わたしの名前は苗字名前。本能字学園に通う普通の女子高生だ。階級はワーストの無星なのでスラム街に家族で住んでいる。たまにある鬼みたいに厳しいイベントたちを除けば成績も赤点をとるほど悪くないし、運のいいことに死を覚悟したこともないし、毎日三食ご飯にありつけるし、幸せな毎日を送っている。

「苗字ーッ待てー!!」
「やーっ!! あーっ!!」

ひとつだけ……本当にひとつだけ! 三ツ星制服の天上人、猿投山先輩に追いかけ回されること以外は……!

「オラァ!!」

普通に考えれば運動部統括委員長の足に勝てるはずもない。たぶん極制服なくても簡単に捕まる。分かってるんだよそんなことは! 無星が四天王に逆らうのも正直まずい! 分かりますか恐ろしく力のある人に追われるこの怖さが。即座に捕まると分かっていても脚が逃げるこの威圧感が。本当に、本当に、え〜もうぶっちゃけるとわたしは猿投山先輩が苦手なんです! 大きいし! 声も大きいし!!
必死で走っていると足をひっかけられて、身体が傾いたところを大きな手が後ろから支えてくれた。ってこの手猿投山先輩か! それ以外ないわ! 足引っ掛けたのも猿投山先輩だわ!!

「逃げても無駄なんだとわかっているだろ。来い」
「うぐっ、うぅっ、流子ちゃん……! 助けて流子ちゃーーん!!」
「騒ぐんじゃない! 潔く腹を括れ!」

半分泣きながら強くてかっこいい友達の名前を呼ぶ。流子ちゃん流子ちゃん! 纏流子ちゃんは転校生で、わたしと同じクラスの女の子だ。極制服に入ってる生命戦維が……全部それで出来てて…………、く、詳しいことはあんまり分からないけど彼女の着てる黒いセーラー服に話しかけるくらい仲が良くて、さらにはその服で変身して四天王に勝っちゃうすごい人なんだ! 

「……なに!?」

猿投山先輩が、顔をふと前に向ける。片手の手のひらで捕まっているのにふんばってもねじっても抜け出せないわたしも動きを止めて前を見ると、ものすごい速さで向かいの廊下から爆走してくる影があった。あ、あれは……!

「名前を離せ、猿野郎!!」

赤い片太刀バサミが窓から入ってくる日光に煌めく。眩しいくらいに真っ黒いセーラー服のスカートがひるがえる。
瞬きをする間に、わたしは流子ちゃんの腕の中にいた。

「うあっ……え!? 流子ちゃん! 流子ちゃーん!」
「おいっ、ちょっ、ひっつくな! 下がってろ」

地面が足についたわたしは言われた通り流子ちゃんの後ろに回る。挑発するようにハサミをくるくる回す流子ちゃんと対面する形になった猿投山先輩は、さっきまでわたしを抱えていた手のひらでぐっと拳を作って流子ちゃんに顔を向ける。

「纏流子。邪魔をするな!」
「邪魔はそっちだ! 嫌がる女を無理矢理連れていこうとするたァどういう神経してんだよ!」
「そーだそーだ! けだもの! 名前ちゃんにあ〜んなことやこ〜んなことするつもりなんでしょ! 名前ちゃん、いま蟇郡センパイ呼んだからね!」

真後ろから拳を顔の真横に突き出されて心臓が飛び出すかと思ったら、ゆかいな動きでわたしを励ますマコちゃんの姿があった。う、嬉しい……! 流子ちゃんもマコちゃんも来てくれるなんて! でも待ってマコちゃん近い! 流子ちゃんの背中とマコちゃんの胸でサンドイッチになっちゃう! 潰れちゃうから!
蟇郡先輩を呼んだと聞いて、猿投山先輩の口が少し動く。風紀部委員長の蟇郡先輩は理不尽に追いかけられるわたしを見た時は助けてくれていた。本能字学園の生徒が困っている時に見て見ぬ振りをすることはしない、って猿投山先輩を止めてくれた。蟇郡先輩は猿投山先輩より身体も声もずっと大きいけど、ちょっと惚れそうになった。
蛇崩先輩や犬牟田先輩とは窓越しに目が合ったことはあるけれど、すぐに目をそらされたのでわたしは流子ちゃんか蟇郡先輩に見つけてもらうまで逃げるしかないのだ。でもさっきみたいに瞬速で追われるからだいたいは捕まるのだ。

今回は運が良いみたいだ。流子ちゃんが来てくれて蟇郡先輩も呼んでもらえた。ひとに頼りっきりなのは本当に情けないし申し訳ないけれど、すっごくありがたい。猿投山先輩は構えを解いて姿勢を正し、無言のまま背中を向けて去っていく──

