White Horizon


 私のこと、守ってね──。


 真っすぐな眼差しは、濁りない宝石のように輝いていた。太陽も月も星もない歪な天井が、ここ地下街で生きる人間の心を暗がりに導くというのに。
 まだ大人になりきらない、幼さを残したナマエは、リヴァイにとって守るべき存在。自分とてまだ二十歳にもならない半端者だが、ナマエ一人抱えて生きていける自信があった。

 地下街生まれの地下街育ち。リヴァイはこの殺伐とした暗闇の中で、ナマエという光に出会った。リヴァイが彼女に抱いた感情は、思えば初恋と呼べるものだったのかもしれない。


 ある日のこと。仕事は上々で思った以上の収穫に、リヴァイはいつになく上機嫌で浮かれていた。柄にもなく、アジトで待つナマエを驚かせたい。何よりたくさん喜んでほしかった。
そう思いながらリヴァイが地下街にしては質の良い食料を手に取った時、ニヤつく男が告げた言葉に血の気が引いた。

「あの娘、お前がいない間に、どこぞのお貴族様に連れて行かれたぜ」

 慌ててアジトに戻ると、すぐさま屋内の異変に気が付いた。倒れたイスと、荒らされたテーブル。奥の台所は調理器具が乱雑に転がり、ナマエが大切に保存していた小麦粉が、床を白く汚していた。
 もしかするとふざけて隠れているのかもしれない。リヴァイは一縷の望みで部屋をすべて確認したが、どこを探してもナマエの姿はない。やはり男の言うことは本当なのかと、全身が凍ったように冷たくなった。

 なぜ大丈夫だと思ってしまったのか。もっと注意を払うべきだった。この地下街では、人も立派な商品だ。しかもうら若い女とくれば、人買いに目をつけられて然り。今までも攫われかけたことがあったというのに。

「……クソっ!」

 ナマエが消えた事実に絶望すると同時に、激しい怒りが湧きあがった。リヴァイは激情のまま、勢いよく壁を殴りつけた。何度も何度も繰り返し、やがて拳の皮はずる剥けて、壁に赤い染みを作った。それでも収まらない怒りをぶつけ、リヴァイは壁を殴り続けた。
 それからのことはあまり覚えていない。ただ無我夢中で、ナマエを闇雲に探した。連れ戻さなければ。その思いだけがリヴァイを突き動かしていた。しかし、結局ナマエが見つかることはなかった。



 数年後、リヴァイは地上に引き上げられ、調査兵団に入団をした。当初は兵団に馴染めないでいたものの、今ではなくてはならない戦力となっていた。

 845年のこと。幾度目かの壁外調査に赴いている最中 (さなか) 、壁外とシガンシナ区を隔てる壁が超大型巨人に破壊された。壁外で異変を感じたエルヴィンの指示により、調査兵団は急遽壁内に引き返したが、時はすでに遅く。
 巨人たちは次々と街に入り込み、逃げ惑う住民を蹂躙した。更に鎧の巨人によって内側の門が破壊され、人類は完全にウォール・マリアを放棄することとなった。


 避難民で騒然となっているはずのウォール・ローゼを、エルヴィンとリヴァイは壁上から見下ろす。

「この惨状をお優しい王様は、どう解決するつもりなんだろうな」
「それ以上は口を慎め、リヴァイ」
「ハッ、お偉いお貴族様たちは、壁の真ん中でさぞご立派な知恵を絞っていることだろうよ」

 危険から最も無縁な壁の真ん中で、己の利権を貪る権力者たちを、リヴァイは殊の外嫌悪している。リヴァイの吐き出す権力者への言葉は、いつも皮肉に満ちていて、眉間の皺がより深く刻まれた。無論エルヴィンとて権力者たちを快く思っているわけではない。しかし壁外調査を続けるためには、権力者からの出資は必然で、あからさまに心内を晒すわけにはいかなかった。

