「軟化してきていたと思っていたのだが」
「え?」
「お前への態度だ」

思い返してみればそうだ。初めて会った時は他の無星の生徒と全く変わらない扱いで、まるで空気みたいに思われてたみたいなのに。それがしばらくして一番はじめに追いかけられた時はほんとうに、怒気迫る表情で竹刀を振り回しながらだった。もう武器を持ち出すこともしなくなったし、わけのわからないことを叫ばれながら追いかけられることもなくなった(追われるっちゃ追われるけど……)。

「苗字のことを口に出すようになってきたと思えば、気に入らないと言い出してな」

流子ちゃんが転校してくる前には今みたいな追い回し方に落ち着いていたけれど、最近また変な調子になってきたみたいだ。わたしを庇う人が増えたのが気に入らなかったのかもしれない。はじめて部屋に連れていかれた時も今も、睨まれたり舌打ちされたり眺められたり食べ物飲み物をもらったりはしてきた。でもあんなことされたのは人生で初めてだ。嫌がらせにしてはステップアップが早すぎってレベルじゃないと思う。

「自らの理不尽な心根に気付き、省みていたのかと思ったのは間違いだったようだ」
「……」

なんでわたしが蟇郡先輩と一緒に生徒会室に通じるエレベーターに乗りながらこんな話をしているのか。実はわたしにもわかりません!
昨日の放課後美木杉先生から例の封筒を渡されて、それに従っていつもより早く登校すると下駄箱の前で蟇郡先輩が一人で待っていた。
風紀委員長のに呼び出されるなんて初めてで、一体何をやらかしてしまったんだろうと早起きしたぶんの眠気も飛んでいく。最近心臓に悪いことばっかりだ。

「緊張感を持つのは良いことだ。だがあまり固くなりすぎるな」
「は……はい、あ、ありがとうござ」

チーン、と耳に残る音とともにエレベーターの扉が開く。長い塔のてっぺんに着いたのかな。先を歩き始めた先輩を追ってエレベーターから降りた。左右に伸びている廊下の左を行く。一直線に続く広い窓から見える景色とその高さに、ちょっとめまいがした。

「貴様には見届けてもらうだけだ」
「見……?」

何を、と言う間もなく、蟇郡先輩がまるで映画館のような扉を開いて入れと促してくる。
心臓が飛び出してこないように胸を押さえて一歩。

「……来たか」

足が止まる。
そこに居たのは、白い制服を身に纏った本能字学園の頂点、鬼龍院皐月さま。
そしてその向かい、立ったまま上半身裸で四肢を鎖につながれているのは。

「さ……猿投山……先輩……」
「……苗字?」

薄暗い室内にその二人だけがライトアップされている。異常な光景にひゅうと喉が詰まる、その小さい声を猿投山先輩が聞き取ったらしい。皐月さまに向いていた顔をこちらに向ける。

──カツン
皐月さまのヒールが床を踏みしめる音。
強い意思と眩しい後光に目がくらむ。

「猿投山。今一度問おう。貴様、我が本能字学園二年甲組苗字名前に何をした」

皐月さまをこんなに近くで見たのは初めてだった。
その口から名前を呼ばれたのも、初めてだった。

「……何も」
「そうか」

皐月さまが猿投山先輩に数歩近付く。
その手には竹刀が。

「えっ……なに……? なにするんですか?」

何をするかなんて頭の隅ではもうわかっていた。でもついていけなくて、どうして、と隣の蟇郡先輩を見上げる。

「粛清である!」

蟇郡先輩はわたしのほうを見ずに宣言した。
嫌な予感は当たったらしい。皐月さまが振り上げた竹刀の動きに思わず目を逸らす。
バチンと肉を叩く音。

「わっ……や……え!?」

耳を塞ぎそうになる手を頬のあたりで食い止めて、蟇郡先輩と皐月さまを交互に見る。止めてくれないかと一瞬期待したのだけど、蟇郡先輩は顔色一つ変えない。

「言わないのなら聞きはしない。だが落とし前はつけてもらう!」

更に一撃、横薙ぎに竹刀が猿投山先輩のお腹を打つ。
猿投山先輩の呻きに目を閉じた。見ていられない! なんで、どうして、猿投山先輩は言わないんだろう。その、つまり、わたしが先輩のお家で……漏らした……ことを言っちゃえばやめてもらえるのかな。ここまでされちゃうんならもう言ってくれて構わない。……で、でも、皐月さまと蟇郡先輩以外には言わないで欲しい……いやそんなこと言ってる場合じゃ……!

