短編 | ナノ
シュタインが狂い出しているらしい。
あの人は昔っから今までずっと狂ってるじゃないか──というのは置いといて、置いとけないのを無理やり足元に投げて。
卒業以来滅多に訪れなくなった死武専に呼び出されたから何かと思えば、恋人のシュタインと距離をおいたほうがいいかもしれないと死神様からのお言葉を賜った。
シュタインからの提案で一緒に住み始めた時にもいろんな人から散々言われた。「さすがに一つ屋根の下はマズいって! オレがアイツに何されてたか知ってるだろほんとにヤバイ! なんならオレがナマエちゃんの面倒見るから!」「ナマエさん、恋は盲目と言いますが失ってからでは遅い。欠損した箇所は再生しません」「思い直したほうがいんじゃない? いや付き合い続けるだけなら全然いいけどさ、シュタインの前で寝るのはホントさ……」ごもっともすぎて頷きながら「そうですよねえ」と返事をして、でも住処をシュタインの研究所に移した。迷ったは迷ったけど、正直冷や汗かきながら一週間は迷ってたけど。そう決めたらなんだか気持ちが体にストッと収まったみたいで引越しは心穏やかにやれた。わたしの寝室は研究所の一番奥の部屋、薬臭い物置だったのを必死こいて整理してちゃんとした部屋にした。研究所は大きいけどシュタインの活動範囲は驚くほど狭い。研究室兼寝室(ソファ!)とトイレ、お風呂を行き来するだけで過ごしているので使ってない(物置になってない)部屋ならあともういくつかあるくらいだ。
一人のままだと本人の体調とか周りの人の被害とかが心配だったのが七割、「ウチ来る?」と好きな相手に言われて嬉しかった気持ちが三割。……いや八・二かな。九・一かも。とにかくそんなわけでわたしとシュタインは同じ家に住むことになった。わたしの部屋に通じる廊下と部屋のドアには、わたし以外の人が立ち入ると音の出る仕掛けをくっつけてある。自室に戻るたびにいちいち指紋認証しなくちゃいけないのは面倒だけど仕方ない。

「うーん。わたしもそう思います」
「あ、やっぱり? スピリット君とか力があるならどうとでもなるけどねー、名前ちゃんはNOTだったし武器だしシュタイン君には負けちゃうよねー」
「そうそう。この間寝てる時に無理やりドアこじあけて入ってきて死ぬかと思いましたし」
「待って事後? 大丈夫だった?」
「警報機の音で起きたらベッドの脇にシュタインが立ってて、お化けかと思って心臓止まりかけました」
「その状況だとお化けより怖いでしょ」
「その時は何もなかったんですけど、機械ごと壊されちゃって装置が機能しないんですよ。なんか顔合わせづらくてまた作ってって言いにくいし」
「あれ? その罠ってもともと誰が作ったやつだっけ」
「シュタインです」
「シュタイン君を入れないためにシュタイン君が防御装置作ったの」
「はい」
「これもうわかんないねえ」

両手に物を持って入りたいときとかは本当に面倒だったからスッと入れる今の状況が快適でほっといてるのもあるけど、死神様の隣に立つスピリットさんが嫌〜な顔して両手をワキワキさせるくらいまずいらしい。いやまずいのはわかってる。一応毎朝手足の指は確認してるし。壁とドアをまたぐようにスパゲッティの茹でる前の乾麺を一本貼り付けて、翌朝折れてないかを見るようなこともしてる。今のところ再侵入はない。あの時も本当にわたしを見下ろしてるだけだった。真っ暗い中でぬうっと伸びるシュタインの体と危機感を煽るアラームの音は心臓に悪かったけど、しばらくしたら無言で部屋から出てやかましいアラームも止めて機械を回収して戻っていった。本当にまずかったのかなとは思うけど、あの時わたしが起きる前に麻酔ぶっ刺して手術室に運ぶくらいその気になったシュタインなら造作もなかっただろうし、そもそもシュタインが作った機械なんだから音を出さない解除のしかたくらいわかっていそうなものだけど。
……ん。シュタイン避けのための仕掛けなのにシュタインが作ってるっておかしいか? いや別に製造者が誰であれちゃんと動いていれば問題は……あるか……?
なんならシュタイン君に言っておくけど、という死神様の言葉をありがたくお断りして、部屋を後にする。言うならわたしの口からだ。曲がりなりにもいままでお世話になった家と彼へ、言葉を濁したままおさらばなんて不義理なことはできない。