「いずれにしても、我々は上層部の決定に従うだけだ。たとえどんな結果になろうともな」
「……そうかよ。お前がそれでいいなら、俺はもう何も言わん」

 リヴァイが言うと、エルヴィンは苦笑を浮かべた。

「私だって聖人君子じゃないんだ。言いたいことは山ほどあるさ」
「まぁせいぜい上手く立ち回るんだな」
「そうだな……」

 そう言ってリヴァイは、「壁外」になってしまったウォール・マリアに目を向けた。どこまでも続く青空を遮るように、煙が立ち昇っていく。つい数刻前まで人の営みがあった光景は崩れ、もう耳に届くはずがないのに、住民の悲鳴が響いているようで、リヴァイは無意識に拳を握り締めていた。
 リヴァイは初めて壁外へ出た日を、今でも鮮明に覚えている。壁の中、しかも薄暗い地下街とは比べものにならない自由。地平線まで続く広大な景色。空を覆うようにそびえ立つ巨大な樹木。草花や虫たちの息吹。すべてが新鮮で、柄にもなく胸躍った。

「生きているのか、ナマエよ……」
「何か言ったか?」
「いや、なんでもねぇ」

 呟きを聞き取ったらしいエルヴィンに、首を振って否定する。あの時抱いた高揚感や僅かに期待した明るい未来は、今はもうない。ふとリヴァイはナマエとの約束を思い出した。あの時は呆れるくらいに自信に満ちた自分が、「必ず守ってやる」と心底本気で口にした言葉だった。

「結局俺は、大切な奴らを誰一人守れなかった」

 自嘲気味に笑い、リヴァイは目の前に広がる壁外の大地に目を凝らした。


 それから2年後の847年。
 義勇兵を募り、ウォール・マリア奪還作戦が決行された。調査兵団も当然加わり、その中にはリヴァイの姿もあった。


* * *


 ウォール・マリア奪還作戦の全容に、兵士の誰もが怒りとやるせなさを胸の内に抱えた。訓練の一つも受けたことがない民間人を、作戦に導入することが決定された。誰もが真の目的を理解していた。ウォール・ローゼへの後退によって生じた深刻な食糧事情を改善するため、領土奪還を名目にした口減らしである。

 その彼らの傍らには調査兵が配置され、連なる隊を先導していた。リヴァイも行軍の一角を担っていた。足取りは決して軽くはない。覇気のない行軍は、この先待ち受けている運命が何なのかを悟ってのこと。リヴァイはまるで、自分が彼らを死に導いている死神に思えてならなかった。

「立ち止まるな! 進め!」

 壁内を出発してから、何度耳にした言葉か。騎乗の兵士が徒歩で行軍する義勇兵を急き立てているのを、リヴァイは苦々しい思いで見ていた。中でも体力のない老人など、力なく膝をつくのもざらである。

「お爺さん、大丈夫?」

 まさに老人が行軍から遅れて、動けずに地べたに座り込んでしまったその時。隊列から抜け出し、老人の元に駆け寄る人影にリヴァイは息を飲んだ。目深に被っていたフードが風に吹かれて露わになった顔は、リヴァイが探していた馴染みに似ていた。

 ボロを着た姿は小柄な男に見えなくもない。しかし声は間違いなく女のもの。聞き間違うはずもない、貴族に買われて地上に連れ去られたナマエのものだった。

「さあ、掴まって」
「すまないね……。なんてことだ。こんなお嬢さんまで」
「そんなことより。ほら、置いて行かれちゃう」

 老人に肩を貸し、よろめきながら歩く様は見てられないほど頼りない。すぐにでも助けに入りたい衝動を抑えて、リヴァイはその光景を見つめていた。

「本当にアイツなのか?」

 彼女はあんな目をしていなかった。疲労困憊なだけなのだろうか。ちらりと垣間見えた目が、これから死に行く者たちと同じ濁りを放っていた。

 もしナマエだとしたら、何故こんなところにいるのか。貴族に買われたならば、安全な場所にいるのではと疑問が浮かんでは消えた。いずれにせよ、リヴァイは目の前の状況を見過ごせなかった。あの日以来ずっと探し求めてきた彼女が、今まさに命の危機に晒されようとしているのだ。考えるよりも先に体が動いていた。

「リヴァイ。持ち場を離れるのは良くないよ」
「ハンジ……。チッ、わかっている」

リヴァイの様子がおかしいことに気付いたハンジが、咎める声とともに彼の行く手を遮った。リヴァイは忌々し気に舌打ちをして、仕方なく元の配置に戻るも、一度湧き上がった疑念はすぐに消えることはない。
やはりどうしても確かめたくなって、リヴァイは再び隊列から離れようとしたのだが、既にナマエらしき人影を見失ってしまった。



