第三回プロット交換会 | ナノ

Feathery Rain



 冷たい石の上。
 少しでも天界に近付きたくて、手を伸ばし目一杯爪先立ちになる。

「ユミル様、私はここです」

 幾筋もの光が雲間から降り注ぎ、女神ユミルの大いなる愛が、地上の人間界を照らす。たくさんの愛が光となって注がれているのに、その一筋すらナマエの指先に触れることはなかった。
 人間界に堕ちてから、ただの一度も。

 かつてのナマエは天界の住人だった。慈愛の女神ユミルの愛に包まれた、穢れなき真っ白い天使。ユミルから分け与えられた大いなる愛を、弱き者たちに注ぐのが御使いである天使の務め。だからナマエは眩い純白の翼を広げて柔らかな風を運び、生まれ落ちた命を優しく包み続けた。
 ある日、真っ黒な感情が心を支配し、堕天するまでは。

「リヴァイに会いたい。あなたの傍にいたい。リヴァイ……っ」

 呪文のように繰り返す。
 リヴァイ──一点の穢れもない真っ白な天使の名前だ。誰よりも美しく清廉で、ナマエのすべて。彼女の心はリヴァイで埋め尽くされている。
 まだ天使だった頃、疑問にすら思わなかった。いつ何時もリヴァイの姿を探すのは、きっとユミルの御心なのだと信じて疑わなかった。天使は人間のように「恋」をしない。だから心を寄せ、番って家族を作り、子を授かることで道を繋ぐこともない。
 その代わり、ユミルは男女の天使をそれぞれ選び、対にする。そして二人から一欠片の「核」を掬い取り、それを混ぜて新たな天使を誕生させる。ナマエがリヴァイと一緒にいたいと望むのは、リヴァイの対に選ばれたからだとばかり思っていた。静かな声を耳にするのも、アイスブルーの瞳に映るのも、真っ白な翼に触れるのも、ずっとナマエだけだったのだから。
 思えばこれが堕天の始まりだったのかもしれない。すでにナマエは、持ってはならない「私欲」に少しずつ浸蝕されていたのだろう。醜い黒の自覚がないまま、突然目の前に現れた小さな天使に、リヴァイが無償の愛を向けるまでは。


◇ ◇ ◇


 それは光が降り注ぐ泉で、ナマエがリヴァイを探していた時のこと。

「どこに行ったんだろう。おかしいな」

 いつもあるリヴァイの気配が感じ取れず、ナマエは上空で目を凝らし、目当ての姿を探した。風や光に尋ねても、わからないとしか答えない。天界を自由に渡る彼らが知らないはずはないのにと、一抹の不安をナマエは抱える。

「リヴァイ!……と、あれは」

 やっと見つけたリヴァイは、小さく愛らしい天使を抱きかかえ、空からゆっくり降りて来た。彼はいつも小さな天使に囲まれていた。だから然して気に留めることもないのだが、その小さな天使は今までとは違っていた。

「その子、どうしたの?」
「ああ、ナマエか。他の奴らとはぐれちまったらしくてな。下層に繋がる門の前に一人でいやがった」
「そうだったの。あそこは光がほとんど届かない場所だから、心細かったでしょうね」

 不安げにしている小さな天使を、嘘偽りなく慈しみたいと思った。ユミルは天使人間問わず、幼子を尊ぶ。彼女やリヴァイは、その御心に従って、天界でたくさんの小さな天使に愛を注いできた。
 天界を創造したユミルは、己の翼から九枚の羽を抜き、そこから同じ数の天使を生みだした。その天使たちは大天使となり、たくさんの小さな天使を産み落とし、今では天界の礎となっている。
 元を辿れば、すべての天使がユミル子であり、当然ナマエも幼子を慈しむユミルの欠片を、心に宿していた。この小さな天使にもユミルの欠片を、心に宿している。人間で言えば血の繋がりのようなもの。謂わば妹であり、そして我が子でもあり、大いなる愛を注ぐべき存在、のはずだった。

「ずっと抱っこしていたから疲れたよね。私が替わるよ」

 きっとリヴァイの負担になんてなってない。そんなことはわかりきっている。しかし、しっかり抱き着いている小さな天使が、あまりにも幸せに満ちているから、ナマエは引き離したくなった。だから気を遣っている振りをして、「おいで」と両手を差し出した。

「さあ、こっちに」
「いやっ! ここがいいの!」

 小さな天使は両腕を目一杯伸ばし、リヴァイの首筋に抱き着いた。その拍子に、背中の翼で拒否を示すように、パシンとナマエの手をはじく。柔らかい羽の束とはいえ、痛みがあるわけではないが、得体の知れない不安がナマエを襲う。
 そして、縋りつく小さな天使に「どうした?」と優しく囁くリヴァイを見た瞬間、ジクリと感じたことのない痛みが、翼の付け根に走った。