「……あれ」

わたしは武器で、それを制御するために死武専に通っていた。デスサイズとか興味なくてNOTだったけど、EATクラスの棟であっても多少の構造はわかると思っていた。けど、あらら。見慣れない生徒達何人もとすれ違い、しばらくうろうろしてから気付いた。迷子だこれ。えー? 死武専改修工事かなんかしたー? わたしの在学中から血の気の多い生徒が壁だの天井だのぶち抜くことはあったけど。ええーこっち課外実習の受付じゃなかった? だってあっちは多目的教室だったし、そしたらこっちに来たらえーっと……。

「何してるの」
「あッ。シュタイン! よかったー!」

知ってる顔のいない状況で迷うというのは不安になる。もう大人だとしても。廊下の端で窓の外を見ながらあそこが校門か、と考えていると正面から来た見知った人物に安心して駆け寄った。シュタインはここの先生やってるから道もバッチリなはず。どっちに行けばいいかわからなくて困ってたんだよと言えば、いつものちょっと眠そうな、表情筋使ってませんみたいな顔でわたしをじっと見つめてくる。わかってるよまさか学校の中で迷うなんて思わなかったよ。でも広いんだよ死武専は。必要な広さだとはわかってるけど屋外まで含めたらどエライことになる敷地面積だよ。年に一回迷うくらいなんだい。

「何の用で来たの」

用。シュタインと離れたほうがいいんじゃないかって死神様に言われに来た。これを伝える前にわたしの首から上は固まった。言っていいのか? 死神様の提案は断ったけど割と本気で出ていくか考えてるし、それでシュタインが傷ついたらどうしようと思ったせいで言葉が止まる。退去するにしろしないにしろ、別にここで死神様に言われたことを話す必要はない。円滑な人間関係には多少の嘘も必要なのだ。よし。

「とッ、トイレ借りに」
「ふうん」

……そんな良い言い訳がすぐ思いつくほど場慣れはしてないわけで。
死武専の中のトイレ行くくらいならその辺のお店に行ったほうが早い。なんなら研究所戻ったほうがいいまである。でもまあお互い大人なわけですし、なにかを察して流してくれてもいいと思う。例えばわたしがめちゃくちゃお腹下してたとして、それを無理くり聞き出してからかうなんてしないだろう。しないでほしい(希望)。

「ここで待ってて。コレ置いたら戻ってくる」
「いや道だけ教えて貰えたらいいから」
「もう上がるからさ」

一緒に帰ろう。
その言葉にキュンときたのは否定しない。好きな人と並んで歩けることにまだ幸せを感じる乙女なのだ。同棲してるとはいえゼンッゼン変わってないもんなあ。ご飯作るのはそれまでもやってたし人目が一切ないからってキスの回数が増えるとかもないし、夜を過ごしたあとにそのまま寝たりしたら危ないからヘロヘロで自分の部屋に戻るのは一緒だし、早くも熟年夫婦感が出てちょっとヤキモキしていた気持ちも否定できない。……別にいきなりラブラブになるなんて期待してなかったけどさ。これがシュタインの素なんだし四六時中抱きしめろとは言わないけどさ!
シュタインの持ってた紙コップのコーヒーを渡されて、ポンとわたしの肩を叩いた彼は、そのままわたしの前を通り過ぎて角を曲がっていく。渡されたコーヒーの熱さにワタワタしていたせいで見送ることができなかった。あっつ! なんだこれ。いれたてか。コップの縁を持って服の袖を引っ張って伸ばす。中身はコップの半分ほどしかないけど、もしかしてこの熱さのコーヒー飲みながらここまで来たんだろうか。ええ? マジ? 熱を感じる細胞死んでんのか。
真っ黒な中身にふうふう息を吹きかけて、そのまま一口飲む。アッツ! ホントのホントにいれたて熱々だよミルクも砂糖も一切なし! というか冷ましたついでに自然な感じで一口頂いてしまったけど、これ黙って返したらシュタインが残りを飲むことになるんだろうか。いやわたしだってシュタインの使ったビーカーとか散々洗ってるし今更何を感じることもない。別にないけどなんか恥ずかしいので全部飲んじゃおう。アチ、ハッチャ、フーッ!