 夕刻、これ以上の行軍は危険と判断され、見渡しの良い小高い丘に野営の陣を敷くことになった。出兵に慣れた兵士たちにとって、野営の準備はお手のもの。しかしまともな武器もなく、巨人の脅威に晒されながら行軍した義勇兵たちの疲労は色濃い。一度座り込んでしまうと、動くことができないでいた。

「酷ぇもんだ」

 着の身着のままで、どう見てもウォール・マリア奪還を本気で実行するような出で立ちではない。ろくに走れもしない老人、鎌や棒切れしか持たない義勇兵の有様に、リヴァイは苦々しく吐き捨てた。

「そう言わないでよ。彼らだって必死なんだから」
「こんな老いぼれどもが、何の役に立つってんだ。精々巨人の餌になるくらいじゃねぇか」
「そんな言い方はよくないよ。……でもまあ、確かにちょっと無謀だよね」

 苦笑しながらハンジは同意する。今回の作戦に参加した兵士の大半は、この先の壁外調査でも主力となり得る人材たちではある。しかし実戦経験がある者はほんの一握りに過ぎず、指揮をとったことなど皆無。それに加えて、大半が民間人の集まりである義勇兵とあっては、お世辞にも戦力とは言えない。
そんな彼らの統率をとるため、リヴァイやハンジといった経験ある兵士を投入したわけだが、それでも戦力不足は否めない。

「胸糞悪ぃんだよ。クソどもが」
「私たちができる限り連れて帰ってあげよう。それしかない」

 この奪還作戦の真の目的を知る身にとって、自分の言葉は気休めでしかないことは理解していた。ここにいる義勇兵のほとんどが、権力者たちの思惑によって命を落とすことになるのを知っている。
死なせることが作戦の本質。これはそういう作戦なのだと言い聞かせても、簡単に飲み込めるものでもなく、気休めを言わずにはいられなかった。

「ところでハンジよ。義勇兵の中に、若い女を見かけなかったか?」

珍しいこともあるものだと、ハンジは好奇の眼差しでリヴァイを観察した。彼も人間なのだから、色事に手を出さないことはないだろう。だからと言って、この状況で相手を探そうというのだろうか。それとも他に目的があるのか。

「やだねぇ、リヴァイ。作戦中だよ」
「あ?」
「壁内に戻るまで、我慢するんだね。いくら部下に手を出すのが気が引けるからって、民間人はいただけない……痛っ!」

 悪ふざけが過ぎてしまった。少しだけ揶揄うつもりが、どうやら今のリヴァイには琴線だったようで、蹴られた尻への衝撃はいつもより重い。ついでに睨みつける視線は、今回の作戦への不満も相まって鬼そのものだった。

「悪かったって。だけど若い女性ねぇ……。見かけなかったけどなぁ」
「そうか。外套を被って、一見男か女かわからねぇ出で立ちだ」
「うーん……。って、リヴァイ。あれ、違うの!?」

 ハンジの声に弾かれて視線を走らせると、そこには先刻見た覚えのある姿があった。頭からすっぽりと外套に身を包んでいて、顔までは見えない。しかし背格好は明らかに女性のそれで、リヴァイが探していた人物だと確信するには十分だった。

「行って来たら? 知り合いかもしれないんでしょ」
「ああ、悪い。少し外す」
「はいはい。行ってらっしゃい」

 躊躇ない返答に、ハンジは小さく肩をすくめた。調査兵団に入団した当初、リヴァイの態度はそれは酷いものだった。信頼するのは一緒に来た二人だけ。その二人が壁外調査で命を落とした後、どうなるかとも思ったが、少しずつ彼は兵団の中に馴染んでいった。それでも隙のない姿はどこか距離を感じさせ、冷めた印象が持たれていた。
それがどうしたことか。個人的に誰かを気にする素振りを見せ、自ら接触しようとするのだから、酒でもあればじっくり観察したいものであった。