「どうやら、まだ不安が抜けないらしい。最初に見つけたのが俺だから、この方が安心なんだろうよ」
「そ、そうだね。ごめんね、怖がらせちゃって」

 バクン、バクン、と天使の核が暴れ出す。生まれ落ちてより、弾けそうになるくらい核が膨れ上がったことはない。その原因はわかっている。この小さな天使が、リヴァイから離れないのが面白くないのだ。反面、こんなことは天使としておかしいとも自覚している。なのに、ナマエの意識はどうやってあの小さな天使を、リヴァイから引き離すかだけに囚われだしていた。


 次の日も、また次の日も。

「リヴァイさま、まってください」

 あれからリヴァイの傍を小さな天使は離れず、どこに行くにも纏わりついていた。手を繋ぎ、抱き上げられ、優しく頭を撫でられている。ナマエがリヴァイと隣り合っている時でさえ、お構いなしに二人の間に割って入ってきた。
 それでもリヴァイは気に留めることなく、小さな天使に慈愛の眼差しを向け、優しく頭を撫でていた。きっと自分だけ嫌な感情が膨れ上がっている。おかしな感覚がナマエに纏わりついている。自分とて別の誰かに優しくするこがあるのに、同じように見ることができない。小さな天使に向けているリヴァイの慈愛が、なんだか特別なものに思えて、どんどん置いてきぼりにされているような錯覚に陥った。
 
「ねぇ、リヴァイ。その子だけじゃなくて、他の子にも目をかけてあげてよ」
「ああ、そうだな。だが」
「君もリヴァイを独り占めしちゃいけないよ」

 天使にあるまじき行為だった。柔和な笑みを貼り付け、ナマエはもっともらしい御託を並べ、小さな天使を引き離そうとした。もう限界だったのだ。当たり前にリヴァイが隣にいた日々を奪われ、あまつさえ触れることも出来なくなってしまった。
 この忠告で、少しでも離れてくれればいい。そうすれば、ナマエの心は穏やかになれるはず。しかし思惑はそう上手くいくはずもなく。

「リヴァイさまは、わたしのことキライですか?」
「いいや、そんなことはない」
「わたしはリヴァイさまのこと、だいすき。だから、ずっとここにいる! ユミルさまにおねがいして、リヴァイさまと対にしていただくの!」

 純真無垢な願いに、リヴァイは拒否などみせない。肯定するようにリヴァイは小さく笑い、小さな天使は翼を目一杯広げ、喜びを全身で表した。
 頭の中で、ナマエは何か張り詰めた糸の切れる音がするのを聞いた。もう限界だった。慈愛しかなかった胸中は、小さな天使に出会ってからというもの、毎日毎日濁ったフィルムが重ねられ、今ではすっかりどす黒くなっていた。真っ白なリヴァイがくすんで見えてしまうくらいに、ナマエの瞳は雲ってしまったのだ。

 私のリヴァイから離れて。

 そう思った時には、すでに腕が小さな天使に伸びていた。リヴァイにしっかり掴まっている柔らかな腕を鷲掴んで、ナマエは彼女を力ずくで引き離してしまった。

「私だってリヴァイが好きなの。あなたばっかりリヴァイにくっつかないで。離れて!」
「どうしたんだ、ナマエ。まだコイツは小さい。何をむきになっている?」
「わかんないよっ! でもイヤなの。この子があたなを独り占めするの、許せない! ずっと一緒だったのは私なのに、それなのにっ」

 噛みつく、とはきっとこのことを言うのだろう。無垢で小さな天使になんてことをしているのかと、頭では愛の欠片もない行動に悲しくなった。目の端に映るリヴァイの顔が、不可解とでも言いたげに、呆気を含んで顰められているのを見て、もっと悲しくなる。
 ああ、もうこれ以上はダメだ。踏みとどまれと、ナマエは必死に口を噤もうとしたが、もう時は遅かった。

「愚かで醜き者よ」

 静かな、しかし天界を揺るがす威厳に満ちた声が轟いた。空には暗雲が立ち込め、天界に影を落とす。眩しい光に満ちた天界が、一気に暗闇に包まれてしまった。

「ユミル様!」

 暗雲が立ち込める中、眩い光に包まれた天界の主が、慈愛とはかけ離れた冷たく鋭い空気を纏い、姿を現した。天使たちはユミルを見ただけで温かな気持ちになるのに、恐怖に支配され、翼を縮こまらせた。
 咎人に向ける視線が、ナマエを射抜く。かつてない恐怖をどうにかしたくて、咄嗟にリヴァイの手を握ろうと腕を伸ばした。けれど、閃光が二人を切り裂き、吹き荒れた突風によって、ナマエだけが勢いよく吹き飛ばされてしまった。

「ナマエ!? 何をっ」

 いつも落ち着き払っているリヴァイが、空に向かって珍しく声を荒げた。間違いなくナマエのため。ユミルに歯向かうような真似をする天使は、天界にはいない。それなのに、リヴァイは。

