこだった。

「ナマエもごちそうたべなよ。どく、はいってなかった」

 そう声をかけてきたのは教会の裏に住むアニだった。彼女はまだ四歳になったばかりで、連れてこられた子どもたちの中では一番小さい。

「そうだね。みんな怖くないかな。アニは平気?」
「へいき」

 おなかのふくれた子どもたちは、さっそくホールのおもちゃで遊びはじめる。ほどなくするとメイドのエプロンをかけたピエロたちがあらわれて、ホールの壁で影絵をしてみせたり輪投げをしたりしてみせた。ナマエはぼんやりとその様子を眺めながら、リヴァイのことを考える。
 この城の中はリヴァイが取り仕切っているのだろう。ピエロはあくまで召使いのような生き物で、リヴァイが言う通りに動いているように見える。
 子どもたちも今はごちそうとおもちゃに満足しているが、家に帰りたいはずだ。ナマエ以外の子どもはアニより少し大きい子がほとんどで、きちんとリヴァイと対話できるのはナマエくらいだろう。

(食べ終わったらまたリヴァイさんに話しかけてみよう)

 今度はきちんと最後まで話を聞いてもらえるように。

 食事を終えたナマエはピエロに頼んで紅茶のセットを用意してもらい、リヴァイの自室を訪ねた。両手でトレーを持っているので、両開きの扉をノックできない。ナマエは扉の前で「もし」と声をかけると中からはぶっきらぼうに「入れ」と返事があった。
 重いドアノブを肘で小突きながら押して入ると、頬をなでるような弦楽器の旋律。一瞬リヴァイが演奏しているのかと思ったけれど、音が途切れ途切れになったりする。蓄音機を回しているのだった。

「ナマエか」
「はい。お紅茶お持ちしました」

 リヴァイはベッドの前のカウチソファに座っている。部屋中に幾重ものカーテンが下がっていて、彼は大きなベッドの中に埋まっているみたいだった。いたるところにポプリの袋や小さな青色の花をつけた鉢が置かれていた。甘くて清潔な香りがする。そのにおいがポプリのものなのか花のものなのかリヴァイのものなのか。

「ほぅ、手際は悪くねぇようだ」
「いつも教会で手伝いをしていました。日曜のミサのあと、礼拝にくる街の人たちに入れていたのです」

 ナマエの入れた紅茶はどうやらリヴァイのお眼鏡にかなったらしい。少し口角が上がり、笑ったようなリヴァイを見てナマエは切り出した。

「リヴァイさん、叔父が失礼なことを言っていたなら私があやまります。どうか、ここに連れてきた子どもたちを家に帰してもらえませんか」

 リヴァイはカップのふちに指をかけ紅茶をすする。ナマエはリヴァイの返答を待ったが、彼はじっと視線の先を机の方に向けた。背の低いテーブルの上には手紙が置いてある。ナマエが立っている場所から読むことができた。

【お願いだ。子どもたちを返して欲しい】

 筆跡はジークのもの。リヴァイはナマエにわざと見せたかったのかもしれない。
 しかしカップを置いたリヴァイがパチンと指を鳴らすと、その手紙はまるで手品のようにぱっと火が点き、チーズの穴のようにじわじわと炎が紙を侵食して燃え尽きてしまった。

 ほんの少しの焦げ臭さのあと、部屋の中はすぐに甘い清潔な香りで満たされた。ナマエはすっかり困り果てる。リヴァイは何も言う気がないようだった。

「リヴァイさん……もしよかったら、またお茶を入れてきてもいいですか。私はおもちゃで遊ぶわけでもないし、することがないもの」

 見透かされてしまうだろうかと、ナマエは怖かった。
 また明日も、今みたいにお茶の時間があれば今度こそもう少し会話ができるかもしれない。そうして少しでも仲良くなったら、リヴァイは子どもたちを街に帰そうとしてくれるかもしれないから。