──振り向きざま、縫い付けられた目で強く睨まれた気がして、とっさに流子ちゃんの背中に顔を埋めた。







「適当に座れよ」

わたしの運が尽きる時が来た。ここ三回くらい連続で救いの手が差し伸べられて泣くほど恐ろしい目にはあわずに済んでいたけど、長くは続かなかった。当たり前っちゃ当たり前だ。流子ちゃんにも蟇郡先輩にも当然のように予定がある。逃げてる途中で偶然鉢合うということも、むしろ三回続いたことが珍しいほうなんだ。ありがとう流子ちゃん、ありがとうございます蟇郡先輩。
わたしを片手で抱えた猿投山先輩は、心なしか上機嫌でわたしを猿投山先輩のお家に連れてきた(というか、持ってきた)。さすが三ツ星、お城みたいな大きなお家に、触るのも怖いくらいの綺麗な家具に装飾品。あんな棚の上にあんな長い花瓶のっけといて大丈夫なのかな……服とかひっかけて落っことしちゃったらどうしよう。スラム暮らしのわたしじゃ想像できないようなここは、何度来ても身体中に力が入ってしまう。
先輩はわたしをふっかふかのソファに心持ち優しく下ろしたあと、待ってろと言って部屋を出ていってしまった。家の外観からしてものすごい数の部屋があるのだろうと想像がつくので下手に動いたりしないで言われた通りじっと待つ。
前に一度だけ、猿投山先輩がいなくなった隙に逃げようとしたことがある。来るまでに見えていた景色の記憶だけを頼りに走っているといつの間にか電気すらついていない廊下に出てしまって、元の場所に戻る道もわからなくて泣きそうになっている時、居ることなんて全くわからなかった猿投山先輩に突然後ろから腕をつかまれて悲鳴を上げてしまった。来いと一言だけ発してわたしを引っ張る猿投山先輩の手の力が痛いくらいで、部屋に戻った後もずっと無言のままだったのがとても怖かった。
……ということがあって、脱走はもう懲りたのでしない。このまましばらくじっとして、猿投山先輩の言うことに相槌だけうってれば何時間か後にはウチに帰れるんだ……。それだけのことがすごく緊張するんだけども……。

「飲めよ」
「……あっ……りがと……ござます……」

猿投山先輩は音もなく後ろに現れることが多い。本当に本当に心臓に悪い!! わたしが考え事してたことを差し引いてもひとつの足音もしないっておかしくない!? どんなに頑張ってもスリッパの音くらいしない!?
輝かしい三ツ星極制服から黒い七分袖のティーシャツにズボンと楽な格好になった猿投山先輩が、両手に持っている白いティーカップのうち一つをわたしに差し出してくる。ドキドキしながら受け取って見てみると、いかにも高そうな白に植物の蔓のような模様のティーカップには、わたしも飲んだことのある麦茶がなみなみと注がれていた。
そのちぐはぐさになんだかほっとしてしまって、これに口をつけていいのかと少し考えた後、大丈夫! 今までも口つけて飲んできたでしょ! と自分を励まして一口、染み渡る潤いにため息が出てしまう。喉カラカラだったんだな。さっきも喉が張り付いて声出てなかったもんなあ……。

「紅茶のほうがよかったか? ティーバッグなくなっちまって」
「いえっ! やっ、お茶、麦茶好きです、ごちそうさまです」

喉の乾きの原因になった人は自然な動作でわたしの隣に腰を下ろす。広々としたソファは猿投山先輩の体重に沈んで、わたしを少し浮かした。
猿投山先輩は自分の分のティーカップに口をつけてごくごく飲んだ後、ふーっと息をついて目の前の長テーブルに何の遠慮もなくこつんとカップを置く。わたしはソファの背もたれに寄りかかるのも、ふわふわで毛足の長い絨毯に今日一日履き回した靴下で立つのも、ティーカップを両手で持つのさえはばかられる気がして、身体中を強ばらせてしまう。だから疲れるんだ。
でも今日は少しだけ油断してもいいみたいだ。気付かれないように深呼吸すると、すこしもよおしてきた。トイレどこですかなんて聞いてみてもいいのかな。今まで行きたいと思ったことないからわからない、っていうかこの家のトイレなんて物凄いんじゃないの……? 使っていいの?