「気を沈めなさい、天使リヴァイ。お前らしくありませんね。小さき者が怯えています」

 凛とした声が、天界に響き渡る。全身でユミルの声を受け取る天使たちは、耳を塞いだところで逃れることなどできない。言葉一つ、逆らうことができない。その証拠に、大天使と対峙してでさえ屈することのないリヴァイが、地面に膝をつく。小さな天使は、もう抱きかかえられてはいなかったが、その傍に寄り添ってユミルを見上げていた。

「リヴァイさま、こわいよぉ……っ」
「大丈夫だ。何も恐れることはない」

 ユミルの神力に怯えた小さな天使に、ハッと息を飲んだリヴァイが、その小さな体を自らの翼で、宝物のように包み込んだ。

「……あぁ……い、や」

 嬉しそうに抱き着く姿が、ナマエを苛烈なまでに憤怒させる。ユミルがどうして姿を現したかなど関係ない。背中の痛みが増す中、もう一度二人に向かって一直線に羽を広げ飛び出した。

「止めろ!」
「愚かな」

 ナマエを止めたのか、それともユミルへの懇願か。叫んだリヴァイの声が天を突くと同時に、断罪の刃が降り降ろされた。

「ギャァァァ──っ!!」

 聞いたとのない悍ましいナマエの悲鳴に、遠巻きにしていた天使たちは一斉に距離をとった。見えない力によって、体が地面に張り付けられ、耐えがたい苦痛が全身を巡る。あまりの痛みに、ナマエは断末魔のような醜い悲鳴をあげ続けた。

「天使でありながら、大いなる愛を見失うとは何事だ。天界下界問わず宝である子どもを慈しまず、まして嫉妬するとは何と嘆かわしい」
「おゆる、しくださ……い」

 這いつくばることしかできない。どうにか体を起こそうと腕に力を込めると、目に入った自分の指先にナマエは息を飲んだ。

「堕天が始まったようだな。天使たるもの、常に大いなる愛を与え続けなければならない。小さき者は慈まれ、それを次なる天使へと伝えていくのが理。天使ナマエ。愚かにもお前は愛の在り方を間違えてしまった」

 ユミルの言葉がナマエに重く圧し掛かる。やがて彼女だけが水底にでも引きずり込まれるように、沈んでいった。
 留まろうともがき、広げた白く美しい翼は、片翼がもげ落ち、もう片方は黒く染まりだした。可憐な笑みを零す小ぶりな口元は、八重歯が醜く肥大化し牙となった。

「いや……、こんな、の……、いやぁっ!」

 穢れない白から罪の黒へ。慈愛に満ちた神の御使いが、憐れで凶悪な堕天使へと姿を変えていく。なんと悍ましい姿になってしまったのかと、ナマエは絶望する。

「ナマエ……っ」
「たすけ、て……っ。こんなんじゃリヴァイの隣には、綺麗なリヴァイの隣になんて、いられな、い……」

 みるみるうちに堕天していくナマエを目の前に、リヴァイはただただ言葉を詰まらせた。たおやかに羽ばたかせていた純白の翼も、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた愛らしい唇も、優しく触れる細い指も何もかも失せていく。恐怖で自分に縋る小さな天使の肩を抱いたまま、リヴァイは微動だにせず、彼女の変異を憐れんだ。

「そんな目で見ないで」

 堕天していく自分の姿を映すリヴァイの瞳は、天使が万物に向ける眼差し。そんな視線を向けられたくなかった。欲しかったのは、もっと違うものも。人間が番う者に向ける、愛という眼差しなのに。
 耐えきれなくなったナマエは、抗うことをやめた。体は天界の底、さらにその先の私欲に満ちた人間界に沈んでいく。もう彼女の居場所は、その中にしか存在しないのだ。
 背中からもげ落ちた白い翼だけが、天界にぽつんと残っている。彼女が天使であった唯一の証だ。しかし、その存在さえも許されないのか、一陣の風が天界に走り、羽が一枚、また一枚と旅立っていく。舞い上がった羽は光に照らされながら、ナマエを追うようにユラユラ舞い降りていった。まるで天使が気まぐれに降らす雨のように。

「アイツが泣いているみてぇだな」

 見渡せばユミルの姿はすでになく、何事もなかったように穏やかな風景が戻っていた。
 目の前で舞う羽に手を差し出せば、吸い寄せられるように一枚だけリヴァイの手のひらに収まった。刹那、毎日自分に寄り添って笑うナマエの顔が脳裏を過り、チクリとリヴァイの胸を疼かせる。こんなことは一度とてなかった。手のひらで揺れるナマエが天使だった名残を見つめ、正体の知れない痛みに頭を振りながら目を閉じた。


◇ ◇ ◇


 天使リヴァイは天界で、堕天使となってしまったナマエは人間界で。二人の世界が別たれ、随分と長いときが流れた。
 人間界に堕とされたナマエは、リヴァイに抱くものが愛だと知った。ユミルが天使に説く大いなる愛ではない。誰かに心を奪われ、そしてその心を独占したくなる想い。思えば天使だった頃から、リヴァイへの愛は始まっていたのだろう。誰よりリヴァイの近くに、ナマエはいたかったのだから。