「何してんの」
「アアーッ! もう! あっついよこれ!」
「でしょうね」

フウフウしている顔を見られたくなくて窓に向かっていたせいで近づいてくるシュタインに気付けなくてびっくりしたのと、思ったよりすぐ戻ってきたせいで全然飲みきれなかったことで理不尽な怒りをぶつけてしまう。
分厚いファイルだの日誌だの片腕で抱えていた荷物の代わりに、財布を尻ポケットに入れながら来たシュタインが手を伸ばしたのはわたしが持たされてたコーヒーだ。長い指で縁を掴んで、そのまま一息にあおる。うそお。

「ちょちょお、熱いでしょ」
「別に?」
「えーッ。我慢してない?」
「してない」

コップから離れた唇に手の甲を押し付ける。……熱いけど!? まあシュタインが大丈夫って言ってるのにそれ以上突っ込むこともないだろうけどさ。

「じゃあ行こうか」
「うん。あ……」

歩き出すシュタインの斜め後ろについて、振り向かれないように、振り向かれても良いようにちょっとだけ俯いて言った。

「帰ったら話があるから」

一人でいる時に口の中でボソボソ何か言ってヘラヘラ笑っているのはよくあるし、解体癖は言うまでもなく、フリとはいえ死武専の女子生徒を脱がせて解体しようとしたこともあった。めちゃくちゃ怒った。どう怒っても糠に釘でカッカしていたせいで「わたし以外の人を脱がせちゃダメでしょ!」と頓珍漢な叫びをぶつけてしまったのに、それを聞いた途端「ふ〜ん、そ〜ぉ」と目を合わせてニヤニヤし出したあの顔は今でも思い出せる。いらんとこで流れ弾をもらってしまって黙るしかなくて恥ずかしかった。
まあ、なんていうか。内心どんな欲が燃え上がっていても済ました顔で対象を好きなようにする、やる前もやった後もヘラヘラ楽しそうにするかうるさそうに背中を向ける、それがシュタインだ。ろくでもない。昔に比べたらだいぶ大人しくなったとは思うけど。

実を言うといつにも増しておかしいのは気付いていた。
最初は先週だった。夜中にトイレに行きたくなって部屋を出るとシュタインの研究室の電気がまだついている。それだけなら割とよくあることで、わたしはそうやって机に向かって書き物をしたり手近なものをバラバラにしたりしている背中を眺めるのが好きだったから、その日も音を立てないように近寄ってそっと覗き込んだ。
十秒は見つめて、やっと何か変だと勘付いた。ガンガンいってるこれは何だろうと思えばシュタインが左手にぎっちり握り込んだメスを机に突き立てている音で、肩が震えているから笑っているのかと思いきや不快感を払うように自分の髪をむしるようなそぶりもみせる。
変な幻覚を見てる人みたいだった。一瞬うわっと退けぞってしまったのは我ながら失礼だと思うけどもう一度あの状況におかれたら同じ反応をしない自信はない。
やがて回転椅子でくるくる回りながら丁度一周するタイミングで机にメスの先端を打ち付けはじめる。ぱかっと口を開けて真上を向いていたから前は見えてないはずなのにガンガンいう音は一定のリズムで、悪趣味なパーカッションだなと思った。
うえー、と顔をしかめてもその場から離れられなかったのはシュタインが心配だったからだ。やめてソファで寝付くか、続くようならコーヒーいれて持っていってあげようと考えていたわたしの目がはっと見開く。リズムが狂った。半周遅れた回転に、メスの落ちる先がシュタインの太ももになると察して咄嗟に「あ!」と声を出す。
振り上げたまま止まった左手が、メスの先がわたしの方に向いていて体が勝手に一歩引く。その際に見えた。緩慢な動きをしていたシュタインの首が驚くほどの速さで正面を向き、そのせいで鼻筋を滑った眼鏡から覗く目が。