「何だか 初めて人間らしいところを見た気分だよ。さぁて、お邪魔虫は消えますか」

 そう言って駆け出したリヴァイの後姿を見送った後、ハンジは野営の準備をしている兵士たちの輪へと歩き出した。


 リヴァイが話かけるより先に、外套を被った女性が彼の存在に気付いた。足を止め、リヴァイを見つめたまま動かない。

「おい」

 近付きながら声をかけると、びくっと体が震える。しかし逃げ出そうという気配はなく、ただ黙ったままだった。

「お前、名は。どこから来た」

 答えはない。彼女は相変わらず黙り込んだままで、リヴァイは舌打ちをした。

「顔を見せろ」

 乱暴な物言いに、彼女は戸惑いながらもゆっくりと外套を降ろした。現れたのはやはり見知った顔で、リヴァイがかつて地下街で共に過ごし、力及ばず奪われたナマエであった。

「ナマエ……なんだな」

 リヴァイは目を (みは) り、彼女をまじまじと見つめた。最後に会った時よりも随分大人びているが、間違いない。

「どうしてここに」

 リヴァイが尚も問うが、彼女の表情は変わらない。驚いているのではなく、感情を押し殺しているように窺える。しかし瞳の奥には困惑の色が浮かんでいて、リヴァイの問いかけに、どう答えてよいのかわからないようにも見えた。

 その沈黙が歯がゆく、リヴァイは更に言葉を重ねて返答を求めた。ようやく彼女が口を開いたのは、リヴァイが苛立ち始めた頃だった。その口から零れた言葉は、リヴァイの問いに対する明確な答えではなく、背中がさむくなるような言葉であった。

「私のことなんて、忘れているものかと思っていました」

 あまりに他人行儀な言葉だった。リヴァイにとっては予想外の反応で、一瞬言葉を失う。リヴァイが言葉を詰まらせた隙に、彼女は踵を返して走り去ろうとしたが、咄嗟に腕を掴まれてそれは叶わない。

「離して下さい」

拒絶を含んだ強い口調に、リヴァイは眉を寄せる。やっと再会できたというのに、ナマエの態度がリヴァイの苛立ちと不安を煽った。
 記憶の中の彼女とは違う。こんなにも冷たい声ではなかった。もっと温かく柔らかな声のはずなのに。

 もう、あの頃とは違うの──。

 そう言われた気がした。
 確かにあれから数年経っている。互いの立場も、何もかも変わってしまっている。しかし、奇しくも再会することができたのだ。リヴァイはこの機会を逃す気など毛頭なく、今すぐにでもナマエを腕の中に閉じ込めたかった。
 リヴァイは逃さないよう彼女の細い手首を強く握り、鋭い視線を向ける。そして、静かに告げた。

「あの日交わした約束を、俺は果たさなければならない」

 瞬間、ナマエの硬かった表情は崩れ、見開いた瞳から涙が零れ落ちた。その涙は果たしてどんな意味を持つのか。リヴァイはナマエの涙を見て胸が痛むと同時に、嗚咽交じりではあるが、やっと「リヴァイ」と名前を呼んでくれたことに安堵した。



 陣営から離れすぎるわけにはいかない。しかし人目がある中で、ナマエと話すことも良からぬ状況を生むのではと気が引けてしまう。
 それでもここで機会を逃がすくらいならと、懲罰覚悟でリヴァイは陣営から少し離れた木陰へと、ナマエの手を引いた。

「ねぇリヴァイ」
「どうした」

 幹を背もたれに、ナマエはしゃがんで膝を抱える。見上げた先には、いつの間にか満天の星が空を埋めつくしていた。

「覚えてくれてたんだね、約束のこと。昔、守ってくれるっていうアレ。私もね、ずっと覚えてたよ。忘れたことなかった」
「すまねぇ。俺は」
「あ、ごめんね。リヴァイを責めてるんじゃないの。ただ、お互い若かったなぁって」

  (まなじり) を下げたナマエの笑みは、不自然なほどに大人びていた。まだ20歳半ばに届いていないはずなのに、苦労を重ねたせいなのか、目尻に皺が刻まれているのをリヴァイは見逃さない。

「どうしたの、黙りこくって」
「お前がどんな生活をしてきたのか、とな」
「知りたい?」

 貴族に囲われ、外の世界のことは地下街にいた時と同様、ナマエの耳には入ってこなかった。否、そうではない。知ろうと思えば方法はいくらでもあった。何もいらなくなったのだ。どんなに綺麗な服を着せられ、贅沢な食事を与えられても、もうリヴァイに会えないことに絶望し、心の灯が消えてしまったのだ。
 そんな地下街よりも真っ暗な暗闇の中で過ごした日々を、口の端に昇らせるのは辛かった。