 遥か彼方の天界を見上げ、ナマエは一人人間界で過ごした。自慢の白い翼は半分もげ落ち、残りはカラスのような漆黒の罪で塗りつぶされ、水面に映る容貌はあまりに醜く目を伏せた。
 きっとこんな自分を愛してくれる存在はいない。それ以前に、愛するリヴァイに醜い姿を晒すのは、どんな拷問より耐えがたいものだった。

「会いたいよぉ……」

 それでも募る思慕。もう記憶の中でしかないリヴァイを思い出し、ナマエは鋭い爪の生えた両手で、誰も抱きしめてくれない自分の体を抱いた。

 毎日毎日。
 復天するため、ナマエはユミルの言いつけを守り、数えきれない善行を積んでは、天を仰いだ。来る日も来る日も、天界にいるリヴァイを思い描き、彼に会えることだけを願った。
 ユミルの言いつけである大いなる愛を、人間たちに与えるという善行は、天使だったナマエにとって簡単なように思えた。悪事を阻み、ひもじさに苦しむ者がいれば、生きる糧を施した。天使であった時と同じように、ナマエは小さき存在の人間を救い続けた。いつかユミルに許され、復天できると信じて。

「違う……っ、これじゃダメなの」

 ある時、ナマエは気付いてしまった。今までの「善行」は「私欲」であったことに。
 ひたすらリヴァイに会いたいがため、その一心で人間を救い続けていたのだ。傍目から見れば、ナマエは立派な善行を施しているだろう。しかし神であるユミルの目は誤魔化されない。

「どうすればいいの」

 何をしても私欲しかない。一度刻まれてしまったリヴァイへの恋心は、どうやってもユミルの言いつけからかけ離れている。いくら善行を積んでも復天できないのだと、ナマエは一筋の光もない日々に泣き崩れてしまった。


 また月日は流れ、人間の文明も発展し、暮らしは豊かになっていった。無垢に近かった人間もときが経つにつれ、私欲に支配されていき、かつてユミルが慈しんだ姿は残っていない。人間たちは、いつしか女神ユミルとその御使いたちの存在を、忘却の彼方に追いやってしまっていた。
 私欲に塗れた心を表すように、人間界は徐々に美しい光を失いつつあった。今では天使たちが光を運んで照らした空は、スモッグで覆われ淀んでいた。

「リヴァイ、リヴァイ……」

 スモッグに塗れた空で、ナマエは今日もリヴァイの名前を口にする。彼の名前を声にしない日はない。いつか再び天使の姿で会えることを願いながら、ナマエは何度も何度も名前を呼んだ。

 その奇跡は突然だった。一瞬彼方の空が白く光り、あまりの眩さにナマエは手をかざした。あの光は天使が降臨した証で、堕天したナマエには眩しすぎる白だった。

「うそ、でしょ」

 人間界に堕ちてからというもの、天使を目にした試しはない。堕天使の前に神の御使いが、姿を現すことはないからだ。なのに。

「久しいな、ナマエよ」

 天使は人間界に降りることはない。稀に迷い子のように天界の門を潜り抜けることはあるが、存在を保っていられるのも僅かな時間。私欲に塗れた人間界では、ナマエのように堕天でもしない限り、天使が存在すること自体困難を極めた。
 
「堕天しちゃったの!? ちがう、よね。だって、リヴァイは白いもの」

 目の前に現れたリヴァイは、記憶にある綺麗なまま。堕天して、すっかり薄汚れてしまったナマエとは違う。醜く吊り上がった目でもなければ、鋭く大きな牙もない。 片翼を失い、罪に染まった黒い翼もない。リヴァイが変わらず天使であることに、思わずホッと胸を撫で下ろした。

「良かった」

 安堵と同時に絶望と羞恥がナマエを襲った。綺麗なままのリヴァイと自分の姿を見比べれば、余りの違いに、やはり復天は望めないのだと。
 数えるのが嫌になるくらい、長い長いときが過ぎた。剥き出しの岩場は、無機質な灰色のコンクリートに代わり、人間の文明は発展した。あんなに人間たちに尽くしているのに、変化したのは文明だけで、堕天したナマエの姿はあの時から変わらない。

「いやだ。来ないで、見ないで」

 真正面からじっと見つめてくるリヴァイの視線から、少しでも逃れたい。幼子が体を丸めて眠るように、ナマエは両膝を抱えた。どうしたって隠せないのに、みすぼらしくなった片翼を畳んで体を包む。そんなナマエを嘲笑うかのように、大きく左右に広げたリヴァイの翼は、眩いまでに光り輝いていた。

