短編 | ナノ
──あっ、あっ、あん、あっ、あ、そこだめ、イっちゃう、ああん、あっ

「えっ」

全く何にも意識せずに声が漏れた。誰かに聞かれる前に更なる音漏れを抑えようと口に手のひらをスパンと当てる。いやわたしの声よりこれ、これの音、音!!
待って、先に言わせてほしい。これはわたしが持ってるビデオじゃないしプレイヤーにセットしたのもわたしじゃないし見ようとして見てるわけじゃない。ていうか大学の授業室みたいなだだっ広い部屋で馬鹿でかいプロジェクター使って観るもんじゃないでしょこれ。ないよね!?
広い壁を覆う広いスクリーンに、化粧ばっちり髪の毛まきまきのお姉さんがたわわなおっぱいをゆっさゆっささせながら気持ちよさそうに喘いでいる。言ってみりゃそれだけだ落ち着いて苗字名前、わたしは明日の朝の部長会議の為にスクリーンの位置調整しといてって犬牟田先輩に言われただけで、パソコンにケーブル繋いであるから電源入れれば映るからって言われただけで!
慌ててパソコンの前にスライディングして画面に映る同じ映像をどうやって止めたらいいか考えて一瞬動きが止まる。犬牟田先輩パソコン勝手に触ると怒るんだよな……いや言ってる場合か! 他の生徒、いや普通の生徒ならまだしも蟇郡先輩なんか来ちゃった日にゃ誤解を解く間も無く学内引き回しののち打ち首獄門だよ! だからできればワンタッチで画面だけ消せれば……あれだタブ消すためのバツマークとかが左上に…………無い。あれ無い、え? そんなことある? どうしようエロサイトが閉じれない。これサイトか? パソコンが犬牟田先輩のものってことはこれ先輩の趣味のもの? とんでもねえの見ちゃったかこれ? 理不尽だけど犬牟田先輩に消されるわたしの図が一瞬脳をよぎった。
……これアレだね、見なかったフリしてプロジェクターの電源落として逃げるのが最善だね。この思案を繰り広げる間にもお姉さんの喘ぎ声は大音量で響いているわけなので、さっさと消してわたしも消えたほうがいい。生徒会に消される前に。

「何してんの君」
「………………」

終わった。
絶対わたしのせいではない、押せと言われて軽い気持ちで押したボタンで家が燃えただけ。そりゃ今までの積み重ねでなんの疑いも無く従った自分に過失がないのかと問われれば違うかもしれない。しかし相手を見てみろ四天王だぞ。嫌でーす! さようならまた明日ー! とかやったらその場で粛清される。こうやってホイホイ言うこと聞くからなんでも頼まれてこんなことになるのか。

「え? 何してんの君」
「………………」

二回聞かれた。
弁明を端的に簡潔に、解りやすく語弊なく伝えるにはどんな言葉を選べばいいのか。迷うわ頭が働かないわでただただ沈黙を貫くという形になってしまっている。あと半日猶予をもらえれば原稿用紙にまとめて来るんですけどどうでしょうか。ダメですね。

「ちがっ……これはあの、わたしじゃなくて、つけたら勝手にこんなんなったんですよ!」
「は? 俺のパソコンつけたらこうなったって?」
「そ、そうです」

やばい。信じてもらえてない。つかつかと歩み寄って来た犬牟田先輩の青い眼鏡に、スクリーンの映像が写り込むのが見える。もうなんでもいいから音を、大きい音を出してお姉さんの声を遮って聞こえなくしてくれ。そのへんにある長机薙ぎ倒してくれ。いやわたしがする。

「そうか。開いたまま忘れてたか」
「先輩のかよおおおおおお!!」
「俺のパソコンに俺が入れた以外の動画あるわけないだろ。馬鹿なのか君?」

一歩踏み出した足のかかとがワックスのかけられた床に拒否されてもういっそ気持ちいいくらいに滑り転ぶ。もう何言ってんのこの人って人はこの人って人はーーーー!!

