小説 | ナノ


(※パロディ)

わたしの同居人の名前はジロウという。彼はわたしがこの家に引っ越してきた時からのパートナーで、ふたりでひっそり暮らしている。ジロウは激しい音が苦手で、モンプチが好きだ。かわいい、かわいい猫である。
もともと通い猫だったジロウは、一度、外でひどい怪我を負って帰ってきたことがある。ほかの野良にやられたのか馬鹿野郎な子供にやられたのかはわからないが、それはひどい怪我であった。わたしは急いで動物病院に駆け込んだ。それからわたしはジロウを家猫として迎え、ともに暮らすようになった。家を行ったり来たりしている彼氏彼女が同棲を始めるような、自然なものだった。
ジロウはもともとジロウという名前ではなかった。そもそも名前を呼んですらいなかった気がする。「おいで」と言えばジロウはふらっとわたしのもとまで来たし、相手が猫だということもあって、自分の性格すら忘れ無防備になりにゃあにゃあと鳴いてジロウを呼んだこともあった。そうだ。この家に入ってしまえば、にゃあと鳴くことが多かったのではなかったのだろうか。それが徐々になくなっていき、ジロウがジロウと呼ばれるようになったのは、ある男子高校生のせいだ。
わたしには歳の離れた恋人がいる。
褐色の肌に、つるりと綺麗なみずの色のような長髪を垂らした、はっと息をのむようなかんばせの男の子だった。名前は佐久間次郎という。わたしは彼をもっぱら上の名前で呼んだ。
ジロウという名前は佐久間くんからもらった。
佐久間くんは若かった。わたしを抱いたのも若さゆえの過ちだっただろう。わたしにとっては小さな、彼にとってはおおきな、過ちだった。わたしは彼の年齢くらいの時からそういうことに節操がなかった。殴られたように頭の中が白くとけていく感覚がたまらなくて、違う男と何度もおなじことを繰り返した。最近はそういうことに縁がなくて、いや、飽き症のわたしなので頭のどこかでもういいかという一線を引いていたのかもしれない。女は欲望がなくなったらどんどん枯れていってしまう可哀想な生き物だと感じた。服、化粧品、男。必要なものがどんどんなくなって、わたしはぱさぱさの人間になってしまった。
そんなときに佐久間くんに出会った。英語の非常勤講師として迎えられた学校の生徒のひとりとして、彼はそこにいた。外見以外にはとくにこれといった問題もなく、模範的でいい生徒だった。契約期間が終わろうとしていたときに、わたしは佐久間くんに呼び止められて「VI」と「BI」の発音の違いを教えてあげた。佐久間くんはわたしの唇をちらりと見て、床を見る。それを何度も繰り返す仕草は、まるで用件は他にあるんですといっているかのようでばかにされているんじゃないかと思い、叱責するか問いただすか迷っている間に、彼の目に熱がこもっていることに気付いた。経験豊富だった過去のわたしが教えてくれる、この熱烈な視線の正体を。久しぶりなので、ちゃんと女の身体になれるのだろうかと心配したが、それよりも目の前にいる若い男の身体に興味があった。そんなことを考えている時点でわたしはちゃんと欲望を持った女だった。
不動くんという悪い男がいた。モヒカンでハゲで、目はキリッとつりあがっている悪い男だ。佐久間くんと同じクラスで部活も同じ、わたしと彼らの長い人生にしてみれば一瞬だが、一瞬でもわたしの生徒であった。非常勤講師の仕事を辞めて塾の講師をしていたときに、街中で彼に会った。相変わらずハゲ頭にモヒカンを蓄えていた。「よぉ苗字センセー」なんて気軽に声をかけてきた。わたしは彼を邪険にあつかうこともできたが、それすらもめんどうくさい元生徒だったので適当に相槌を打ってあげた。そうすれば、彼はにたにたと年齢にそぐわないエロオヤジのような笑顔を浮かべながら佐久間はどうだったかと聞いた。罰ゲームか何かは知らないが、佐久間くんはこの不動くんにそそのかされてわたしを抱いた。

「ニャア」

忙しなく鳴くジロウはわたしにしか懐かなかった。もともとわたしとこいつしかいなかったので、よそ者に縄張りを荒らされたような気持なのだろうか、それともそのちいさな身体で私を守ろうとでもしてくれているのかはわからない。そんな猫だったので佐久間くんは我が家に来るたびに困っていた。
初めて彼がわたしを抱いたのは鍵が付いている無人の視聴覚室だった。行為が終わると、佐久間くんは何度も何度も謝った。そのたびにわたしはいいよいいよと彼を許したが、彼は頭を下げて謝り続けた。