「お願い。見ないでよぉ……」

 大好き。けれど、二度と自分には戻らない輝きに、リヴァイにですら嫉妬が込み上げた。同時に消えてしまいくらいの悲哀が、吊り上がった目尻から零れ落ちた。

「なぜ俺を拒絶する?」 
「こんな醜い姿なんて、見せたくない!」
「お前が会いたがっていたから、こして来たんだが」
「こんなの、綺麗なリヴァイに見られたくないの!」

 私欲塗れな醜い心だ。
 リヴァイとずっと一緒にいたい。触れていたい。自分だけを見て欲しい。そう求める反面、こんな姿を晒したくないと思ってしまう。毎日毎日リヴァイに会いたいと願っていた、どの口が言うのか。そもそもこんな姿になったのは、誰でもない己の私欲のせいなのに。
 あの時、嫉妬という私欲にさえ囚われなければと、後悔しない日はない。リヴァイの傍にいるのが許せなくて、小さな天使を大いなる愛で包まず、嫉妬という愚行を犯した。ユミルの意に背いたのだから、堕天するのは当たり前なのだ。
 素直に堕天使としての自分を受け入れれば、何かが変わっていただろうか。だけれど、ナマエには到底無理な話だった。

「こんなにも、何もかも醜くなってしまった私を、あなたにだけは見られたくなかった……」

 この姿を見る度、嘘だと受け入れられなかった。そして今、受け入れ難い姿を、見栄のために愛する人には見せたくないと喚き散らしている。
 すべてが私欲。人間界に堕ちてからというもの、復天を望みながらも、心は天使のそれとはかけ離れていくのを感じていた。

「私ね、頑張ったの。ユミル様の言いつけ通り、たくさんの人間を助けたの」
「じゃあ、なぜまだ堕天使のままなんだ」
「違うの。これじゃ全然ダメなの」
「ナマエ……」

 わんわんと泣きじゃくるナマエを、困惑気味ではあるが、相変わらずリヴァイは真っすぐ見つめていた。見るなと懇願したのに、今度は感情むき出しでリヴァイを困らせている。日々俗世に染まっていく。その証拠に、人間同士が諍う時に見せる、ヒステリックな様を曝け出している。
 かつて天使であったという記憶だけで、堕天した時から魂は光を失っていた。復天するためには、微塵の私欲も許されない。私欲を些末なものとし、大いなる愛で真に人間のために尽くしているつもりだった。しかし、結局ユミルが説いた理は、何一つ示すことはできていなかった。

「天界に戻りたい。でも、このままじゃ、リヴァイを好きなままじゃ、ダメなの」
「何故だ。俺はお前のことを好いているが、堕天はしていない。何が違うというんだ」
「ヒック……っ、そうじゃないの。私の好きは、うぅ、私の好きは」

 得心いかないと、リヴァイは訝し気な顔をする。当然だ。天界の天使である好意は、「慈愛」であって「恋」ではないのだから。どんなにナマエが己の「好き」を説いても、きっと分かり合えない。彼は同胞としてのナマエを好いているだけ。そんなことは、とうの昔からわかっていた。

「復天したい。でも、そうなったら、私のリヴァイへの気持ちは、どこに行っちゃうの? あなたを想うと、ここが、胸の奥が苦しくなるけど、温かくもなるの。この気持ちを、私は失いたくないっ」

 たとえ復天したとて、天界のために大いなる愛を注ぐことができないのだから、ナマエはあっという間にまた堕天してしまう。そもそもが天界のために復天したいのではない。リヴァイの傍にいるために、彼と同じ天使でいたいがため、天界を目指している。だから、どうしても私欲を捨てられない。それほど。

「リヴァイが、好きなの」

 天使として神に仕えるために捨てる些事は、ナマエにとってなくてはならないもの。ナマエにとってリヴァイへの恋心は、世界の中心になってしまっていた。

「ずっとあなたの元に帰りたかった。でも、もう私は、天使に戻れない。リヴァイを好きな気持ちが止められないから。一緒にいたかった。でも、もう無理、なの」

 スモッグが広がる空の上は、ナマエを地面に立っているような気にさせ、それが更に彼女の心を苦しめた。堕天使になり片翼を羽ばたかさなくても、空にいることはできる。だけど、ふとした時に羽ばたき、抜けた黒い羽が、空に墨を散らしたように舞うのを見るのもナマエは嫌だった。
 何もかもが、絶望でしかない。ナマエにはもう、二度と帰ることがない天を仰ぎ、ただ情けなくわんわんと泣くことしかできなかった。


 容貌は確かにかつて愛らしかった天使と似ても似つかない。天界に突如今の彼女が現れれば、侮蔑と恐怖の誹りを受けるだろう。だが、リヴァイには彼女の中に、純粋な光を見た。真っすぐな真っ白い心を。
 気付けば体が動き、リヴァイは泣きじゃくるナマエの頬にそっと手を添え、唇を合わせた。姿が変わっても、温もりと柔らかさは天使だった頃のものと変わらない。ただ、ツプリと僅かな痛みが唇に走り、何か生暖かい感触が伝った。
 涙は流れたままだが、目の前のナマエは目をまん丸に見開く代わりに、しゃくりあげていた嗚咽が止まった。リヴァイが親指で己の唇を拭うと、陶器のような肌に鮮血が筋を作る。よく見れば、ナマエの口の端から覗く牙にも、同様のあかがこびり付いていた。