「目を逸らさずいてやれ。猿投山の選んだことだ」

腕組みしたまま平然としている蟇郡先輩がそう言う。
猿投山の選んだことって、何を選んだっていうんだろう。皐月さまは絶対で、四天王の人にとってもそれは同じなはずで、じゃあどうして。前は、気に入らないと言ってたみたいなのに。今でも好かれてるなんて到底思えないのに。
……もしかして、わたしのためなんて、そんな──

「待ってください!!」

第一声に迷いはなかった。
振り上げるように猿投山先輩の顎を捉えようとしていた竹刀がぴたりと止まる。
皐月さまに声が届いた。
またしても初めてでドキドキしてしまうのと同時に、皐月さまの行動を止めてしまったんだと自覚して手先が冷える。

「違うんです! 猿投山先輩は、悪く……悪くないっていうか、それは…………でも、……わ、わたしが、さ猿投山先輩のお家で、その、やらかしてしまっ……」
「黙ってろ!!」

皐月さまに見られて、身振り手振りしながら震え出す脚を動かし必死に訴えていたのに。皐月さまの前に立つ前に猿投山先輩の大声で飛び跳ねて止まってしまった。
さっきまで、何度殴られても何も言わなかったのに。

「皐月様! こいつはもういいでしょう。出て行かせて下さい」
「私の決めたことだ、猿投山。……まだ何か言いたいことはあるか」
「あ……の……」

出ていきたいわけじゃない。わたしがいなくなっても先輩が叩かれてしまうなら意味がない。

「もう、やめてください……わたしは、もういいですから……」
「これは我ら生徒会の問題でもある。けじめが必要だ」
「い、痛いこと以外じゃ、だめですか。こんな……こんなの……」
「苗字!!」

がくがくする脚になんとか動いて貰って、やっとの思いで二人の間に立てたと思ったら、今度は蟇郡先輩に大声で名前を呼ばれる。

「皐月様の前に立つとはどういう了見だ? 異議があるならば俺に言え! 貴様も猿投山と同じ目にあいたいか!!」
「ひえぇ……」

いつの間にか目に溜まっていたらしい涙がこぼれる。た、助けて神様マコ様流子様……! どうしようもないよー!!

「いいだろう」

──カツン
皐月さまがわたしに背を向けて、一歩。
くるりと振り向いて竹刀を構えた。長い黒髪が揺れて、光って、まとまって。

「一振りだ。受けてみせろ」
「……え?」
「皐月様! なんで苗字を!?」

ゆっくりと竹刀が持ち上げられて、止まる。狙いがわたしに定まった。皐月さまが、わたしを見ている。

「おい……おい、苗字! どけ! 痛いじゃ済まねえぞ!」

猿投山先輩の切羽詰まった声が背後から聞こえる。なんでわたしがなんて思っていない。皐月さまの邪魔をしたんだから当たり前だ。確かに痛いだけじゃ済まないと思う……なんて甘く見ているわけがない。本能字学園最強の皐月さまなんだ、手を抜くことはきっとない。お腹に当たったら胃液まで吐いてしまうだろうし、頭に当たったら当分立てないだろう。もしかしたら骨が折れて、肉が割れて、明日の月は綺麗だろうななんてことになるかもしれない。猿投山先輩が受けられていたのは、猿投山先輩だからだ。いち無星生徒のわたしが無事でいられるなんて考えることさえはばかられる。
それでもわたしは動かなかった。違う、動けなかった。状況の変動が早すぎて、頭が現実逃避を初めてで、何を考えても真っ白でぼうっとしてしまって、手足の感覚がなくなってしまったみたいで、音が消えて、皐月さまがぐんと近づいて来て、とっさに手を顔の前にやってまぶたが痙攣するみたいに閉じて。