「好きに過ごすといい」

 リヴァイのするどいひとみから真意はくみ取れないが、拒絶されたわけではないとナマエにもわかった。

 さっそく次の日から、ナマエはリヴァイのもとへお茶を届けることにした。お茶のセットは今日もピエロが用意してくれる。
 コジ―をかぶせたポットは銀のトレーを伝って、ナマエのてのひらまでをあたためる。リヴァイは昨夜と違い、今日は中庭のガゼボでくつろいでいた。茶色のベストも脱いで、白いシャツをゆるく着た彼は、ガゼボの中のソファに座っていた。よく見ると周囲には季節の違う花が一緒くたに咲き乱れている。
 リヴァイの一番傍には、昨夜もあった青い小さな花をつけた鉢がひっそりと置かれていた。よくよく観察していると、この城にはたくさんの花が飾られている。しかしリ
ヴァイがくつろぐ一番近くには、かならずその青の花の鉢があった。彼の執務室や浴室や、図書室にいたるまで多くの場所に。あの花の名前はなんというのだろうか。

 そうして数日が経ったある日の夜、リヴァイの寝室に紅茶を持って行ったナマエはその花のことを聞いてみることにした。

「この花がお好きなのですか」
「お前だろうが」
「え?」
「お前、この花が好きだろう」

 そんなこと言っただろうか、とナマエは考える。この城に連れてこられた最初の日、おもちゃでは遊ばないと言ったけれど。

「違ったか?」

 ベッドの上でくつろいでいたリヴァイのひとみは、何かの合図のように薄暗い中でチラチラと光っている。ナマエは誘われるままリヴァイに近づいた。視線を落とすと、ナマエの髪が頬からこぼれる。リヴァイは待っていたように、ひとふさをすくってみせた。

「……私のために用意してくださったの」
「俺に用意できねえモンはねえからな」

 ナマエの体重の分、ベッドがきしむ。彼の形の良い鼻先がナマエに触れそうだった。こんな時間や空気があることを、ナマエは今の今まで知らなかった。他人の輪郭が手にとるほどわかるように近づく刹那。

「これもリヴァイさんのせいなの?」

 耳元で、音にならないボリュウムで「ん?」とリヴァイがささやく。

「なんでも用意できるあなたに、私の気持ちも奪われてしまったの?」

 本当はみんなを街に帰す話をしたいがために、この紅茶を運ぶ習慣をつけたのに。今日だって、あの花のことを聞こうと思っていたのに。リヴァイはその視線ひとつでナマエの気持ちを全部さらっていってしまうのだ。ここに連れてきたときのように。

 くちびるが重なる。舌を絡めたくちづけはほのかに紅茶の香りがした。急に花の香が強くなる。むせかえるような甘いにおいの中、ナマエは必死でリヴァイにしがみつく。しっかりつかまっていなければ、振り落とされてしまうような気がした。彼は夜のずっと深いところへと、ナマエを揺らしながら引きずりこんだ。

 次の日から、城の中にはあの青色の花の鉢がますます増えた。
 リヴァイはその花がナマエが好きだからと言っていたが、やっぱりナマエには覚えがなかった。
 しかし増える花の中、ガゼボや寝室や執務室や図書室で。ナマエはリヴァイとふたりになると、花の蜜のような時間を過ごした。ナマエの肌にもいろんなところに花びらが散っている。リヴァイがつけた、甘い花びら。体は常に熟れていて、彼が触れると簡単にはじけた。ナマエはリヴァイの輪郭をすっかり覚え、リヴァイはそれ以上にナマエの扱い方をうまくした。
 ナマエの思考はすっかりリヴァイに従順していたけれど、彼の傍らにいつもあの笛があることに気づいていた。何もかもを思いのままにしてしまう、笛吹き男の笛。ナマエもあの笛を使えば、思い通りにすることができるのではないだろうか。

「リヴァイさん……」
「どうした」

 たくましい彼の腕に包まれていると、ナマエの思考は従順な方へと流れていってしまう。そうして手足の力も考える力も、すっかりとろとろに溶かされてしまうのだ。

 笛吹き男の城での生活が日常となりつつあったが、ある日事件が起きた。
 子どもたちとナマエだけで朝食をとっているとアニが泣きだしたのだ。ナマエは驚いた。彼女はとても小さいが、泣くことなどめったになかった。厳しい父親のもと、厳しく育てられた強い子だった。