「なんてことを! ごめんなさいっ、リヴァイを傷つけてしまった」
「どうってことはねぇ。すぐに治る」
「でも、血が出てる。リヴァイからあかい血が」
「ああ、コイツのことか」

 自分から流れ出たものなのに、リヴァイは他人事のように親指にこびりついたあかを見ていた。舌でベロリと唇を舐めれば、生温かくなんとも形容し難い味がした。これが話に聞く血というものか。どうやら天使である自分にも、人間と同じあかい血が流れているのだと、長いときを経て知った。

「ナマエよ。お前にもコイツが流れているのか?」
「そう、よ……。当たり前じゃない、そんなの。どうしちゃったの?」
「そうか。天使も堕天使も人間も、体の中にあるモンは同じか」

 そう言ってリヴァイは、ゆっくり言葉を咀嚼し、自分に何かを言い聞かせていた。ナマエと自分は何が違うのか。確かに自分は天使で、堕天使の彼女とは姿かたち、そして心の在りように差異がある。
 天使はユミルから美しい心に見合った美しい姿を与えられ、すべてに大いなる愛を注ぐ。私欲という醜い心を宿したその時から、それに見合った醜悪な姿へと変貌し、ナマエのように地上へと堕とされてしまう。
 果たしてそれな正しいことなのか。リヴァイの中に生まれた点ほどの違和感が、次第に広がっていく。

「お前と俺が一緒にいるには、どうしたらいい?」

 突拍子のない質問に、ナマエは目をパチクリと何度も瞬きさせた。容貌が変わっても、こんな所はあの頃のまま。愛らしい天使だった彼女が、そのまま目の前にいた。

「私は、リヴァイに恋をしているの」
「そうらしいな」

 吊り上がったナマエの目が、たちまち潤んだ。あれだけ自分を求め、天に向かって泣いていれば、そういう感情がリヴァイには無縁であっても、それが恋というものであることに気付く。私欲と呼ばれ、天使にとってはユミルの意思に反する心だ。

「わた、しが、私が復天するためには、小さな恋心より、大いなる愛を優先しなくちゃいけない。今までだって、そのためにずっとそう行動してきた、つもりなの」
「天界から見ていた。お前はよくやっている」
「違うの! 無理、できないの……。だって私はリヴァイが好きなんだもん。知ってしまったリヴァイへの恋心を、好きな気持ちを、どうしても無視なんてできない!」
「できない?」

 すべての感情を曝け出し、全身で想いをぶつける姿は、天使から見れば醜いことこの上ない。己の欲を優先させるなど、水底の砂を巻き上げて、澄み切った水を濁らせてしまうようなもの。しかし、どうしてかリヴァイはその姿を見て嫌悪するどころか、今まで感じたことのない熱が燻り出していた。
 復天のために私欲を捨てられない。その私欲は自分への恋心だという。小さな天使を必死に引き剥がした時は、一体何をそんなに怒っているのか理解できなかった。
 ナマエが天界から追放されて以来、毎日毎日自分を求める声を感じ取っていた。心を入れ替え、復天するのはいつのことか。それとも自分を忘れ俗世に染まる方が早いか。リヴァイにとって、ただそれだけだったのに、近頃では子どものように泣き、自分を求めるナマエが気になって仕方がなかった。そして、とうとう地上に降りてくる選択をしてしまった。

「リヴァイを独り占めしたいの」

 ハラハラと零れ落ち、スモッグに吸い込まれていく涙が美しい。

「リヴァイが誰かと一緒にいるのも辛い。それが小さな子どもであっても嫌。嫉妬しちゃうし許したくない」

 他の誰もいらない。自分だけを見て欲しいと、頬を染めて懇願する姿に魅入ってしまう。

「リヴァイが他の女の子と話をしているのを見るだけで嫌。天使に恋愛感情がないのはわかってる。純粋な好意だってわかっていても、嫌なものは嫌!」

 醜いほどに愛に縋る姿。それも自分を欲するものだと思うと、懸命にもがく彼女を抱き寄せたくなる。

「今はこんな醜くて、翼だって片方になっちゃったけど、私だって天使だったからわかってる。世界の幸福しあわせが大事なこと。でもリヴァイを好きな気持ちだって私には大事なの。こんな心のままじゃ天使に戻れない。復天できない」

 言葉を吐き出すたびに、ハラハラと流れ落ちる涙。しかし、リヴァイが拭ってやる間もなく、ナマエは両目を手で覆いかぶりを振った。指と指の隙間からまたも涙が零れ、尚もスモッグの中へと落ちていく。
 これは偶然だ。彼女の涙が落ちた先を、一筋の光が後を追うようにスモッグの中に差し込んでいく。まるでリヴァイにナマエを追えというように。
 