「馬鹿はどっちですか何入れてんですか学校で使うものに!」
「男だったら誰でも見るだろ。保健体育で習わなくてもネット環境があるなら調べたことがないか? 男性の射精は本人の意思とは関係なしに、定期的に行わないと体に」
「あーーーいいですいいですから! なんでこんなとこで先輩に性教育されなきゃならんのですか!」

……つまりこれは先輩の失敗、うっかり犬牟田のヒューマンエラーだったってことか。ならもういいや誰かに見られたとしても先輩が四天王の権力とかでどうにかしてくれるでしょ。さーて帰ろ帰ろ、帰って寝よ。

「じゃ、場所を変えよう。ちょっと予定が早まったけど想定内だ」
「は?」
「君、どうだ? 興奮したかい?」
「は?」





犬牟田先輩には他の生徒とは別に月一ペースで身体測定をちょくちょくされていたから下着姿を見られるくらいは抵抗がない。あれ、改めて考えたらおかしいなこれ。なんでわたしだけ頻繁に呼び出されてるんだっけ。ちょくちょく持ってかれてる髪の毛とか血とか唾液とかパンツとか、わたしのなんて何に使ってんだろう。
あ、いやそういうんじゃなくて、身体測定ならあくまで生徒の健康のためだから恥ずかしがってもたもたするのも悪いしさっさと脱いでさっさと済ませるんだけど、これはおかしいでしょ。なんでわたしが犬牟田先輩の家でわくわく保健体育を受講しなくちゃいけないのか。

「君の性的興奮を促したい。協力してくれれば早く終わるよ」
「嫌ですけど」
「なんで」
「なんで?」

今までにない話題に今まで通りの態度でとんでもないこと言われてジリジリ後退するわたしに、パソコンゲーム用っぽい回転椅子にゆったり腰掛けたままの犬牟田先輩がふーっと息をつく。いやため息つきたいのはこっちなんですけど。頭がいい人だからか突然突拍子のないことを言い出すのには慣れてたつもりだけどこれは無い。いや無い。恋人でもない男の人に裸を晒すのは医療行為っぽいやつだから構わないけど、なんで他人と大人のビデオ閲覧会せにゃならんのだ。友達でもそうそうやらないでしょ。男の人同士ならやるの? え? 先輩わたしのことなんだと思ってんの?

「はい座って」
「だから! 見たくないですってあんなん!」
「写真のほうが良かったかな。あ、もしかして二次元にしか興味ない? 違うよね?」
「そういう問題じゃなああい!!」

いかにもパソコン使いのため! みたいな部屋にわたしと先輩ふたり、長時間座ってても疲れないような、高級そうな椅子。犬牟田先輩一人なんだから一つでいいはずの部屋に二つあるのは先輩曰くわたしのため。確かにたまに呼ばれて給仕まがいのことさせられたりしたけど椅子はいらないでしょ。あと目の前の机にある大きなデスクトップモニターはなんなの、画面いっぱいに拡大された黒の中にある再生ボタンは何なの押したら何が流れるの。

「ああそうか、一人じゃないと集中できないタイプか。ヘッドホン持って来る」
「そういう問題じゃないんで。あのわたし帰りたいんですけど」
「大丈夫だよ新品だから」
「話聞いてくんないよこの人ー!!」

やばい、心情がやばい。これなら全く知らない人と見させられるほうがましだ。なんで犬牟田先輩、なんでAV。なんで興奮させたい!? 先輩が部屋の外に出たのでわたしも出て廊下の逆方向に走ろうかと考えてしまったけれどそんなことしてもこの屋敷からは出られないし、捕まった後でこの家に滞在しなきゃいけない時間が長くなるだけだ。無星の朝は早いんだからさっさと家に帰りたい。ここは言うこときいてぱぱっと満足してもらうのが最善解だ。

「お待たせ。クロノ製RTR02-06、俺も使ってる奴」
「……ウス」

社名とか型番とか言われても全然わかんないけど、大人しく椅子に座って待っていたわたしを見て犬牟田先輩は「ほお。やっぱり肝心なところ聞き分けがいいね」と褒めてんだかけなしてんだかなことを言う。
持って来たヘッドホンはコードが綺麗にまとめられて留められていたので本当に新品なんだろう。気にしてなかったけど。近付いてきた先輩がわたしの手足を椅子に固定して手首と首筋、内腿と足首、耳の裏になにかをぺたりと貼り付ける。たぶん何かの測定器具だろう。さっきの先輩の言う通りだとしたら興奮測り機? ハハハ自分で言っといて何言ってんだかわかんねえな!
こういうのは散々やられてきて慣れてるからいいけど、これからこのモニターに何が映るかただただ恐怖しかない。わたしだってお尻やおっぱいくらいでギャーギャー言うつもりはないけど、なんていうかリアルな人間のすごいところとかすごい声とかすぐ近くで流されたらまともでいられるかどうか分からない。だって見たことないもの。急に暴れ出したら帰してくれるかな。いや鎮静剤とか筋肉弛緩剤とかうたれてそのまま続行しそうだな犬牟田さんなら。改めてとんでもねえ男に捕まったなとため息しか出ない。こういうビデオって一本何分くらいあるんだろ……。