「迂闊だったな。根掘り葉掘り、ほじくり返したいわけじゃねぇんだ」

 陰の射したナマエの表情はあまりに悲痛で、リヴァイは堪らず彼女を抱き寄せた。記憶にある感触よりも小さく細い体に驚く。

「あなたが聞きたいなら、話すよ」
「無理に話さなくてもいい」

 ナマエも腕を伸ばしてリヴァイの背中にしがみついた。お互いの体温を感じながら、二人は暫く無言のまま抱き合っていた。
 女が貴族に買われるということは、余程教養のある者でもないかぎり、 (とぎ) の相手として召し抱えられる。ナマエも漏れなくそうだったはずで、今こうして一人で行動しているということは、飽きられたか主人となる貴族が没落したか。
 いずれにしてもナマエにとって良い思い出のはずがなく、無理に聞き出す真似をリヴァイはできなかった。

 やがてナマエはそっと体を離し、「戻ろうか」と言った。その声音はまだ少し掠れていたが、先ほどまでの弱々しい面影はない。一瞬ではあるが、地下街の心もとない蝋燭に照らされた、アジトの風景がリヴァイに過った。

「おやすみなさい、リヴァイ」

 ナマエが横をすり抜ける間際、リヴァイは思わず手を差し伸べたが、すぐに引っ込めてしまった。ナマエはその手をじっと見つめ、再びリヴァイの目の前に立って、引っ込めた手を両手で包んだ。

「まだ、……まだ、有効ってことでいいんだよね」
「何の話だ」
「さっき、果たすとか何とか言ってた、やつ」

 そう言って見上げると、リヴァイは眉間に皺を寄せて顔をしかめた。その表情に、余計なことを言って困らせてしまったのだと、ナマエは気まずくなる。
 かつて自分を守ると言った誓いを、ここから果たしてくれるのだと勘違いしたことに、羞恥で顔が熱くなった。さっさとこの場から立ち去ればいいのに、リヴァイから視線を逸らせずにいると、ふいに手を引っ張られ、気がついたら彼の腕の中にいた。

「ちょ、ちょっと待って!」

 ナマエは慌てて胸を押し返すが、びくともしない。先程の抱擁は、どこか同情と贖罪、そして再会を喜ぶ気持ちが含まれていたような気がした。だからナマエは慌てることなく、静かに抱き返すことができた。しかしこの抱擁は力強く、勘違いしたくなるリヴァイの熱が伝わってくるのだ。

「うるせぇな。少し黙ってられねぇのか」
「だって、こんなところで! 恥ずかしいよ……」
「誰も見てねぇだろうが」
「そういう問題じゃなくて……っん」

 抗議の声を上げようとして、リヴァイの顔を見上げた時、ナマエの視界は一瞬にして遮られてしまった。次に感じたのは温かく柔らかな感触で、それがリヴァイの唇であることをすぐに理解できた。あれだけ一緒に過ごしていたのに、これが二人にとって初めての口づけ。いつかと願いつつも、どこかで諦めてしまった淡い恋心が目を覚ます。
 ゆっくりと唇が離れ、ナマエは目を丸くしてリヴァイを見た。目の前にはナマエが昔から変わらない仏頂面の彼がいる。自分のしたことなど何でもないというように、リヴァイは涼しげな顔をしていた。

「守ってやるよ。今度こそ、必ずな」
「っっ……ありが、とう」

 自分ばかりが、かき乱されているようでズルイと不満をぶつけたかった。反面、リヴァイが約束を覚えていてくれたことが嬉しくて、ナマエは泣き出しそうになるのを必死に耐える。

「お前は俺が守る。絶対に」

 繰り返される。それはナマエが聞きたかった言葉。リヴァイがもう一度伝えたかった言葉。あの日、リヴァイはナマエの手を掴むことができなかった。だが、今は違う。もう二度と離すつもりはない。

「俺は隊列のそばにいる。だからお前は俺を見失うな。いいな」
「わかった」
「お前が気にかけていた爺さんや、隊の連中も、俺の視界に入る奴らは、守る」
「え?」
「これは俺のエゴだがな」