「とうさんにあいたい! うちにかえりたい!」

 声をあげ、伏し目がちなひとみから大きな涙を流すさまは見ていてナマエの方がつらくなった。

「アニ、アニごめんなさい」
「どうして……ナマエがあやまる」

 甘いものばかり食べていたと、ナマエは食べかけのパンケーキの皿をテーブルの遠くへ追いやった。たっぷりのハチミツはまるで魔法のようにナマエを動けなくしていた。

「私がもっとしっかりしなくてはいけなかったわ。約束する、アニ。絶対におとうさんのところへ帰してあげるから」

 ナマエはアニの頬を包み、まっすぐ彼女を見つめる。アニは「なんだかナマエがねぇさんみたいにみえる」と薄く笑った。
 
 子どもたちの中にはアニ以外にも、夜中泣きだす子どもが増えたらしい。時間がないとナマエは感じた。今夜にでも子どもたちを連れてこの城から逃げ出す。
 リヴァイの傍らにいつもある笛。あれさえ奪うことができたら逃げ出すことなんて造作もないだろう。本当は気づいていたのに動くことができなかった。それをしてしまうとナマエはもう二度と、リヴァイには会えないだろうから。

 中庭の花壇の中に、眠り薬になる花が咲いている。その花の蜜を飲むとたちまち眠りについてしまうのだ。教会に懺悔にやってくる人は大抵眠ることが困難だ。そんな人たちにはその花の蜜をミサのあとに渡すのだ。それも手伝ったことがあった。

 眠りの蜜をたっぷり垂らした紅茶を入れて、ナマエはリヴァイのところへ向かう。もう毎日の習慣になっていることで時間も昨日と変わらない。リヴァイは気づかないだろう。

「ナマエ」

 こんばんはの代わりに呼ばれた名前に胸が高鳴る。彼の声だけで体中が熱くなった。

「紅茶を入れますね。お昼はなにをして過ごしていたのですか」
「俺のことはいい。お前はどこにいた、ナマエ」
「今日は図書室で小さな子たちに物語を」

 ほぅ、とため息みたいなリヴァイの声。甘い香りのする紅茶。こんな時間も今夜が最後なのだ。いたずらにリヴァイがナマエの長い髪を引っ張る。ナマエの心も引っ張られる。

「どんな物語を聞かせてやった?」
「騎士ルドルフの物語……恋人に花を摘もうとする」
「ああ、あれか」

 紅茶は飲みやすいあたたかさ。カップの中のお茶はすぐに底が見えるくらい減っていた。ナマエが昼間の物語の話の続きをする。言葉の句読点にあわせ、リヴァイがまばたきする。そのうちに薄いあくびがこぼれてナマエもそれを真似た。リヴァイはティーカップのソーサーも一緒にテーブルの上に置くと、ナマエの手をつかんで引き寄せた。

 ベッドの上にふたりはもつれ込む。
 リヴァイに組み敷かれたナマエはあやされるように優しいキスを何度も受けた。リヴァイのまぶたはだんだん重くなっていく。このキスが最後かもしれない、を何度も感じながら。
 そしてナマエの顔のすぐそばに、蒼白いくまの濃い整った顔が倒れてきた。まぶたはすっかり閉じ、薄い寝息。

「さよなら……リヴァイさん」

 もう一度彼にキスをしたかったけれど首を横に振って諦めた。アニのこと、子どもたちのこと、そして帰りを待っているであろうジークのことを考える。
 今夜もあの笛はベッドのすぐ傍らにあった。笛をひっつかみ、足音を立てないようにリヴァイの部屋を出る。そっと扉を閉めたところで、体中が震えていた。

 子どもたちはみなリヴァイの部屋の下の階に位置する大部屋で、全員一緒に休んでいる。子どもたちの部屋へ行って笛を吹く。全員で家に帰れるように、リヴァイやこの城のピエロたちがナマエたちを追ってこないように願いをこめて。そうしてリヴァイみたいに笛を吹けばきっとこの夢から覚めるだろう。
 
 らせん状の階段を駆け下り、子どもたちの部屋の扉に手をかける。大きな両開きのドアノブだった。両手でそれをつかんだとき、背後からあの蒼白い顔と同じ肌の手が手首をつかんだ。

「ナマエ」

 振り返る。
 リヴァイがナマエをにらんでいる。紅茶の時間にあったような彼の様子は少しも見当たらなかった。

「お前……俺を、騙していやがったな」

 声が耳の奥に直接響いているみたいだった。一気に総毛立つ。自分の体が麻痺しているみたいに曖昧になって意識が遠のきそうだった。とんでもない危機感だった。
 ナマエはとっさにリヴァイを突き飛ばす。笛さえ吹いてしまえばきっと切り抜けられる、そう思った。突然のことでリヴァイはバランスを崩し、一歩、二歩、三歩と後ろに退いた。
 彼の体が離れた隙に携えていた笛を吹く。思い切り、肺いっぱいに恐怖と願いを吸い込んで、希望の音を吐き出した。しかしどうしたことだろうか。リヴァイがいとも簡単に鳴らしていた笛は、ちっとも音が鳴らなかった。かすれた音ひとつすらこぼれなかった。