「泣くな」
「そんなの無理、できない」
「ナマエよ。お前はさっきからそればっかりだな」
「わからないよ。リヴァイに会えて嬉しい気持ちと、でも、やっぱり一緒にいられないって思ったら、涙が止まらないよ」
「そうかよ」

 鮮明に聞こえていたリヴァイの声が、やけに遠くなったような気がした。ナマエはまさかと顔を覆っていた手を下ろす。

「あ、ああっ、そんな待って!」
「どうやら、時間がきたらしい」

 空気に溶け込むように、リヴァイの姿が消えつつあった。祝福で満たされた穢れのない天界で過ごす天使は、人間界に長く留まることができない。消えかかっているのは、ユミルが強制的に天界にリヴァイを戻す前触れ。これに逆らって無理に留まれば、リヴァイは魂ごと消失し、天界どころか、この世界のどこにも存在することができなくなる。
 たった一つの方法を除いて。

 行かないで。
 傍にいて。

 喉奥まで出かかった言葉を飲み込み、唇をかみ締めた。リヴァイが優しく触れてくれた唇が傷つくのは嫌がったが、それ以上に愛しい存在がどこにもいなくなってしまうのは、死よりも耐えがたい。
 やがてリヴァイの体は陽炎のように揺れ出し、いよいよ別れの時が迫る。次に会えるのは一年先か。それとも十年、百年、それともこの先二度と会えないかもしれない。消えつつあるリヴァイを、ナマエは喉が枯れるほどの声で泣きながら叫んだ。涙で視界が滲む。捨てなければいけない私欲が、唯一の宝になってしまった彼女にとって、別れは身が引き裂かれるほどに残酷な現実。

「ナマエ」

 最後の声が聞こえたのか、それとも離れたくない心が生んだ幻か。いよいよ消えかけているリヴァイに応えようと声を辿ったその瞬間。

「何を、するの? リヴァイ!?」

 躊躇いは微塵もない。リヴァイは自身の片翼を鷲掴み、勢いよくもぎ取った。相当な激痛だろうに、リヴァイの表情はピクリとも変わらない。あれは本当にリヴァイの翼なのかと一瞬疑いもした。しかし背中の付け根から鮮血が空を舞う様に、否が応でも彼のものなのだと認めざるを得ない。
 あまりの衝撃に、あれだけ流していた涙が止まった。すっかり鮮血に穢れた姿で、彼女の目の前に現れたリヴァイは、驚いて目をまん丸に見開くナマエを掻き抱いた。決して離さないよう、強く。
 先ほどまで薄れていたリヴァイが、どんどんはっきりと姿を取り戻す。それは同時に彼が天使ではない何かに変貌しようとしているということ。片翼を自ら引きちぎり、失っただけが理由ではない。リヴァイの中で、天使として許されないものが生まれたことを意味する。
 まして血にまみれ、罪に堕ちた真っ黒な堕天使を抱けば、当然リヴァイの存在が穢れる。その証拠に消えかかっていたリヴァイの体はすっかり実体を取り戻し、更にはナマエの愛する美しい白が、黒へと染まりつつあった。
 
「どうして……」

 リヴァイに抱きすくめられたまま、あまりの出来事にナマエは動揺を隠しきれず、ヒステリックに叫んだ。天使が、いや、リヴァイが翼を失うなど、あってはならない。あの綺麗なリヴァイが黒に染まるなど、あってはならないのに。

「何やってるのよ! ユミル様の意思を断ち切って、片翼まで失うなんて! これは堕天なのよ!? 自ら堕天使になろうだなんて」
「それがどうした」
「頭がおかしくなっちゃったの!? 馬鹿なこと言ってないで、早くユミル様に許しを請わなくちゃ」
「必要ねぇ」
「駄目! 天界に戻れなくなるんだよ! ねぇ、リヴァイ!」

 言っていることは支離滅裂である。ナマエの復天が絶望的ならば、一緒にいるためにはリヴァイが堕天使になるしかない。それが叶ったというのに、ユミルに許しを請うて、彼だけ復天しろと言う。
 そうこうしているうちに、誰より美しかったリヴァイの堕天が加速する。黒とあかで穢れ、光を失っていくのを見て、ナマエは悲しさと嬉しさの狭間で顔を歪めた。

「そんなつらするな」
「だってっ」
「もういいんだ」

 リヴァイは腕を緩め、抱きすくめていたナマエを見た。なんとも情けない顔をしているものだと、こんなにも切迫した状況なのに、笑いが込み上げてくる。自分だけに向けられるナマエの感情の名前を自覚し、どうやらそれはずっと前から胸の奥にあったものだったと知る。

「俺はもう、天使としては生きていけないだろう」

 堕天しても、リヴァイの静かな声色は変わらない。ナマエは刻一刻、自分と同じ堕天使になっていくリヴァイを無言のまま見つめながら、小さく首を横に振った。リヴァイに会いたいと願いすぎた。離れたくないと我儘を言った。自分の私欲が彼からユミルの加護を奪ったのだと、何度も「ごめんなさい」と口にする。