「はい、前向いて」

わたしは自分の手が(拘束で)塞がっているので、犬牟田先輩がヘッドホンをつけてくれる。髪をよけて耳をすっぽり覆うかたちで装着されたヘッドホンはしっとりふかふかで、もともと何の音もしなかった室内の音が更に何も聞こえなくなった。すごい。
少し乱れた前髪を直して、コードが引っかからないようにセーラー服の襟も直してくれる。男の人なのにこういう気が利くのはすごいなあ。素直に感心していると、目の前にきた犬牟田先輩の唇が動くのが見える。声も聞こえるは聞こえるんだけど、何を言ってるかがわからない。こんなに至近距離なのに、このヘッドホンすごい。
たぶん「ずれてない? 大丈夫?」みたいなことを聞いてきている、気がする。頷きで返事をすれば先輩が視界から消える。思わず視線で追おうとしたら両手で頬を包まれて前を向かされた。はいはいちゃんと見ますって。
先輩が動かしてるのか、マウスポインタが移動して三角を横にしたみたいな再生マークの上まで行く。……押した。

普通のマンションの一室から始まって、少し拍子抜けした。さっきみたいにいきなり本番から始まったらと思って心の準備してたから。……いやまだ出来てはないんだけど。ありがたいんだけど。
──ピンポン。はあい、どちらさま? 宅急便です。

あれ。なんだか本当にただのドラマみたいだ。でも安っぽいというか何と言うか、背景を気にしてないというか予算がないというか。あとマンションで暮らしてる、今インターホンに応答した女の人の服がちょっとエッチな気がする。
──じゃあ今旦那さんは出張で? そう、単身赴任なんですよぉ。へぇー。じゃあ色々不便もあるでしょう。
この宅急便のお兄さんぐいぐい来るな。さっさと次行かないと配達間に合わないんじゃないか。
──そうなのよぉ。あっちとかね? え、奥さん……

「ちょ……」

びっくりした、これAVだった。奥さんがいきなりだっちゅーのポーズしてニヤッとしたもんだから慌てた。わたしの動揺で体が動いたのはわかるけど周りの音が何にも聞こえないもんだから犬牟田先輩がどんな風なのか全くわからないのも気がかりで集中できない。集中したいわけじゃないけど! これわたしの後ろで一緒に見てるのか別室に引っ込んで監視だけしてるのかそれもしないでわたしの体につけたこの器具の反応だけ見てるのか、ていうかこれってやっぱ先輩の趣味なのか。うわ気まずっ。

──あ、あん。いや……。誘ったのは奥さんでしょ。あん、そんな、私には夫が……。

…………。
あやっぱりAVだ。超高速でそういう感じになっていく。ドアが閉められて鍵がかけられて、靴箱に押し上げられた奥さんがいやいや言いながらうっとりした目で手だけの抵抗をする。うわあ絶対演技、実際こんなことがあったら割と犯罪、それはわかってる。でもおっぱいを撫でられながら息を吐く顔が、いやらしくくねるムチムチの身体が、男性の性感をブスブス刺激するであろうことはビシバシ伝わってくる。うわーアダルトビデオって本当にこんなんなんだ……これ見て男は……。
タイトスカートを捲り上げられた女の人は更に黒いレースのTバックに指を入れてずり下げられ、形だけ嫌がりながらお尻を振っている。あ、これ入る。いわゆる合体が目の前の映像で行われる。目を逸らしたいけどそしたら多分怒られるし面倒なことになる、ここは耐えて──

「一時中断。はい暴れないで」

──椅子が浮くくらいじたばたさせた身体を抑えたのは犬牟田先輩だった。再生を中止してからヘッドホンを外して、いつの間にかかいていた汗で蒸れた耳をタオルで拭ってくれる。