 ナマエは驚いたが、真剣な眼差しに釣られて強く頷き、リヴァイの胸に頬を寄せる。すると、リヴァイもナマエを強く抱きしめた。

「もう二度と、あんな思いはごめんだ」

 リヴァイはそう呟き、ナマエの頬にそっと唇を寄せた。

「明日も早い。お前は戻って少しでも休め」
「リヴァイは?」
「俺は辺りを確認してから戻る。……何だ。怖くて一人で戻れねぇのか?」
「戻れるよ。だって夜なのに、こんなに明るいんだから」
「そうかよ。ならさっさと行け」

 ぶっきらぼうだが、これがリヴァイの優しさであることをナマエは知っていた。昔と何も変わっていない。リヴァイの態度に、くすりと笑みが零れてしまう。

「じゃあね」

そう言ってナマエは、星が瞬く夜空の下、踵を返して後にした。

 ナマエの姿はあっという間に暗がりに溶け込み、消えて行った。しかし見えなくなっても、彼女がまだ歩いているであろう場所を見つめ、そして静かに目を閉じる。

 この手で守り抜く。

 リヴァイは固く心に誓った。


* * *


 早朝、地平線に昇る太陽が、帳の藍を鮮やかに塗り替えていく。初めて目にする美しい光景に、誰もが心を奪われた。ここが壁外であることを忘れ、恐怖と警戒心が緩んで感嘆の息を吐いた。

 静かな朝、のはずであった。人々が眠りから覚め、美しい朝焼けに一日の始まりの光を浴びた。いつもなら昇る太陽は、そびえ立つ巨大な壁越しに見えるのに、今日は違う。
 彼方から顔を覗かせた太陽は、水平線沿いを薄く白ませたかと思えば、陽の赤が藍と交じり合って空を薄紫に染めた。やがて見事な緋色、そして蒼へと変わり、ナマエはこの光景を生涯忘れたくないと思った。

 リヴァイともう一度この景色を。
 ナマエは昨夜の約束を胸に、陽光の眩さに目を細めながら、必ず生き残ろうと心に誓った。


 その時、死への入り口が大きく口を開けた。刹那の安寧すら、人類には許されないのだろうか。
 鳥の群れが騒がしく木々から飛び立つ。兵士たちの顔つきが瞬時に固くなり、ピリピリした空気が広がった。義勇兵だけが何事かと状況を飲み込めないでいる。

「巨人だァァァっ! 急ぎ戦闘態勢をとれ!!」

 話には聞いていたが予想以上の巨体が姿を現し、真っすぐ陣営に向かってきた。誰もが凍り、そして弾かれたように走り出す。兵士の声など耳に入らない様子で、義勇兵は取るものもとりあえず、巨人の手から逃れようと必死だった。ナマエも逃げなければならないのは理解していたが、どうにも足が竦んで動かない。

統制のとれないまま、義勇兵は散り散りになって逃げ惑っていた。どんなに兵士が導くために声をあげようと、砂埃が舞い、悲鳴が飛び交う戦場ではまったく意味が成さないでいる。
 リヴァイとてまだ数える程度しか、壁外調査の経験がない。それでもこの混乱は予測するに易かった。

 ここにいるのは、己の意思もないまま作戦に参加を強いられた、義勇兵という名の民間人である。巨人を目の前にどうして冷静でいられるのか。訓練を受け、実践を積んだ歴戦の兵士でさえ、己の体より数倍もある巨人に、恐怖を完全に払拭することは容易でない。

 誰もが生還できるなど思っていないだろう。口減らしのため壁外に追い出された彼らは、はなからこの地に命を捨てに来たのだ。
それでも人間の本能が生き残るためにあがき、辛うじて足を動かした。

「どこだ。どこに」

 馬上から辺りを見渡すも、ナマエの姿が見当たらない。巨人が現れる寸前まで目の端に捉えていたというのに、混乱が辺りを包んだ途端、ナマエの姿は人波に飲み込まれて、リヴァイの保護下から離れてしまった。
 焦りだけが募る。一度目の約束は若さゆえの奢りから、ナマエを貴族に奪われてしまった。今度こそこの手で彼女を守ると星空の下で固く誓ったのに、またしても自分はあの手を掴めないのか。

 リヴァイ──!

