や×ひ
や×ひ | ナノ
古ぼけた安アパート。
赤く錆びて今にも朽ち崩れそうな脆い鉄階段を上がった二階奥角部屋、そこに彼の帰るべき場所があった。
「ただいま」
塗装がぼろぼろに剥がれ落ち、汚い斑模様の出来上がった木製の扉を、ギィと不快な音を伴わせ開く。
我が恋人はこの音を酷く嫌うので、そっと開けるよう留意してはいても、蝶番の金具が錆びてでもいるのか、どうやっても鳴ってしまう。
今度、油でも差してみよう。
いつ実行に移せるかわからない決意はひとまず鞄と一緒に棚に置き、聖(ひじり)は狭い部屋の都合上、仕方なく玄関口から丸見えの位置に敷かれた布団の膨らみに向かって言った。
「おーい、寝てるんかー?」
本当に寝てたら可哀相なので、小声で。
「―起きてる。つか、今起きた」
寝起きで嗄れた声が不満そうにワンテンポ送れて返ってくる。
ありゃりゃ、起こしてしまったか。
我が恋人は、寝起きと空腹時と欲求不満な周期は頗る機嫌が悪いから、取扱要注意なのだ。
「そか。ゴメンな? ところで腹減ってない? 今日は売れ残りが結構出たから、大漁なんだぜー」
鞄から本日の戦利品を取り出す。言わばバイト先の福利厚生だ。これがなければ、低賃金の昼仕事など好んで選ばなかっただろう。
食を司る神経がビニールの擦れる音にでも刺激されたのか、大和は薄い布団を蛇が脱皮するようにして抜け出し、戦利品に飛びついた。
そうか、そうか。そんなに腹が減っていたのか。遅くなって悪かったな――ってコラ。服を着なさい!
「着る服がねーんだよ。お前の服やお前が買ってくる安物は、チクチクして寝れねーし」
言葉にして叱責したわけではなかったのに、大和は的確に詭弁を垂れる。
恋人曰く、「顔に書いてあるんだよ」とのこと。
いやまあ、愛する彼氏の逞しい裸体を見たらそりゃ、表情にもなにかしら変化があるわな。と、若干の火照りを感じる顔を手で扇ぎ風に当てた。
「確かにそれは申し訳ないかなと思うけどさ、風邪引くだろ。バスタオルでもいいから羽織りなさいって」
賞味するには少しばかり時が過ぎた戦利品を頬張る大和に、後ろから大きめのバスタオルをかけてやる。
バスローブには劣るけど裸体よりはマシ。
いくら安物で使い込まれていたとしてもタオルなのだから、繊細極まりない彼の肌を不快に刺激してしまうこともないだろう。……たぶん。
「どうだ美味いか?」
「既製品に美味いもなにもねーよ。俺は毎食お前の手料理が食いてーんだ」
「へへっ。嬉しいこと言ってくれるじゃん! 大好き大和!」
感極まって恋人の背中に抱きつく。態度はぶっきら棒なくせに、すごい殺し文句だ。
自分でかけたくせに、肌の密着を隔てるタオルが今だけ煩わしく邪魔に思えた。
仕事もしない。家事もしない。家でごろごろ寝ているだけのロクデナシな彼氏だが、聖は決して大和を疎むことはなかった。
全てを棄て、自分を選んでくれた事実だけで満足だった。
「あ〜。お前といると仕事の疲れも吹っ飛ぶよ〜」
緩みきった表情で惚気る。
「そうか、それは良かった。なら、問題ないよな―」
不意に抱擁を解かれた。視界が反転する。背中に衝撃と、湿りささくれた畳の感触。ぎらぎらとした肉食獣のような眼が、自分を見下ろしている。もちろん、この獣は大好きな恋人だ。
まさかこの流れは―。
「やらせろよ」
びくっ。耳元で囁かれた。耳にかかる吐息がくすぐったくて身体が震えてしまう。
食欲満たしたらすぐ性欲なんて、本当に獣みたいだ。人間が神より賜った理性は何処に捨ててきた。
「いや、ちょっと待ってよ。言葉の、言葉の綾さ。客のクレームとか、メンタル的な疲労は確かに吹っ飛んだけど、立ちっ放しで棒のような足とかその他、肉体面はとても蓄積されたままだよ。てゆか、まだ風呂も入ってないし。……汗臭くない?」
フルタイムで働いた後で身体が辛いというのもあるが、本心はこれだった。
バイトは頭脳よりも身体を酷使する仕事だから、無臭というわけにもいかないだろう。