「もしかしてこういうの見たことない?」
「あるわけないでしょ……」
「君にもついてるものだけど」
「それセクハラですよ……」

くぱっ、という表現がすごく似合っていた。変な言い方だと思ってたけど確かにああ言ってしまうのも分かる。
奥さんの……女性器が。映ってしまって、思わず。

「そうか。俺の想定が行き過ぎていた。悪かったね」
「そう思うなら帰っていいですか?」
「……いや」

いやじゃないよ。そのあとの言葉はなく黙り込んだ犬牟田先輩をじっと待つ。まだ拘束は解かれてないから動けないしそうするしかないのだけど。そうだこの人は本能字学園四天王、無星の一人や二人好き勝手できてしまう雲の上の人。ここまで砕けた態度を取れるのは慣れのおかげで、激しく抵抗したらどんな粛清が待っているか分からないから仕方ない。

「そうだな、一旦休憩をとろう。その間に次の案を出しておくから」
「えぇ……」

不平を呻きに込めることくらいは許して欲しい。まだやるのこの人? 帰りたいんだけどな心が傷ついたから。ていうか人間の興奮を調べたいならまず男子でやるとか、もう自分でやるとかあるでしょ。まさか先輩が女の子にセクハラしてえなぁウヒヒ! って気持ちで適当な女子に手を出そうとこんな回りくどいことしてるとは思えないし、あと学園内にわたしより良い女の子は山ほどいる。無星とはいえわざわざわたしを呼ばなくても、犬牟田先輩の呼びかけならかわいい子も美人な子も大挙するだろう。
まあ、何でどうしてなんて思っても、逆らうなんて選択肢はなからないんだから。

「湯船にでも浸かってゆっくりしてくるといい。そのあとはエステを受けて疲れを癒してきな」
「えっ」
「ああ、考えがまとまったら食事をとろう。シェフを待機させてる。どうかな」
「え、う、うう……」

そう、これは逆らえないからであって、言い訳なんてできないからであって──!!





「感想は?」
「大変気持ち良うございました……」
「それは良かった」

映画でしか見たことないようなお湯を吐くライオンのいる大浴場に、いい匂いのする薄暗い部屋で綺麗なお姉さん二人にされるマッサージ。恐縮しすぎてきょどるわたしの体をとろとろにしてくれたお姉さん、すごかった……。犬牟田先輩はいっつもあんなんしてもらってるのかな。すご……。

「いや? 君のために呼んだだけ。食事もいつもはコースなんて時間の無駄だからしないんだけど」
「……え。あ……ありがとうござ」
「あ。入浴とエステ、両方撮ってあるけどいいよね」
「……ハイ」

感謝の気持ちが失せた。いやいや前に比べたら。言ってくれるだけマシになったってもんよ。健康診断のときもいろいろ撮られてたし。わたしのそんな行動をカメラに保存してどんな得があるのか知る気もないけど、今後も犬牟田先輩に協力するという条件で先輩以外の人には見せないという約束を取り付けてあるし、動画サイトにアップとかされないんなら別にいいかな。いやー麻痺してるなわたし……。
ウエイターさんが配膳してくれて、海外の映画みたいな広い長テーブルにこれまた映画みたいな豪奢な食事を向かい合わせで食べる。二人きりの豪華な大部屋には小さくクラシックが流れていて食べている間の沈黙も痛くない。

「んん。先輩、フォークとナイフはどっちの手で持つんでしたっけ」
「ナイフが右でフォークが左。好きなように食べなよ。箸を出そうか?」
「いやマナーですから! 先輩ができてるのにわたしだけできないんじゃカッコ悪いでしょ」
「自然体でいてくれ。正確なデータが撮れない」
「……あ、これも撮ってるんですね」
「あれ。言ってなかったっけ」
「もういいです……」

前菜はその……なんだろこれ……なんか……多分美味しいやつ! ぶっ刺して一口でいけなくもなさそうな多さだけどそれじゃ品がない。普段の食事じゃがっつける時にがっついとくスラム暮らしだけど、いくら犬牟田先輩とはいえ真向かいに座られてちゃ恥ずかしくてそれもできない。見た目だけでもちゃんとしないと。

「泊まっていきなよ」
「は」
「部屋を用意した。九時に訪ねる」
「……や、明日に響くようなのはちょっと」
「日付が変わるまでには消灯するさ。朝も俺と同じ車で行けば遅刻はしない。会議のために早く起きなきゃいけないけどね」
「……噂になるようなのもちょっと」
「噂? なんの」
「いや、付き合ってるんじゃないかみたいな……」