「ずいぶん楽しそうなことを考えたな、ナマエよ」

 リヴァイは余裕たっぷりに腕組みをしてナマエを見下ろしている。ナマエは何度も何度も笛を吹いてみたが同じことだった。音は鳴らず、尻もちをつき、泣いていた。

「ったく。躾もせずに甘やかしてりゃすぐコレだ。……なあ、お前をどうしてやろうな、ナマエ?」

 笛を奪い、リヴァイはナマエの首に手をかけた。両手で首をつかんで彼女を立たせ、開くことのできなかった扉に追い詰める。指先だけでリヴァイは語る。ナマエがしたことに怒っている。まるで命そのものをつかまれているみたいで、ナマエは喉の奥から恐怖とも懇願ともとれない声をこぼした。ベッドの中で鳴いているときみたいな音で、変な気分になる。口の形だけでごめんなさいと繰り返す。リヴァイは許してくれないだろう。でもすぐにキスされるような、そんな変な気分。

「お前、俺にこうされることがわからなかったか? そうまでしてガキどもを家に帰したいのか。まぁ……いい。この際ガキどもは家に帰してやる」
「ほ……ほんとう?」

 首の力が少しだけゆるむ。けれど楽になったのはナマエが返事をしたときだけで、次の瞬間、息が詰まるようなキスと一緒にふたたび力は強くなった。今度はびっくりするくらいの強い力だった。扉に押し付けられ、髪の毛はぐちゃぐちゃになっている。浮いた脚の間にリヴァイの脚がすべりこんだ。ぐりぐりと果実をつぶすみたいに押し付けられて、ナマエの意識は今にもとびそうになる。

「ただし条件がある。これは取引だ、なぁナマエ。お前が選べ」

 また耳の奥でリヴァイの声がする。さっきよりもずっと低い声で、ナマエにしか聞こえない声で。ナマエは聞き漏らすまいと意識を集中させ、何度も何度もうなずいた。そして答えを出したときには、リヴァイのベッドの上にいるのだった。



 マリアの街に子どもたちが帰ってきた。
 メイヤー街の大地主のジークは大層反省したそうだ。自分のせいで子どもたちが誘拐されていたのだから。
 街は元通りになり、落ち着きを取り戻した。しかし子どもたちが帰ってきてからひとつだけ不思議なことが起きた。街の入り口の門のところに、綺麗な青い花がぽつぽつと咲くようになったのだ。あまりにも儚く美しい青の花畑。

「かざむきがかわって、とおくから種がとんできたかもしれないってとうさんがいってた」
「へぇ、アニちゃんのお父さんは物知りだね」

 アニは家からスコップを持ってきており、そっと青い花を鉢に移していた。

「ところでアニちゃん、この鉢植えは家に持って帰るのかい? ひとりじゃ大変だろう」
「ううん、これはジークさんのところへもっていけってとうさんが。ジークさん、ひとりぐらしだからさみしいだろって。花があればにぎやかだからってさ」
「あはは、ありがとう。そうだねぇ、アニちゃんみたいにかわいい娘とか、せめて姪っ子でもいたらよかったんだけどなぁ」
「子どもよりおよめさんがさきじゃないの」
「それもそうだ。でもどうしてかな、娘がほしいっていうか……いたような気がするんだけど」

 ジークは後ろ頭をかきながら、困った風に笑う。

「ねぇジークさん。この花のなまえ、なんていうのかしってる?」
「ああ……この間調べたけど……なんだったっけな。調べたばかりなのに忘れてしまった。でも花言葉なら覚えているよ。印象的な言葉だったから」

 どこか得意げなジークにアニはうんざりしたようなため息をこぼす。アニは花の名前を知りたかったのだから、花言葉なんかには興味がなかった。
 花は鉢植えに移された。青い花の鉢。アニが両手で持ち上げようとしたが、代わりにジークが持ち上げる。

「この花の花言葉はね、私を忘れないで──だ」
「わたしってだれ。まさか花のこと?」
「さぁ、誰のことだろうね」

 ジークは立ち上がって森の方を見やる。遠くでいつか聞いたことのある、笛の音が聞こえたような気がした。
 
 

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