「このボロアパート自体がカビ臭ぇのに、今更そんなん気にするかよ。馬鹿じゃねーの。大体、風呂だって沸かしてねーし」
恋人はつまり「このままでかまわない」ということを言いたいらしい。
風呂の準備なんて気の利いたこと、端から期待していないからいいけどさ……。
若干、一々今の生活に対する不満を挟んでくるのが気になってしまう。これが悲しくもあり、また嬉しくもあるので聖は複雑だ。
不便を強いている申し訳なさと、不便でも生活を共にしてくれる充足感。
自分が最も恋人の愛を感じるのは、単純に抱かれてるときよりも、こういった瞬間だ。
「あんがとな……」
聖は大和の首に腕を回した。
聖と大和は、駆け落ち同然でこの安アパートに身を置いている。
その主たる原因は大和の実家による猛反発だった。
素封家で、しかも長男だった大和が聖との仲を許容されるはずもなく、今に至る。
聖はそれに大変心を痛めたが「下に弟が二人も居んだから、なんとかなるだろ」と楽観する大和に救われた。
実家と縁を切った大和に合わせ、聖も家を出た。
聖は五人兄弟の次男だったが、唯一の兄に当たる長男がやや頼りない部類の人間のため、弟三人の存在に後ろ髪を引かれたが、大和が家を棄てたのだから自分も―と決起し飛び出した。
悔恨は全くなかったが、生活は楽ではなかった。
聖が一人フルタイムのバイトをかけ持ちして、現状に落ち着いている。
大和からすれば、大富豪が一夜で大貧民に堕ちたような感覚だろう。我慢出来ているのが聖には不思議なくらいだ。
しかし、文句は垂れても自分から離れようとしない大和に、聖は「働け」とは言えなかった。
なんせ人の下で働いたことがない大和である。それが急に社会に出たらどうなるかなんて、推して知るべしだ。自分との生活が嫌になって実家に戻ってしまうかもしれない。聖はそれが恐ろしかったし、自信家な大和のプライドを傷つけさせたくなかった。
また、同じような理由で「せめて家事をしろ」とも言えない。
けれども、聖は大和に不満など持っていなかった。仕事も家事も自分がすればいい、大和には不自由ながらも奔放に過ごして欲しいとさえ願っていた。
しかし、どうやら大和は違ったらしい。
聖は、いやに剣呑な空気を垂れ流す大和を見て、ようやくそれを悟った。
「お前なんで俺になにも言わねーの。今の生活どう思ってるわけ?」
「えっと。そりゃ不自由させて悪いと思ってるけど、……なに。急にどうしちゃったんだよ?」
豊かとは言い難くとも、聖にとって充足した同棲生活が始まって暫くが経った頃、恋人から不意打ちのようにそう切り出されて、顔が真っ青になった。冷たい汗が背中を伝い流れ、腹の下あたりがずんと重くなる。
とうとう愛想を尽かされる日がきたのだ。
温水の出ない水道。シャワーのない風呂場。薄い壁。小汚い部屋。
食事といえば賞味期限の怪しい既製品か粗食。身に着けるのは肌も趣味も合わない衣料品。
育ちの良い大和が不満を持っていない道理もなかった。来るべくして来た日。
「まさかお前このままで良いとか考えてたわけか」
「あ、その……。」
言うべき言葉が見つからない。
顔もまともに見れなくなった聖は、視線を大和ではない何処かへと彷徨わせる。
そんな聖の様子に、更に剣呑さを色濃くした大和は声を張り上げた。
「ふざけんなっ! 俺を馬鹿にするのも大概にしろよ!!」
「―あっ。……ぅっ………ごめ、なさ」
大和の怒声に、聖は堪え切れず涙を零し謝罪した。
この地に住み着いてからというもの、諍いらしい諍いは幸いにして起きていない。怒鳴られることもなかった。それが今、積もりに積もった大和の不満が爆発して、自分にぶつけられている。
悲しくて仕方なかったし、及ばない自力が恥ずかしく悔しかった。
大和は別れの言葉をずっと待っていたのだ。
それに気付きもしないで、不便な生活を強いて我慢させてしまっていたなんて、なにが大好きだ。愛してるだ。自分は恋人失格だ。