「苗字、最近纏流子とよく一緒にいるな」
「……は、はい」

長テーブルから何メートルか離れたところにある大型テレビをつけることもなく(リモコンはどこにあるんだろう)、なにか音楽がかかるというわけでもなく無言のままお茶をちびちび飲んでいたところに、猿投山先輩から話を振られて動揺する。
流子ちゃんと猿投山先輩は戦ったことがある。
その後、猿投山先輩は自らの目を縫って視界を閉じてしまった。部屋着に着替えた先輩はいつものアイマスクも外していて、なんだか目を見たら悪いような気がしてカップの中のお茶を見つめる。

「なぜ近付いたんだ」
「近付いたっていうか……わかりません。でも、流子ちゃんは強くてかっこよくて、わたしのこと助けてくれてて……」

仲良くなったきっかけって何だろう。話しかけたこと? わからない。友達ってそういうものじゃないかな。流子ちゃんが転校してきてから少し騒がしくなった本能字学園で、なにか話すことがあってお互いを知って、交流していくうちに仲良くなった。決定的なことはたぶん無くて、それでもすごく仲良しの友達だとわたしは思ってる。もちろん、マコちゃんも!
そこまで言って気づいたけれど、流子ちゃんが助けてくれるなんて話をして流子ちゃんに邪魔されてる猿投山先輩はどう思ったんだろう。しまったと猿投山先輩を視線だけ動かして伺うけれど、特に気にした様子もなくソファの背もたれに両腕を乗せて、なんとなく読めない表情をしている。
とは言うけれど、猿投山先輩のことでわたしがわかることなんてほぼ無いに等しい。どうしてわたしばっかり追いかけて無理矢理捕まえて家に連行するのか、何かの懲罰かと身構えるわたしを普通のお客さんみたいにおもてなししてくれるのか、その理由を話してくれないのは、なんで。
猿投山先輩が顔をこっちに向けた。縫われた目を向けられるだけで体がすくむ。流子ちゃんと一緒にいる時は、もっと平気なのに。

「争いごとは嫌だって言っていただろ」
「はい」
「纏といれば、危険な目に会うことも増えるだろう」
「それは……それは、そうですけど」

猿投山先輩が、わたしの言ったことを覚えていたのにびっくりした(いっつも嫌がっているのを気にも留めてなかったみたいだから)。
確かに流子ちゃんのやりたいことは危ないことだ。本能字学園の四天王や皐月さまと敵対してしまう、それで多少痛い目にもあったし、流子ちゃんが大怪我をしているところも沢山見てきた。

「でも、好きなんです」
「えっ」
「流子ちゃんのこと」

言って、ちょっと笑いが漏れる。えっ、だって。猿投山先輩が、えっ、て。
思えばまともに会話をしたのも今日が久しぶりだ。わたしの方を向いたままちょっと固まっていた猿投山先輩が、前を向いて顎に指を当ててなにか考え始めた。注意がわたしから逸れてほっとしたところに、緊張で忘れかけていた尿意が戻って来る。
そうだ、トイレに行きたいんだった。タイミングを逃してしまってたけど今なら聞けるかな。
隣を見れば、いつの間にか猿投山先輩はこっちを見ていた。いや目は見えないはずだから見ていたっていうかこっちを向いていたって感じだから、でもなんとなく意識がこっちに向いてる雰囲気はしてて……。

「あ、あの先輩、わたしお手洗いをお借」

──ゆっくりと猿投山先輩の手が伸びてきて、指がわたしの胸元を迷うように這う。声どころか息が止まるくらい驚いてしまってその動きを目で追うことしかできない。関節の目立つ五指が、大きくて熱い掌が、セーラー服のスカーフを握り込んで拳をつくる。
頭が沢山の可能性を浮かべては消して、その間にも時間は進んで、猿投山先輩の顔が近付いてくる。

「俺のことは、どう思っている」

怒っているような、悲しんでいるような、怯えてるような、縋るような、でもちょっと笑っているような声だった。
首から背中にかけてがぞわっと総毛立つ。わたしは今一瞬だけ、猿投山先輩が怖い人だということを忘れていた。

「……こ」

見たことがある。猿投山先輩が竹刀で運動部の人を粛清しているところを。容赦なんてなかった。わたしは、あんなに激しく人を殴ったことなんてない。殴られたこともない。体を張って戦ったこともないし、それで負けたことも勝ったことも当然ない。負けたからって目を縫って見えなくしちゃうなんてこと、何でするのかもわからない。痛いのは怖い、誰かを傷付けるのは怖い、わからないのは怖い。

「……こわ……い……」

猿投山先輩が怖い。



腕が引っこ抜けたのかと思う程の力で、わたしはあっという間に部屋から連れ出された。
わたしを抱えたまま大股で移動する猿投山先輩は無言で、でも腕や手が時々こらえきれないようにぴくぴく動くのがわかって、これから死ぬのかもしれないとぼんやり思う。
猿投山先輩に何を言ったんだっけ。何かまずいことを言ってしまったということは先輩の様子からわかる。そう、トイレにいきたいんだよわたしは。

