松本ユーリ。日系人。アパレル関係。入社4年目の平社員。
 ランチを食べて、昼寝して、一服入れたら、少しばかりのデータ入力を片付け、定時でタイムカードを切り、帰宅。それがここ数年の午後の業務――だったのに。

「ユーリ! 会長がお呼びだから、すぐ会長室へ行ってちょうだい!」

 直属の上司であるクレア(齢41)に名指しで命令された午後3時。
 すべてはこれが始まりだったわけで、そして終わりでもあった。
 少なくとも、この呼び出しがなければ、俺は会社を出たその足、でジュエリーショップに駆け込んではいなかったと思うのだ。真面目にデスクへ向かっていたことが悔やまれる。

 とりあえず――
 俺は、これでもかというくらい狼狽していた。


 … … …


「ぇ、えっ………? なんて?」

「あら、聞き取れなかったかしら。この国に住んで随分になるのに、未だにそういうこともあるのね。あのね、会長が貴方を呼んでいるのよ」

「は?」

「もしかして、なにか知らない言葉でも含まれていた? えーと、そうね、じゃあ、うちの会社で一番偉い」

「いやそのくらいの単語わかりますって! 何年ここに住んでると思ってるんですか!」

 より噛み砕いた内容を、殊更ゆっくり発音するクレアに呆れてしまう。
 確かに日系ということもあり、容貌がアジア人に近いからなのか、他の社員からは少し遠巻きにされている節があるが、入社してからというもの、ずっとお世話になっているクレアにまでそういう扱いを受けては敵わない。

「そりゃ冠婚葬祭とかお国柄が出るマナーには怪しいところありますけど、日常会話ではまったく不自由してせんから」

 そこを間違って欲しくはない。
 言ってしまうと、小難しい日本語よりも堪能なのだから。

「あらごめんなさい。でも、本当に急いでるから、早く向かってくれないかしら」

「あ、あの、それなんですけど、なんで俺が会長に? 面識ないですし、なにかやばいことやらかした記憶もないんですけど」

 自覚がなくミスをしていたとしても、俺が携わっている業務で犯せる失敗なんて程度が知れている。会長の耳にまで届く大失態、そんなのはもう演じる方が難しいのではなかろうか。

「さあ、知らないわ」

「………」

 この人の下で働き4年だが、今、改めて感じた。
 糊の効いた水色のシャツ、脚の線が分かるタイトなパンツに、歩くとコツコツ音を鳴らす高いヒール、ブロンドの前髪を後ろに流した容貌は、小皺も相俟って利発そうな印象を受けるが――。

「クレアさん、管理職向いてないですよ」

 仕事出来そうな見た目なのに、能天気なんだから。この人は。


 … … …


 会長室へ向かうエレベーターの中、考える。

「左遷か、リストラか、減給か――」

 思いつく限りの悪い事態を想定したが、やはり、会長が態々動かざるを得ないミスを知らずにやらかしていたとは、到底思えなかった。
 もしも、自分に非があるとするならそれは『勤務態度』で、自覚はしていた。
 アジア人だと認識されている所為か、親しくない社員からは、どうにも壁をつくられる。
 手が空いている者を探していた先輩は、コーヒーブレイク中の俺をスルーし、仕事のわからない新人は、俺を『いない者』と扱い、一人困り果てる。
 国内向けの事業部のため、語学に富んだ人間が少ないのだ。詰まるところ、俺がなにをしていようがなにをしないでいようが、言葉の壁を乗り越えてまで(実際に乗り越える必要はない)注進を入れてくる物好きはいない。

 俺、この国の言葉話せますけど………。

 最初の頃は、そう主張もしていたのだが――。
 いかんせん、見た目が外国人なために、完全には信用してもらえなかったようだ。入社2ヶ月目にして、俺は社内で孤立したことを理解した。
 ――とはいっても、なにもイジメを受けているわけではない。
 寂しさを感じるよりも先に、この状況に味を占めた俺は、最低限の業務をマイペースでこなしたりこなさなかったりで、早4年。
 残業なんてものはしたことがないし、体力も精神も健全だ。悩みなんかないと、断言できるワークスタイルだった。
 こんな俺でも、ひと月はゆるりと休める有給と、年4度のボーナスをいただいてしまっている。
 ようするに、この会社には余裕があるのだ。
 俺のような社員を切り捨て、人件費を削るなどといった策に縋るまでもなく、順風満帆に業績を伸ばしているのである。業界ではトップクラスで、他に追随を許さない。半ば、独占状態だ。
 そんなわけで、給料も高ければ福利厚生も厚い最高の職場なのである。出世に無縁という点だけが懸念されるが、生涯平でも十二分に暮らしていける手当てだ。
 だからこそ、できるなら定年まで勤めたかったのだが、果たして――。

 自社ビルの最上階へと直結する、下から見上げれば天をも突き抜けそうな長い長いエレベーターは、しかし最新鋭のテクノロジーのおかげでイメージするほどの長い道中ではない。早くも、折り返し地点だった。

 そしてここで、はたと思い直す。
 もしや、悪い方向に考えすぎていたのではないだろうか、と。
 そもそも、俺になにか問題があるのならまずは上司に、そして俺に、という流れが自然であると思う。後々解雇なりの処分を受けるのは自分かもしれないが、お偉い方の叱責を受けるのは、俺の場合クレアさんであるはずだ。
 クレアさんは用件を知らないと言った。ということは――。

「出世!」
 
 もはや、そうとしか考えられなかった。希望的観測と言ってしまえばそれまでかもしれないが、一度ポジティブに物事を捉えれば、もう考え方は易々と変えられない。そういう性分である。
 無縁だ無縁だと思って諦めていたし、なにが会長の心を動かしたのかは検討もつかないが、きっと、自分のなにかが誰かの目に留まり、評価され、それが会長の耳に入ったのだろう。違いない。決まっている。少なくとも、俺の頭の中では決定されていた。
 そういえば、日本のドラマでこういうシーンを見たことがある気がする。
 個人的に上司に呼び出され、なにかと思えば右腕にしたいだとか後釜に据えたいだとか、あれはそんな感じの申し出だった。
 
 エレベーターが減速し、やがて停止した。
 あまり良い気分になれる感覚ではないが、今はそれも気にならない。 
 会長室に入る前に不安を拭えてよかった。ずっと、胃の辺りで燻っていた不快感から解放される。ストレスフリー、素晴らしい言葉だ。

 さて、この社の会長といえば、確か、知る人ぞ知る『あの』リチャード=キャナリィで間違いなかっただろうか。――うん、いくら俺が普段仕事をしてないからって、これは流石に間違えないな。
 リチャード=キャナリィといえば、社員はもちろんのこと、一般での認知度もかなり高いはずだ。資産家、実業家、あとは、俺は知らないが、政界にも足を踏み入れたことがあったらしいので、政治家として。
 ちなみに、彼の著したビジネス書は世界でアホほど売れている。親も持ってた、そして読んでた。しっかり影響もされてた。

 俺から見て、リチャードは初老をとうに過ぎた、よぼよぼとまではいかないまでも、普通の、柔和なお爺ちゃんである。

 会長室前の秘書室にて――。

「ユーリ松本様ですね、会長がお待ちです。中へ」

 ――こんな、シークレットサービスのような屈強な体躯の秘書(扉前だけで3人いた)を従えたお爺ちゃんが、おおよそ普通である訳がないのだが、そんなのはまだ知る由もない、松本ユーリ、日系人、アパレル関係、入社4年目の平社員。

 俺だった。



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