「ごめん、ごめんな……。大和のこと全然考えてなくて、俺が悪かったよ」
ダムが決壊したみたいに涙が溢れた。
こんなに泣くのは何時ぶりだろうか。
いくら仕事と家事に忙殺されても、大和と暮らすためを思えばなんでもないことだった。だから、ここ暫くで涙腺をフルに機能させるくらい悲しいことなんてなかったのに。
『別れよう』
この一言を伝えるのが、伝えるしかないのが、こんなにも辛くて苦しいとは。
嫌だ別れたくない。まだ大好きなんだ。
言いたいことは死ぬほどあったが、全部自分の我儘だと封じ込めた。
大和には帰れば裕福な家がある。無理に貧乏に縛り付けたくはない。好きだから、苦労はかけたくない。
「そ、そうか。やっとわかったか。なら良いんだ。だが、なにも泣く必要はないだろうが?
……とりあえず、直ぐに引っ越せるよう準備だけしておけよ。それもわかったか?」
「ん……」
「バイトも明日と言わず、今日から行かなくていいから。もうずっと家に居とけ。出るな」
「ん……」
「で、これからは俺が稼ぎに出るわけだけど、別に浮気するんじゃねーかんな? 変に勘繰んなよ」
「……んん?」
多少の戸惑いは見せたものの、自分が折れることで簡単にその怒りを収めた大和は、満足そうに次々と言葉を連ねていった。
軽快で弾んだ口調に、そんなに自分と離れられるが嬉しいのか、と。―少しだけ恨めしくなる。
大人しく大和の言葉を噛み締めるように聞いていたが、徐々に違和感を感じてきたところだった。
思わず疑問を口にする。
「あの、どゆこと?」
これではちぐはぐだ。
聖は涙を止めキョトンと目を見開いて真意を問う。確か、別れ話をしていたんではなかったろうか。
「あ゛? お前いったい何を聞いていたんだ。だから、俺が稼ぐから聖は家に居ろと―」
「……別れるんじゃないの?」
大和の顔が般若のように変わった。
「テメーふざけんなよッッ!!! なんでだ! 別れるぐらいなら殺してやるわっ!!!!」
自分の思い違いに気付くまで、殺人予告とも取れる大和の罵詈告白を、聖は一身に受け続けた。
「はっはははっ! なんだよ、俺マジでビビッちゃったよ。大和に棄てられるんだと思った」
「それはこっちの台詞だ。全く、どうゆう理路を辿れば別れるなんて結論になるんだ。阿呆だろ」
ああ、本当に阿呆みたいだったな。
「ふふっ。やべー、ツボった。」
口汚く罵りながらも、大和は危うく破局するところであった恋人を離さんとばかりに、がっちりと腕に抱えて捕らえる。心なしか、拘束する二本の腕は震えているようだった。
誤解が解けた今、自分が大和から離れていく理由などないというのに。可愛い恋人だ。
「……ん。ゴメン。浮気なんかも絶対にしてないから許してくれね?」
「ちっ。それはもうわかったっつーの」
キレた大和は、聖に散々「まさか浮気したのか」「誰だ、バイト先の奴か」「だから別れたいのか」「許さない、殺してやる」「お前を殺して俺も死ぬ」等と吐きまくった。それは悪鬼の如く形相で。
最後の方は、薄く涙を浮かべながらの絶叫だった。
二度と隣人とは顔を合わせられない。一日でも早く引っ越そう。
恋人に全体重を委ねながら、聖は大和と同じく固く決意した。
「でもなんでいきなり働こうなんて思ったんだ? 労働なんてイヤじゃない?」
「いきなりじゃねーよ。お前と住むって決めたとき、端から俺が養ってやる気でいた。のに、仕事も家事も全部自分に任せろってお前が譲らねーからだな。仕方なしに、俺が折れてやってたわけだ。……独占欲の強い恋人に押し負けた形だな」
そうだっただろうか。
出奔騒ぎのゴタゴタでいまいち記憶に薄いが、とにかく大和が働かなくて済むように。と、確かにあの頃は焦っていたかもしれない。きっと、そのときに大和を論破したのだろう。
「どくせんよく? なにそれ。その心は?」
「なんだ、照れてんのか? 俺の心変わりが心配だったんだろうが。外になんか出したら、女も男も放っておかないと思ったんだろう?