「うっ」

放り投げられた先はまたソファの上だったけれどさっきとは違う部屋みたいだ。衝撃に目を閉じて、また開いた時には真っ暗な部屋には電気がついていて、周りを確認する前に猿投山先輩の身体に顔を覆われて目の前が暗くなってしまう。

「……さな、さ、猿投山っ……先輩……」

今わたしは引っ張られて投げられて、前代未聞レベルで生命の危機に陥っているんだということを、頭と身体がようやく理解した。歯の音が合わなくなって身体は自然と縮こまり、これからやってくる未知に備えようとしている。
マウントをとられたわたしに猿投山先輩の手が伸びる。殴られるか叩かれるか、髪を引っ張られて首を絞められて、想像もつかないような怖いことをされて、殺される。

「ひっ」

猿投山先輩の手が痙攣している。震えているんじゃなくて、堪えるように小刻みに揺らいでは時々耐えかねるようにびくりと動く。そのあまりの怖さに、わたしは──

「や、まっ、待って先輩、あのっわたし、とトイレに、あ、ああ」

だめだ。これ以上はだめだ。命の危機に身体が反応して、下半身が悲鳴を上げている。膀胱という臓器の大きさが意識できてしまえるくらい、尿意が限界を迎えていた。っていうか超えた! ちょっと漏れた!! もうなりふり構ってられない!

「ご、ごめんなさい! あのっおトイレどこですか!? だめなんです、コレ」

決してふざけているわけではないんです。だってここにくるまでトイレに行く暇なんてなかったし、行きたいなんてまさか言えるわけもないし、本当の本当にダメになるまで行動できないなんて自分でもバカみたいだって思うんですけどそれはそうなんですけど、勘弁してください!!

「えっ? 先輩、なにっ……やめ……!」

流石に呆れてしまったのか黙ってわたしを見ているだけだった猿投山先輩は、口を開いてトイレまでの道筋を教えてくれるでもなく、勝手にしろと言うでもなく、なんと彼はそのまま大きな腕でわたしの両腕をおさえて、下っ腹をゆっくりと押してきた!

「猿投山先輩! 先輩!? 何で、待ってくださいやめて、出ちゃうんです、ほんとですっ!」
「いい! 今この場で、出せ!!」

ひ……ヒエエ〜っ何言ってるのこの人は!? ここで!?ここはトイレじゃないんですよ! これは便座じゃなくてソファなんですよ! トイレットペーパーもないですし流すためのレバーもないし何より、何よりその、あの、猿投山先輩がいます!!

「嫌ですよ! 何でですか放して!!」
「放さない……何故だ! なぜ俺が嫌で、ぽっと出の纏を受け入れる……!!」
「ちがっ、違う、やめてぇ、駄目ですって、ほんと、う……づっ……ひ」

見せろ

「わ……あ、あっ……ああ……ぅ……」

じわり、下着に染み込むのがわかってしまった。
太ももをつたって流れていく温かさが、音も立てずにスカートに辿り着く。息を止めて手のひらに爪を食い込ませて、唇を噛んで何とか止めようとしたけれど、痛みに涙が出るだけで止まる気配がない。体温が出ていく感覚に身震いしてしまう。背面の底の底から排尿の快感で身体が震えて、それは触り合う手や脚から全部先輩にバレているのだと思うと全身から力が抜ける。

「は……」

捕まっていた手が放された。今度は痛みでなく恥ずかしさで涙が出てしまって、手で顔を覆って現実逃避した。殺された。苗字名前はいま、社会的に撲殺された……!!

「脱げ」

命令口調なのに幾分か優しげなのは、今この状況を見てしまっては仕方が無いと思う。何でこんな事とか、猿投山先輩のせいだとか、色んなことが頭をぐるぐるしているけれど、確かにこんなぐしょぐしょのままじゃどうしようもない。切り替えはできていないけれど、この先一生できそうにないけど、今はただ一刻も早くこの場から消え去りたい。もう絶対、絶対、こんなところになんて来るもんか。精神面で殺されるより肉体面でやられたほうがましだ。猿投山先輩も引くくらいだったら最初からこんなことやらないで

「今日は俺が服を貸す。新しい制服を明日にでも支給する。今着ているものは全部脱いで寄越せ」
「え?」
「下着もだ。全部、渡せ」
「……先輩」

なんで鼻血でてるんですか?
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