「お前は悪くない。俺も大いなる愛より、お前と一緒にいたい私欲が勝っちまった」
「……っ、今、なん、て?」


 思いもよらない言葉に、ナマエが大きな目を更に見開く。勘違いしてしまう。私欲で自分と一緒にいることを選んだなど、まるで。

「どうやら俺は、お前に恋というものをしちまったらしい」
「うそ」
「どんな形であろうと、お前の傍にいられるならそれでいい。それだけは伝えておく」

 リヴァイはそう言うと、ナマエの細い首に腕をまわし、触れるだけのキスをした。ほんの数秒、唇と唇が触れ合うだけ。なのに、ずっと前からそうしなければならなかったのだと、リヴァイはすべてを受け入れた。
 ナマエの声に応えて人間界に降りて来た時から、堕天する運命だったのだ。思えば、ただ一人の女に会いたいという「私欲」が、リヴァイを突き動かしたのだった。こんな自分にも恋という感情が芽生えたことを、リヴァイは皮肉にも慈愛の女神に感謝した。

「俺はこの世界でお前と共に生きる」

 リヴァイはそっと彼女の頬を両手で包み、親指で涙の跡を拭った。顔を近付けても、彼女は逃げることなく睫毛を震わせるだけ。鼻先が触れ合うまでに近づき、その息遣いを感じた刹那、柔らかな唇が重なった。
 さっきより、少しだけ強く押しあてられたリヴァイの唇は、天使が祝福を与えるものとは違っていた。リヴァイの中で息吹き出した私欲想いを感じ取り、ナマエの目から再び涙が零れ出す。
 もう、あの美しいリヴァイはいない。ここにいるのは、恋という私欲に堕ちた堕天使だけ。残った片翼はナマエと同じようにすっかり黒く染まり、鋭い牙も生えていた。それでもナマエにとって、どんなリヴァイであっても美しく愛しい唯一の存在。

 くすんだ人間界の空の上、片翼を失った二人の堕天使が見つめ合う。もげ落ちた天使の証であるリヴァイの片翼の残骸が、天から降り注ぐ光に照らされて、二人のまわりに漂っていた。

「ナマエが堕天した時と同じだ。あの日も空に羽が舞っていた。まあ、今度は俺のものだが、綺麗なもんだな。悪くない」
「何言ってるの。バカなことして……。バカだよっ」
「ああ、そうかもしれねぇ。だが、ずっと胸にあったつっかえがとれて、今は満足している」

 堕天したリヴァイの顔に、後悔も苦悩もない。二度と白い翼で羽ばたけないというのに、何とも他人事な言葉だった。何より天使だった頃より、心が近くにあるように思えて、ナマエの目尻には止まりかけていた涙が、また滲み始めていた。

「あの日、コイツだけが俺の手の中に残ったんだ。何故かどうしても手放せなくてな。誰にも気づかれないようにずっと持っていた」

 ほら、とリヴァイは懐から何かを取り出した。それはかつてナマエの背中にあった翼の一部だったもの。天界で唯一リヴァイが手にした、ナマエの欠片だった。

「どうして、って聞いてもいい?」

 恐る恐るリヴァイの顔を窺うと、表情は変わらないのに僅かに下がった眦から、温かな優しさが見えた。

「お前を……ナマエを忘れたくなかった。コイツさえあれば、いつでも一緒にいるような気になれた。そしてきっとまたこうして会えると、そう思えたんだ」
「会いたいって思ってくれてたの?」
「ああ。お前がいなくなって、ずっとモヤモヤしてたのは、そういうことだったんだろう」
「その羽を私だと思ってくれてたの?」
「だから、手放さなかったのかもしれねぇ」

 ナマエにとって、それだけで十分だった。ずっと凍えて寒かった自分のすべてが、幸せという感情に包まれて、春を迎えた気持ちになった。
 私欲は罪。それを捨てきれないことに苛まれてきたが、もうそんな必要はないのだと、ナマエは顔をグシャグシャにして声を上げて泣いた。リヴァイの目には、さぞ滑稽に映っているのかもしれない。それでもナマエは今、溜め込んできた不安や羞恥、苦悩をすべて吐き出してしまいたかった。

「よく泣きやがる。……もう、コイツはいらねぇな」

 そう呟き、長らく大切にしていた彼女の欠片を、リヴァイは自分が天使だった名残の羽の中へと手放した。
 目の前で泣く堕天使が愛おしい。だから欠片ではなく、私欲彼女をこの手に掴みたい。

 片翼を失った二人の堕天使が、互いの私欲想いに惹かれて抱き合えば、まるで天使が両翼を広げているようだった。そのまわりを、ナマエの羽がリヴァイの羽に惹き寄せられ、寄り添って地上へと降りていった。

 それは、まるで晴れ間に輝きながら降る雨のように。



FIN.

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