だから仕事も家事もするなってな。そんな聖の我儘に付き合って、大人しく家に居てやってたんだ。どうだ。俺の行動を制限してみて、さぞかし安心出来たろう?」
「えー。」
自己申告の通り、引く手数多の恋人に独占心が皆無なわけではないが、それだけは違うと言いたかった。
しかし、この様子では信じて頂けないことだろう。自分の恋人は、自信家で思い込みが激しいのだ。
「それなのにお前、衣食住の全部に不自由させるわ―。いや、それだけならともかく。バイトでロクに家に居ないし、一緒に住んでる意味合い薄いじゃねーか。挙げ句、この間は身体壊すしよ……。だってのに、まだ俺を頼りやがらねーし。限界感じてんなら言えよ、馬鹿野郎が」
「うう。色々すみませんでした。でも、あれは風邪引いただけじゃん」
「ホント阿呆だな。万年健康体のお前がウイルスにやられるってことは、疲れで免疫が弱ってるってことなんだよ。無理すんな。とにかく、選手交代だ。半永久的にな。もうお前には任せられない」
「ちょっと傷つくなー。有り難いけどさ、大和に接客とか土方が務まるのか? そっちこそ、無理しない方がいいって。俺も働くよ? 共働きしよう」
「なんでこの俺が土方だのなんだのしなきゃなんねーんだよ」
「え。だって、働くって……」
学歴に限界のある、自分たちの年齢では職業の選択肢なんてこれくらいだろう。
あとは工員か、大和ならホストあたりも向いていそうだが、それは恋人として断固反対したい。
香水臭い恋人が、酩酊状態で朝方帰るという不快な想像に、聖は眉を顰めた。
大和は大袈裟に嘆息する。
「俺のハイパーな学歴があれば、それなりの企業になんなく入れるっつーの」
「? 大和なに言ってんの。俺たちタメだよな?」
自分になくて、大和にある最終学歴などないはずだ。
「言わなかったか? 海外でスキップした」
「……恐れ入ったよ。金持ちぱねぇのな」
納めている税金が桁違いの富裕層に、一般の教育水準を当てはめる方が間違っていた。
しかし、それではここ数ヶ月バイトに明け暮れていた日々はなんだったのかと切なくなる。
まぁ、不幸せではなかったからいいけどさ。
「でもま、お前と生きるために必要なら土方だってなんだってやってやるよ。……聖となら、貧乏ってのもなかなかどうして悪いもんじゃねーみたいだし、な!」
柄にもなく、自分の台詞に照れてしまったらしい大和は腕により一層の力を籠めた。苦しい。
けれども、なんて甲斐性だろう。聖は感動していた。
全身から愛しさが込み上げる。それは既に許容量を超え、外に漏れ出している気さえあった。でも、恋人が愛しいという気持ちはいっこうに費える気配を見せない。
大好きだ。大和。
「ありがと」
お前が疲れたら、今度は俺がまた頑張るよ。
“それなりの企業に入る”と言っておいて、今にも起業を始めそうな恋人に、そんな日は来ないかもしれないけれど。
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