「話って?」

研究所に戻って荷物を置き(といっても財布くらいだけど)ソファに座って一息ついたシュタインに訊かれて、また顔が合わせづらくてすぐ横に座る。ラジオしかなかった部屋に欲しいと言ったらいつの間にか買ってきてくれていたテレビを点けて、別に住むことになったらこのテレビどうしようとちょっと考えた。部屋に入った時にはもう暗かったのでカーテンは閉めて電気をつけてある。子供向けのコメディアニメが沈黙を和らげてくれる。気がする。

目に穴が空いているのかと思うほど真っ暗だった。ぞわっとする怖さと魅入られるようなときめきで、もう一目を欲しがる体を引っ張って部屋に戻ってそのまま寝た。
次の日起きて太陽光を浴びたら何でもないことのように思えて、あんな風にしちゃって悪かったかなとシュタインにあいさつをしにいくと、いつも通りわたしより先に起きて外国語の本を読みながら「オハヨー」と気の無い返事をしてくる。安心して前の夜のことは触れずに一日を始める。今思えばここで突っ込んでしまえばよかった。次の日もその次の日も同じようなことしちゃってるとは思わないじゃないか。……というか酷くなっている。最初は部屋の中をウロウロしだして、その次には廊下で壁に鼻がくっつくくらい近付いて何か喋ってて、日に日にわたしの部屋に近付いてきて、部屋にまで入られちゃうなんて。
警報がしっかり仕事して殉職したあの日からシュタインに動きはない、と思う。手の指なら入れ替えられても気付くかもしれないけど足の指は自信ない。一連の流れは完全にホラーだったけど、体いじくられても生活に支障がないならいいかなーと思うくらいにはシュタインのことが好きなので。

「うーんあの、あのね」
「うん」
「最近夜、変だったでしょう、シュタイン」

シュタインもわたしのことが好きだと、きっとそうだと思っているので。
同じ家に住んでもいいかなと思えるくらいの相手を自分のせいで死なせちゃ嫌な気分だろう。そしたらシュタインがかわいそうだ。わたしもかわいそう。
別れるとかいうんじゃなくて、距離をおくことも大切だとおもう。死神様の言ってた狂気、狂気の波長がナントカいうのは話を聞いてもあんまりわからなかったけど、一人でいるほうが安定するならこれは別離でなく安静だ。

「えーっと。狂気? のせいであんまり良くないから、ちょっと離れたほうがいい……かもねって」
「誰に?」
「……死神様に」

ああごめんなさい死神様、名前を出してしまいました。でも浮気とか疑われたくないし嘘は得意じゃないし、話せるところは話して信じてもらうしかない。

「今までは一人だったでしょ」
「そーね」
「シュタインの城にわたしがいると邪魔なのかもしれない。今はね!」

ま、まずい。もうちょっと怖い。隣を見てシュタインが怖い顔とかしてたらどうしよう。モルモットが逃げようとしてる、早く活用しなきゃ! って解体されたらどうしよう。いやーナイナイ信じてる。
「ンむむ」と、可愛い声を鼻から漏らしたシュタインがわたしの肩を叩いて、その勢いでヨイショッと立ち上がる。「わかった」わかった。わかった! う、うそ。意外とすんなりだ! それはそれでなんか寂しい! 実験動物としてすら見られてない……いやいやそんなはずないとも。愛するわたしを怖がらせまいと配慮してくれてるんだ。内心引き留めたいに違いない。……どうしよ、やっぱり君よりスピリット先輩のほうが興味そそられたよヘラヘラとか言われたら。ぶっ叩いてしまいそう。嘘、できない。間違いなく避けられて捕まえられて愉快に改造される。嫌だー!