 姿は見えない。しかし耳に届いたのは確かにナマエの声だった。焦りが生んだ幻聴かとも思ったが、再び自分の名前を叫ぶ彼女の声に、リヴァイは目を凝らして姿を探した。

「クソが。どこだナマエ! 返事をしやがれ!」

 砂塵が舞う中、声だけが相変わらず届いている。かつては暗闇の中でさえ視野を利かせていたのに、なんという (てい) たらくかと己を詰る。そして事態は更にリヴァイを追い詰めた。

「リヴァイ! このまま壁内に撤退だ!」
「義勇兵……、装備も馬もねぇ民間人がまだいる! 奴らのことはどうするつもりだ!」
「……っ、早くしろ!これは命令だ!」

 見捨てるのか。

 顔もよく知らない兵士の言葉に反論しようとした時、視界の端で何かが動いた。それはこちらに向かう巨人だと気付いた時にはもう遅かった。

「お前ら、逃げろ!」

 リヴァイの叫び声と同時に、視界に入っていた義勇兵たちが巨人の餌食となる。肉塊となって地面に叩きつけられる姿を見て、リヴァイに命令を下した兵士の顔色が一瞬にして青ざめた。そして我先にと馬を走らせ始める。その背を追うように、他の兵士たちも駆け出した。
残されたのは必死に義勇兵を先導する兵士数名とリヴァイ、そして既に戦意を失った新兵だけ。

 引くことは出来ない。何よりナマエを守ると誓ったのだ。ここで逃げれば一生後悔するに違いないと、リヴァイはブレードを構えた。
 目の前には逃げ惑う義勇兵が互いに押し退 () け合いながら、懸命に足を動かしていた。その中にナマエの姿は見えないが、確かに彼女はここにいる。ならば彼ら共々、何としても死なせるわけにはいかない。

「助けてくれ!!」
「死にたくない!」

 リヴァイは舌打ちすると手綱を強く引き、義勇兵を捕えようとする巨人に狙いを定めて、アンカーを射出した。グン、と体が引き寄せられ、更にガスを噴かせて加速する。体を高速回転させると同時に、ブレードを握る手に力を込め、巨人の手をかい潜って項を削いだ。

「早く行け! 壁まで走れ!」

 その声に弾かれ、兵士も義勇兵を馬に引き上げ駆け出す。リヴァイは更に迫る巨人の背後に回り込むと、もう一度ガスを噴かして跳躍した。

「と……り? 違う……」

 恐怖に耐えかねたナマエは、気力を失いかけていた。他人事のように、ぼんやりと逃げ惑う人々を見つめていた時。
 太陽を背に空を舞うリヴァイの姿が、翼を広げて羽ばたく鳥に見えた。

 まだ諦めてはいけない。
 昨夜の決意が打ち砕かれる寸前、捉えたリヴァイの雄姿に心が鼓舞された。

「お爺さん、立って! 逃げよう!」

 昨日の行軍で膝をついていた老人が、よろけて尻もちをついた。ナマエもよろけながら駆け寄り、手を差し出した。

「さあ、行きますよ!」
「お嬢さん、儂はもう無理だ。儂がここにいることで、少しでも時間稼ぎになるなら、それでいい」
「駄目よ……っ、そんなのっ」
「兵士さんも必死に戦ってくれている。その隙に壁を目指しなさい」

 腕を引いて立たせようとするが、老人にしては大きな躯体はびくともしない。諦めたくなくて、どうにか一緒に逃げようと試みるも、自分が囮になるから早く逃げろと追い立てられてしまった。

「走れ!」

 生きる決意を促した声が、耳を (つんざ) く。振り返ると、昨夜何事にも動じなかったリヴァイが、必死の形相で馬を走らせていた。こんなに大きな声で叫ぶことができたのかと、初めて見る姿に目が離せないでいた。

「振り返らずに走れ! 駐屯兵に開門の準備をさせろ! 今残っている調査兵は、義勇兵の先導だ!」
「しかし!」
「つべこべ言ってねぇで、やれ!」

 追随する兵士が言い淀むも、一喝するリヴァイの声は不思議と逆らえない空気があった。皆、弾かれたように馬の腹を蹴って壁を目指す。巨人の足音が迫ってくる中、ナマエもまた走った。

「急げ! 門はすぐそこだ!」

 一体や二体をリヴァイが討伐したところで、状況は好転しない。後ろを振り返ると、いつの間にか遠くにいたはずの巨人が近くに迫っていた。

 走れ。

 リヴァイの声が何度もナマエの脳裏に木霊し、竦んで立ち止まりそうになる足を動かした。目の前には壁が見えていたが、人の足で辿り着くにはまだ距離がある。それでも昨夜のリヴァイの言葉を信じて、息も絶え絶えになりながら、壁を目指して走り続けたのだが。