「──う」

鎖の擦れる音。
セーラー服の襟が後ろから引っ張られて膝が折れた。

「……!!」

……。
……痛くは、ない。
人を叩く重い音が確かに聞こえたのだけど、尻餅をついたお尻が痛むくらいだ。
薄く目を開けると、皐月さまの振り下ろした竹刀の先には猿投山先輩の頭。

「……え……!」

分かった。
猿投山先輩がわたしを引っ張ったんだ。
手も足も繋がれているから、きっと口で。

「皐月様」
「いいだろう。非力で無謀だが、その勇気は評価すべきだ。それに、一度は一度だ」
「はっ」

二の句を告げられないわたしとうなだれたまま動かない猿投山先輩を、皐月さまと蟇郡先輩が見やる。

「体罰は終了だ。明日以降はグラウンド全体の草むしりをもって罰とする」
「枷の鍵だ。あと三十分ほどで一時限目が始まる。必ず出席するように」

ばたむ、重そうな扉が閉まって皐月さまに当たっていたスポットライトが消え、辺りがすこしだけ明るくなる。それでも窓のないこの部屋ではまだまだ暗くて、蟇郡先輩の言葉でそういえば今は早朝だということを思いだした。
腰が抜けて立てなくなったわたしのお腹に先輩が落としていった鍵を持って、猿投山先輩のほうを見る。四つあるから確かにこの手枷足枷の鍵なんだろう。黒くて見づらいけれど、鍵穴みたいなものがある。

「先輩……猿投山先輩。あの、鍵あけますね……」

まだ顔を上げない猿投山先輩の様子を伺おうといろんな角度で声をかける。……えっ。ぴくりとも動かないんだけどこれ、なにこれ、もしかしてまさかひょっとしてこれ!!

「うそっ! 猿投山先輩! 死んじゃってないですよね!? 先輩!!」

つい今まで勝手に大丈夫なもんだと思ってたけど、あんな勢いで殴られたら死んでても不思議じゃないのでは!? ドラマでよくあるよちょっと押したつもりが頭打っちゃって死んじゃうみたいなやつ! どうしよう! 怖くて猿投山先輩の腕とか肩とかを掴んでめちゃくちゃに揺さぶった。あ、あったかいよ。あったかいってことは、死んでないはず……!

「…………うるせー……」
「先輩……!」

生きてるー! 良かったああー!
でもこれすぐに病院行ったほうがいいんじゃないの。そうでなくても保健室の先生には診てもらいたい。ち、ちょっと待ってくださいね、いま鍵で外しますから、と言ってから、拘束されてます! って感じの手が痛々しくて腕から先に鍵を挿す。回せば枷がぱかっと開いて先輩の手が自由になった。その状態だと鍵が抜けないから、挿しっぱなしでいいのかな……?

「うぶっ、せ、先輩?」

反対側の手枷も同じように外すと、猿投山先輩の身体がふらーっと傾いてわたしにもたれかかってきた。あ、足枷とってないから、バランスとれないんだ……!?

「だ、大丈夫ですか? 痛いですか?」
「……皐月様だからな。ちょっときいたぜ……」

ちょっとどころじゃないみたいなんですけど。全体的に力入ってないみたいですけど。

「下のやつも今外しますから、壁の方に……っうわ……!?」

一回先輩の身体を壁に押し寄せて、わたしがしゃがめる余裕を作ろうとした時、だらんとぶら下がっていた猿投山先輩の両腕が背中に回ってきて、びっくりして後ろに下がりそうになる脚を留める。

「ちょっと、あのっ、ふざけてる場合じゃ……!」
「おまえ、俺のためにも泣くんだな」

涙の筋が猿投山先輩の頬と擦れる。
顔が触れるなんてもっと緊張してもよさそうなところだけど、まるで無遠慮にのしかかってくる体重を支えるのがやっとでとやかく言ってる暇がない。耐えきれず膝がかくっと折れて、構えることも出来ず床にぶつかる……と思いきや、猿投山先輩が先に膝立ちになって、背中に回した手でわたしを支えてくれた。そんなことできるんならわたし別に頑張らなくてもよかったんじゃ……!