「あッ、といってもまだ次の部屋探してないしもうちょっとだけ」

という言葉を遮るように、戻ってきたシュタインが私に四つ折りにした紙を差し出してくる。え? なんだこれもしかしてわたしのために物件探してくれてたとか? まさかそんな都合のいいことがあるのか。見上げてもシュタインはどうしたと言わんばかりに見つめ返してくるだけだし、とにかく受け取って開いてみる。あ、もしかしてわたしに合わせて買った家具とかの請求書かしら。人の心無いのかと突っ込みたいけどそういうの複雑だしなあ。シュタインが気にしてなくてもわたしが気にしてたな。

「……は?」

コピー用紙にボールペンで書かれていたのは、リアルな人間が二人。……一人? 一つの体に二つの頭を持った人間が教科書に載っていそうなタッチで描かれていた。テレビでこういう人見たことある。二つの頭にはそれぞれABと書かれていて、一つ一つ描かれた内臓にもそのアルファベットがふってある。これは、心臓はA、胃はBみたいにどちらのものであるかを示してるんだろうか。
二つの頭は全く同じ表情をしていたけど、目がすごく暗い。見開かれているのに深い、魚みたいな目だ。怖くなって「なにこれ」とシュタインに紙を返す。

「どっちがいいかは君の希望をきこう。俺は両利きだし」

顔を見る。目が合う。

夜の目だった。俯いた顔にできた前髪の影、それより暗い瞳孔だった。
きゅっと喉が締まる。声も息も止まった。

「肺は君のにする。きれいだろ。禁煙はまあできるだけするよ」
「はい……?」
「脚は長さが違うと困るからどっちかに揃えたいんだが、俺のでいいだろ」
「あし……」

おうむ返ししながらどうやって逃げるかを必死で考えていた。これ、なに、これはわたしとシュタインがこうなるってこと? こうしたいってこと?

「なんで……?」

何が面白いのか、ニヤニヤ笑いながら指で図をなぞって喋り続けるシュタインが真顔になって肩が跳ねる。

「一緒になるんだよ。家が一緒なら体も同じにしないと」
「はぁ……?」

意味がわからなさすぎて口が笑おうとしている。ダメだ、圧されるな、飲まれるな。ここから一番近い民家、お店は。すぐ来てくれる知り合いは。シュタインを振り切って、離れるには。
怖い。シュタインを本気で怖いと思ってしまうことが悲しい。あんまり無茶苦茶なことはしなくなったと思ってたのに。いや、これも狂気のなんとかのせい? シュタインの目が覚めて文字通りわたしと合体してたらすごく後悔するだろう。わたしが、今ここにいるわたしがシュタインを止めないといけない。

「いやだ!」

シュタインの肩を力いっぱい押す。ひょろ長く見えて現役職人の彼は思ったほど退いてくれなかったけど、今度はその目をちゃんと見た。……コワ! 負ける、絶対負けて改造人間にされる。でも絶対ここであの絵みたいにされるわけにはいかない。

「絶対無理! 何考えてるのバカじゃない!?」
「君には麻酔するよ。寝てれば終わる」
「そういう問題じゃない!」

転がるようにソファをおりて走り出す。選択肢は二つだ。このまま外に出る。自室に戻ってこもる。……外に出たってシュタインのほうがわたしよりずっと足が速い。秒で捕まって引きずり戻される未来が見える。なら時間稼ぎにしかならないとしても部屋でバリケードはったほうがいい!

「どこいくんだ、おい。マーキングするから服を脱げ。脱げ。逃げるなああァアハッハハハ!」

激怒の叫びが自壊みたいな笑い声に変わる。怖すぎる。やっぱおかしいじゃんこんなのほっとけないじゃん。クソォわたしがEATクラスだったら、職人だったら。武器だからって身体能力そこまで求められなかったからボンヤリ平和に過ごしていたあの時の自分が憎い。スピリットさんなら抑え込めるんだろうか。こんな時間に申し訳ないけど電話────

「逃げるなって、なァ」
「はッグーッ!?」

わたしは間違いなく全力で自室に向かっていた。今までの人生で一番頑張った。でもダメだった。全然足りなかった。
後ろから腕ごと抱き抱えられて足が浮く。落ちて怪我することを覚悟してもがいたのに二本の腕は全く緩まず、シュタインの脚は何故かわたしの行きたかった自室に向かうけど嫌な予感しかしない。
解体、解剖、分解、裁断、細断、腑分け、摘出、移植、縫合。ちょうどシュタインの口元にきてしまった耳が嫌な単語を拾う。