「こう見えてもね、若い時は佐久間くんが謝った数でも足りない男と寝たんだよ」

だから気にしてないよと言えば、視聴覚室に静寂が訪れた。
最後の授業を終え、次はどこで働こうかと案を巡らせていればまた佐久間くんに呼び出された。また謝られるのだろうか。そんな重苦しい別れは御免だ。すくなくともわたしは楽しんだことだし。佐久間くんに抱かれた日のこと思い出しちゃうな。茶化そうと思って言えば、佐久間くんはぽぽっと頬を染めて、それから思いだしてくださいと言った。

「思いだしてください。何回でも、何度でも、俺がどうやってあんたを抱いたか」
「久しぶりだったから、実はあまり覚えてないの。その、よすぎて」

必死な佐久間くんをからかうのは楽しかった。
それから佐久間くんはジロウのようにわたしの家に通うようになった。週末はよく泊って帰った。合い鍵を渡した。わたしとジロウのものしかなかった部屋に、佐久間くんのタオルが増え歯ブラシが増え部屋着が増えた。あっという間に男のにおいがする部屋になり、洗面所にはしばらく不要だった化粧水、乳液、それから化粧品がまた揃い始めた。香水も仕事用とプライベート用で2つ必要になった。肌は潤いクローゼットの中は充実し、わたしの中に女が戻ってきたのだ。それにジロウは柔軟についてきてくれた。ただ単に何が変わったのかわからないほどに頭が悪かったのかもしれない。
ジロウは一向に佐久間くんに懐かなかった。
佐久間くんは特にそれを気にするわけでもなく、さらにはだんだん興味もなくなってきたようで構うことをやめた。それをいいことに、ジロウは佐久間くんがいるときは余計にあまえたになる。そんな日は佐久間くんがムキになり、わたしを乱暴に抱いた。佐久間くんも猫だと思った。ぼんやりと馬鹿なことを考えたが、わたしの手がなぞるのはちゃんと人間の皮膚だった。
わたしの杞憂はあたらずもがなであった。佐久間くんはとんとわたしの家に寄りつかなくなった。なにが原因なのかはわからないが、ぱったりと来なくなった。佐久間くん用に買ったぺんぎんのクッションがさびしそうにへこむのを待っている。わたしもさびしい気持ちをいっぱいに膨らませて、破裂する日を待っている。そもそもわたしと佐久間くんの関係というのは「こうでなければならない」と確立されているものではなかった。彼氏?彼女?ちがう。言えることは元教師と元生徒ということだけである。佐久間くんがあんまりにもわたしを抱くので、ジロウに嫉妬をするので、わたしがこんなにも彼に入れ込んでいるので錯覚をしていたが、恋人なんてものではなかった。佐久間くんはわたしの通い猫だった。佐久間くんからすれば、わたしなんてセックスを提供してくれる態のいい女だったのかもしれない。どんなに寂しくても仕事に行かなければならない。気がまぎれるので、それはそれでよかった。彼は猫だった。パサついた髪の毛を撫でつけて家を出ようとすれば、ジロウがないた。佐久間くんのクッションを踏みつけてこちらを見ている。

「いってきま、す」

ふいにでて声は、自分でも驚くほど震えていた。
この日から、わたしはこいつをジロウと呼び始めたのだ。ふふん、佐久間くんはこの猫の名前がジロウだなんて夢にも思うまい。家に帰ると必ず居るジロウ。朝起きると横にいるジロウ。モンプチをおいしそうに舐めるジロウ。ジロウにただいまもおはようもいただきますもごちそうさまも、今日の出来事も、全部話した。そんな日が3ヶ月ほど続いた。

「ジロウは目が青いから、佐久間くんとは反対だねぇ」

にゃあ。むりやり顔を押し付けてやれば情けない声で鳴くジロウ。その小さい身体をよじり飛び出た先は、佐久間くんのクッション。ジロウはすっかりそれを気に入ってしまって、日向に置けば気持ちよさそうに目を閉じ、じっと動かないこともしばしばで、わたしはまた寂しい思いをする。

「ジロウ」

そろそろ彼のタオルも歯ブラシも部屋着も処分してしまおうか。

「ジロウ」

好きだと、愛しているといってしまえばよかったのだろうか。それだけで何かが変わってしまうなんてことはあったのだろうか。そもそも不動くんは一体どうやってあの佐久間くんをそそのかしたっていうんだ。できるもんならわたしも佐久間くんをそそのかしてやりたい。

「じろう、すき、好き、愛してる」

言ってしまえばもう止まらない。ぼろぼろと溢れてなみだになってあふれてくる愛しさは、ソファにシミを作る。わたしの異変に気付いたジロウはばっと起き上がりふにゃあふにゃあと鳴いてわたしのまわりをぐるぐると歩く、と思ったらまた勢いよく走りだし激しく鳴き始めた。なにをそんなに興奮しているのかと思って視線をあげる。わたしは息をのむ。そこに立っていたのは、顔を赤くした佐久間くんだった。


20120924