 ドサッ。
 既に限界だった足がもつれて、ナマエは勢いよく地面に転がった。立ち上がろうとするも、一度止まった足は疲労で震えて力が入らない。それでも気持ちはまだ折れていない。心臓が破裂しそうなくらいに脈打ち、激しく咳き込みながらも、ナマエはどうにか立ち上がった。
 天を仰ぎ、大きく息を吸い込むと、一面に広がる抜けるような青空が目に入る。

「こんなに綺麗で眩しかったんだ」

 不釣り合いだとはわかっていた。それでもナマエはあまりにも美しい青藍 (せいらん) に、感嘆せずにはいられなかった。
 地下街にいた時はあんなに憧れていたのに、無理矢理地上に連れて来られ、念願の空を目にしても何の感慨もなかった。けれでも今は違う。リヴァイが約束を果たそうと、この空を飛んで必死に戦っているのだ。

「私だって」

 一歩でも壁に近づかなければ。
 ナマエは鉛のように重い足を動かし、確実に壁へと近付いていった。


 ゴーン、ゴーン。

 開門を知らせる鐘が鳴り響き、それは壁外の兵士や義勇兵の耳にも届いた。まだ遠くではあるが、確かに開門されているのが見えた。兵士たちも安堵し、口々に「急げ」と馬を走らせる速度をあげ、内門に向かう。義勇兵は最後の力を振り絞り、リヴァイもまた彼らを目の端に捉えながら、ナマエとの再会を心に刻んで馬を走らせた。


「おい……。いつまで門を開けておくんだ」
「見てわからないのか。まだあんなに人が」
「そんなことはわかってるんだ!」

 内門を目指す列は、まだ遠くに連なっている。その後ろや左右からは、人に引き寄せられた巨人が、群れとなって人々を追って迫っていた。
 彼らを守りつつ、門も守ることができるのか。答えなは否。

「門を閉じるんだ……」

 誰かが言った。一瞬、兵士たちは息を飲むが、反論の言葉もなく閉門の準備に入った。
元々あそこに見えている義勇兵は、ここに戻ってくることのない人間だった。だからこれは当然の判断であって、咎められることはないのだと、胸の中で決して口の端に乗せてはならない言い訳をした。

 ゴクンと誰かが唾を飲み込んだのを合図に、混乱を極める壁外を他所に、鈍い音を立てながら門が閉まり始めた。

「チッ、切り捨てる判断をしやがったか!」

 振り返れば、まだ多くの義勇兵が取り残されていた。中には事態を理解した者たちが、言葉にならない叫びを発していた。リヴァイがもう少しだけ粘れば、彼らだけでも門を潜らせてやれるかもしれない。しかし、あと一噴かしもすればガスは切れるところまで、彼も追い詰められていた。リヴァイでさえ、このまま馬を走らせるしか術が残されていないのだ。

「このまま行くよ、リヴァイ! 振り返っちゃ駄目だ!」

 いつの間にか並走していたハンジが、リヴァイの迷いの糸を切る。放っておけば、きっと彼は義勇兵を救うために、最後のガスを使ってしまう。そう判断したハンジは、首を振って走れと促した。
 リヴァイは何かを言いかけ口を開いたが、ハンジの悲痛な表情に奥歯を噛み締め、言葉を飲んだ。

 どの道このままでは、リヴァイ自身もごった返す人波に邪魔され、失速して内門まで到達はできないだろう。残る手立ては、立体機動装置で直接壁上に昇ること。ガスの残量を考えれば、チャンスは一度きりで、リヴァイは慎重にアンカーを打ち込むタイミングを計った。

 背後にはまだ多くの義勇兵がいる。背中で彼らの悲鳴を聞きながら、リヴァイはトリガーを引いて迫る壁にアンカーを射出した。

「クソがァァァっ!」

 リヴァイの咆哮は、生死を別つ閉門の轟音にかき消される。
  (くう) を舞う最中 (さなか) 、眼前に広がった景色は陽光に阻まれて、すべてが白に飲み込まれた。それは地平線から昇る太陽が、藍から白へと美しく染めあげてた今朝の美しい景色と重なった。




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