「楽しみだなァ。君の骨を直に触ってみたかった」

冗談じゃない。
足をめちゃくちゃに暴れさせてシュタインの膝だの脛だのをガンガン蹴っ飛ばしているのに歩みが止まらない。その場でうずくまるくらい痛いはずなのにシュタインは変な声で笑いながら部屋の前までたどり着く。わたしを抱えたまま。

「駄目だ! み、皆悲しむよ! スピリットさんも死神様も、ええーっとデスサイズスの人たちとか、あとは」
「俺と一つになるのに他のヤツの話? ムカつくなァ」

なんでそうなる! という叫びはシュタインが部屋の扉を蹴りでぶち倒したせいでかき消された。うそおちょっと、警報に続いてドアまでも。なんでこの人自分の家壊すことにここまで抵抗ないの?

「シュタインのことは好きだけど! そんなんなりたくないよ!」
「一番良い。君が食べたものが俺の食道を通るんだ。ちゃんと噛んで食べろよ、好きなものとなると慌てて食べるんだから。誰も取らないってのに」
「良くない! 不便なことの方が多い!」

そのまま室内にずかずか入ったシュタインはベッドにわたしを落として即座にひっくり返し仰向けにする。真っ暗な中で辺りに目を走らせる前に両腕を掴まれ、広げられたせいで起き上がることができない。

「静かに」
「それ言いたいのこっちね! 合体しちゃったらできないこといっぱいあるんだから、できなくなっちゃったら嫌なこといっぱいあるんだからー!」

片手を離される。自由になった手でベッドの淵を掴んで無理矢理離れようと肘を伸ばした時、鳩尾にシュタインの掌底が柔らかく当たるのを感じた。

「こッ……!」

と同時に息が止まる。心臓蘇生のための電気ショックを流されたように体が大きく跳ね上がった。
これ、見たことある。魂威。ものすごく手加減されたやつだ。本気だったら周りの家具ごと上半身と下半身が別れてる。
だとしても苦しい。痛い、とは違うのかもしれない、衝撃が痺れになって全身に回る。肺に空気が詰まっているのかひとかけらも吸えてないのかがわからない。お腹と胸が痙攣する。口を開けても息ができなくて体が冷えていく。息。死ぬ。
間抜けにあいたわたしの口を覆うようにシュタインが唇を被せた。ほぅーっと長く息を吹き込まれて、シュタインの呼吸がわたしの肺に満ちて、一つになりたいって意味が少しだけわかってしまった。

「はあッ。かっはッ……はぁッ……」

唇の端から溢れていた唾液が舐めとられる。こぼれ出した涙も吸われて、シュタインの喉仏が上下したのが音でわかって、くたりとシーツに落ちていた手を痺れに震わせながらシュタインの頬に添える。わたしの顔の横に手をついて下りてきた顔を力の入らない腕で引き寄せて、閉じられた唇にキスをした。眼鏡が当たって目を閉じる。触覚だけでシュタインの下唇を吸い舐めるともう片方の腕が解放されて、掴んでいた手で彼が自ら眼鏡を外す。わたしの頭上に置かれた眼鏡を開けた目で追おうとして、シュタインがくつくつ笑っているのに気付いた。低く体の中で笑い声を殺す、そのさまが、かっこいい。

「嫌だからって娼婦みたいに媚びてるのか」

口を離して喋ろうとしてもあ゛とかん゛とかいう音しか出ない。ただでさえ真っ暗な室内で垂れた短髪に囲まれたシュタインの顔は見えなくて、でもわたしの言葉を待ってるんだということはわかった。

「……ちがう。もう、い゛い。わか……た」

今度は両手で、シュタインの顔を捕まえてキスする。指が届く硬いゼンマイが、親指で触る顔の継ぎ目が、まだ閉じられた唇が愛しくて、大好きで大好きで、涙が出てきてしまう。