「違うな。怖いこと、痛いことが嫌なんだったな」

驚きと興奮でぐらぐらしていた頭が、その言葉ではっきりしてくる。
先輩の言う通り、怖いことも痛いことも嫌いだ。わたしの周りの人達が危ない目に合うのも苦手だ。

「……先輩は叩かれても、わたしの恥ずかしいことを言わないでいてくれたんですね」

猿投山先輩が無理矢理やったことなのに、それを庇う優しさを見せてくれたのはどうしてなんだろう。
やっぱりわたしのことが嫌いで一番心にくるいやがらせをしたとか? そのあとこれはやりすぎたって思い直してくれて、黙っていてくれたのかな。やられたことも忘れてちょっと感動してしまった自分の腿をつねる。忘れたのか苗字名前……おまえは子供の頃おねしょした時以来の恥ずかしオブザイヤーを見られたんだぞ! 見られたっていうか、やらされたんだぞ! それを人並みの優しさ見せられたくらいでほだされるたんてそんな、そんな……。

そこでふと気付いた。猿投山先輩に心が動かされていることに。
本能字学園四天王っていってもやっぱり人間なんだから、色んなことを考えてるんだろう。
今まではただただ先輩から与えられる怖さと情報に怯えてそっぽを向いているだけだったのに、どうしようもなくこの人のことが気になってしまった。

「……内緒にしてくれるなら、なんであんなことしたんですか?」

猿投山先輩の身体が動揺したみたいに揺れる。抱き合ってる身体はあったかくて、背中を留める腕はこの上なく人くさくて、おなかまで回る手のひらの大きさにはまだ慣れないけれど、昨日より一昨日より嫌じゃなかった。

「……」
「……」
「……」
「…………漏らすところを見たかったから……」

前言撤回。

五秒前のわたしに言う! 目を覚ませ!! とんでもない状況でまともな判断ができてないだけだよ君は!!
でも大丈夫、わたしはさっきより更にとんでもないこと言われて驚きに驚いてるけどちゃんとやるべきことがわかるよ!
鳥肌の立ったわたしの体を撫でる先輩の手を引っぺがして、右腕を持ち上げて枷に戻す。

「ちょ! ちょっと待て苗字!! ち……違う!」
「……」

そういえばあの時鼻血出してたな。粗相したあとの制服と下着、返してもらってないな。
口をぐっと閉じたまま、左手も掴んで枷の高さまで持ち上げる。猿投山先輩が目に見えて慌てながら肩を掴んできたりポンポン叩いてきたりするけれど、言ったことの負い目があるのか単に皐月さまのおしおきで力が入らないだけなのか弱々しくて、わたしでも押し戻すことができた。

「……」

口を開きたくないのか何を言えばいいのかわからないだけなのか、はたまたそれ以外の理由なのかなんなのかわからないけれど猿投山先輩と口をききたくなくて、無言で鍵を抜いた後四本全てをスカートのポケットに入れて、元通り拘束された猿投山先輩を背中に部屋の扉を開けた。

「お……おい。まさかこのままかよ!? 待て! 苗字! おい! お──」

────。
映画館のものにそっくりな扉は防音もそっくりらしく、しっかり閉めたら猿投山先輩の声も聞こえなくなった。
朝のホームルームまであとどれくらいだろう。

そう、夢だ。
ひどい夢を見たんだ。
怖いだけだった人が、それだけでなくそんな性癖まで持ってたなんて。

「……流子ちゃん……マコちゃん……」

うう、助けて……。
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