「いいから。なにされても……いいから。いあ、今だけ……」

さっきまで自分で言ってた、いろんな人が悲しむとか、改造されたくないとか、もうよかった。シュタインに触ってもらえるならこの体さえどうでもよかった。一時の喜びのために残りの人生めちゃくちゃになってもいいと本気で思ってしまった。わたしはきっとシュタインより意志が弱い。グラグラになりながら堪えていた彼とは違う。でも本心だった。悲しくて切なくて情けなくて、涙が目尻を延々流れていくけれど、しかたのない本心だった。

今晩だけ、キスして、抱きしめて。





「はッ」

喉から出たのは声でなく息だった。乾いて擦り切れた喉を通る一息すら痛い。目が覚めると同時に体がビクッと跳ねたがなんだこのものすごい倦怠感は。朝に感じるものじゃない。いやそれよりも。わたしの頭の下から目の前に伸びるツギハギの腕は。

「はぁ……ああぁぁ……」
「起きて早々ため息? 傷付くね」
「おッ、起きてたなら言ってよ……」

すっかり聞き慣れた声がすぐ後ろから吹き込まれて手で顔を覆う。思い出した。昨日わたしはシュタインとものすごいその……夜を過ごした。えっと、グロテスクな意味じゃなくて。ある意味ではグロいか? いやその凸と凹が合体っていうか……セッ……。

「あああー! もうッ……あああー!」
「喉枯れるよ」
「もう枯れてる!」

確かに、好きあってる男女がベッドの上でチュウなんかしてればそりゃそうなるだろう。でもなんていうか違った。最初は嬉しかったけどだんだん我慢比べみたいになってた。もうヘトヘトで意識が飛びそうになってたわたしに、シュタインが言うのです。「あ、もう寝る? じゃあ取り掛かろうか」ヘラヘラ。なにに取り掛かるかなんて考えなくてもわかる、それを止めるため……あと、最後になってしまうと思うと惜しくて、引き延ばすため意識を必死で引き戻した。結局いつ気を失ったのかわからない。
一応ちらりと後ろを見たけど、わたしとシュタインの体はまだくっついていない。布団を少しめくればツギハギだらけの体と、わたしの枕になってくれていた腕が見える。二人ともすっぽんぽんなので隙間に入り込んでくる空気が冷たくて、縮こまりながらシュタインに身を寄せる。うう、体が重い、怠い。
目だけ向ければ、シュタインは仰向けのまま目を閉じていた。そういえば体もシーツも全然濡れてない。シュタインが拭いたり替えたりしてくれたんだろう。ありがとうを言うために口を開くと、先に「で?」と言われて止まる。で、とは。

「何されてもいいって」
「え?」
「今日だけこうしてくれたらあとは好きにしてくれって」
「あっ」

言った。遙か遠い記憶に思えるけど言ったなわたし。まずい。えっシュタインはその確認とるためにわたしが起きるの待ってたの!? うわあどうしよう言ってしまったからには逃げ場がない! 今からでもすっとぼけるか!?

「たッ……足りてない……から駄目」
「アラ。体力ない割に欲しがりだ」
「そ、そうです。全然足りてない、大体脅して無理矢理やるようなのは駄目だよね」
「随分悦んでたように見えたけど」
「わたしッ……もだけど、シュタイン! 全然元気だったじゃない」
「あー、違う違う」

シュタインの目蓋がひらいて、こっちを見る。カーテンからこぼれる薄明かりでちゃんと確認できた灰色の瞳は正気にみえた。

「俺はね、ナマエ。ああいう時君の顔をずーっと見ていたいんだよ。だから本当は射精なんて一回もしないつもりだった」
「はッ! はあ!?」
「絞られたんだ。我慢は得意なんだけどさァ」
「悪趣味すぎ! 黙れ! うるさッゴホッエッハ!」

叫びすぎた。枯れた喉が擦り切れてえずく。ヘラヘラ笑うシュタインを置いて動かない脚を無理に動かし床に落ちてた彼のタートルネックのツギハギセーターを着てやる。ロボットみたいな動きのわたしを見てますます笑うシュタインに「バカ」と絞り出して研究室に向かう。確かに後ろからとかあんまりないなあと思ってたけどそんな恥ずかしいこと考えてたの!? 思っても言うなよ! これからそんな雰囲気になったときどういう顔すればいいんだ。
スリッパまでシュタインのをはいてきてしまった。なんかツギハギあるなあと思ったらこれ綿入ってないじゃん! 底と布だけじゃん痛いでしょこんなの! 今度買ってこよう。ケトルにかけたお湯が沸いた頃、ズボンだけ穿いたシュタインもやってきた。

「ねえ。やっぱりやめようよ、合体計画」
「ん? なんで?」

首を回しながら頭のゼンマイも回している、その着痩せする胴体に腕を回す。胸筋が頬に程よい弾力で気持ちいい。

「一つになっちゃったらこういうこともできなくなるよ」

無言のシュタインを見上げると、スンとした顔でわたしを見下ろしている。クソ! わかってるぞその顔、こっちを恥ずかしがらせようとしてるんだ。付き合って恥じらってやることない。両手で頬を包んで強引に引き寄せキスをする。

「……これも」
「ウーム」

顎に手をあてて考えるそぶりを見せる。なにがウームだスケベシュタイン。

「確かにもったいないな。保留にしておこう」
「廃案! 中止にして!」
「コレはよく描けたからとっておこう」
「捨ててー!」

ソファの上に投げてあったあの怖い絵を拾ってファイリングしたあと、ケトルで沸かしたお湯でコーヒーを淹れはじめる。一杯目を手近なビーカーに、二杯目も隣にあったビーカーに注ごうとしたので慌ててわたし用のマグカップを持ってきてこっちにしてと頼んだ。

「じゃ、シャワー浴びるか……」
「あれ? せっかく淹れたのに飲まないの?」

シュタインがわたしを見て二回まばたきする。え? なにか変なこと言ったかな。
ゆっくりとビーカーの淵を持ったシュタインがまたゆっくりとそれを傾けて口をつける。黒い水面の先がシュタインの唇に触れたかと思うと、フーッと息を吐いてビーカーを机に置いた。

「熱い」
「へ?」
「冷めるまでシャワー」

あれ? でも昨日は。
いってらっしゃい、とコーヒーをフウフウ吹きながら言うと、手の甲を大きな手で包まれてマグカップを机に置かされた。横を見ればシュタインがニッコリ笑っている。ウワッ、ろくでもない顔。かわいくない方の笑顔。でもかわいい。

「足りてないんでしょう」
「えッ……やッ……仕事……」
「休み」
「まだ疲れが……」
「動かなくてもいいよ。力及ばないかもしれないが頑張るさ」
「いや、夜、夜にしよう、今からは」
「まずはシャワーだ。今度はお互い脅しなしでたっぷり満足しよう」
「無理! 死ぬ! 死んじゃうから!」

裸なので掴むところがない肩に担がれ、ヘロヘロのまま抵抗しようとしても当然逃れられない。
ああ、さっきあんなことを言ったから。うまく言い訳しようと思って男のプライドを傷付けてしまったから。
嘘だ。シュタインは夜がめちゃくちゃに上手い。性格がアレでもこんな美男なんだからさぞモテにモテただろうし不思議ではないんだけど、何かの話題で聞いた時、それとは関係ないと言っていた。今はまだ研究中なんだって。わたしの反応や感じを見てどこを押せば泣き出すかの情報を収集しているところなんだって。
おっそろしいこと言うなあと思っていた。今心の底から逃げたい。もう泣きたくない、シュタインが水飲ませてくれるのは嬉しいから好きだけど、あんまりエッチなのもいけないと思うんですよね!?

ドアが閉まる直前に、湯気の立ったカップが二つ並んで見える。
昨日のような悲しい、切ない気持ちはない。きっともう大丈夫だ。……まあ彼は元から狂ってるので、片鱗をギリギリでしのいだだけかもしれないけど。

「ねえ、もう眠いんだけど」
「寝ててもいいよ。勝手にやっとくから」
「いや駄目でしょ……ちょっと寝てからにしようよ、それからでも遅くないよ」
「いや、一日じゃ間に合わないくらいだから、早く始める」
「間に合わないってなに〜……」
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