口に出すと恥ずかしくてモゴモゴしてしまった。例えば友達に「犬牟田様と!? 何があったの!?」と聞かれたとして、別にやましいことなんて一つもないけど「エッチなビデオ見させられてお泊まりしたよ」なんて言ったら超速で誤解が広まることだろう。嘘は言わなくてもヒソヒソされるのは目に見えてる。そして放校されるのはわたしの方と……。
最後の一口を飲み込んでフォークとナイフをお皿に置く。あ、これってお皿に置いたままじゃ持ってかれちゃうかな。持ってってもらって、次の一皿が来る時にまた新しいのをもらうんだろうか。それじゃもったいないからテーブルに置いとく?
先輩に聞こうと思って目を向けると、いつ何があっても予想してましたみたいに余裕そうな顔している先輩がすごく驚いていた。眼鏡越しの目が大きく見開かれて、きょとんとしているようでちょっと可愛い。

「そうか。いやまさか、ここまで許しておいてそう思っているとは、そうか」
「なにがですか?」
「裸まで見せておいてただの上級生として見ていたとは」
「へ?」
「もうそういう関係なんだと思っていたよ。僕はね」

……は。





「帰ります帰ります帰る!!」
「聞き分けのない奴だな。君にそういう気持ちが無いってことは承知したんだから今日は寝ろよ」
「いやいやいや無理ですよ、なんで勝手に付き合ってると思ってたような人と!」
「部屋は別だけど」
「そういう問題じゃなくて!」

無言でご飯を食べ終えるまで頭が真っ白になっていてろくな返事もできないまま、ようやく出てきた言葉がこれだった。何で? 何でそんなん思ってた? いや違うのか、そりゃ普通は男の人に下着姿見せるっていったら恋人同士くらいでしかありえない。でも相手が情報戦略部委員長だとしたら話が別でしょ仕方ないでしょ!

「しかし不思議だな。君、誰にでもしてるわけじゃないだろ」
「するかァ! 三つ星の先輩の命令だから言うこと聞いてただけです! せ、先輩だけですから!」

部屋を出て早歩きで逃げるわたしの腕を掴んだ犬牟田先輩は普段通りだ。ますます訳がわからなくて頭は働かないし顔はどんどん熱くなる。つ、つつ付き合ってると思ってたってそれってもしかして、先輩わたしのこと!? いやない、無い。ないよね?
だけですから! で腕を振りほどこうと勢いよく振り回したけどまだしっかり掴まれたままで、極制服じゃなくても普通に力強いなと感心した。してる場合じゃない。
理屈っぽい先輩のことだからまた何か言ってくるに違いない、どう言い返そうか考えて黙り込んだわたしへ、犬牟田先輩は予想に反して何も言ってこない。顔を覗けばその目は少し伏せられて、睫毛の下の瞳は僅かに震えている。……え、嘘。ショック受けてる? そんな反応されるとなんだかわたしが悪いことをしているみたいで、腹が立つとか恥ずかしいとかそんな気持ちが一気に萎えてしまう。

「い、いやでも、尊敬してますよ犬牟田さんのこと! すごい先輩だなって、だから何言われても聞いてきましたし」
「僕とセックスできるか?」
「は!?」
「いや。君に辛い思いをさせないための情報収集だったから、なら今から交際でも婚約でもすればいいだろ」
「よくないですけど!? つ、付き合えません先輩とは!」

またぶんぶん腕を振るけどそれでも放してくれない。暴れ疲れてハアハアするわたしの肩を先輩がトンと叩く。

「わかったから。部屋あっちね」

………………。
納得したわけじゃない。じゃないけど屋敷中走り回っても出られないのは知っている。犬牟田先輩の案内がなければ無駄に消耗するだけだ。そして当の先輩にわたしを帰す気はない。

仕方ない、今日は我慢して明日、美木杉先生……に相談しても仕方ないか。蟇郡先輩に、話せたらいいなあ……。

と思っていたのに。

「いる? 入るよ」

めちゃめちゃに広いベッドの上で寝つけるまでぼーっとしていたわたしの耳にノックの音が滑り込み、一秒と待たず犬牟田先輩が入ってきた。えっそれノックの意味ある?
……そんなこったろうと思ってはいたので心持ち冷静に「勝手に入ってこないでください」と返事ができた。「ノックしただろ」と悪びれずベッドに近づいてくる。いやだからノックしてからすぐ入ってきたら意味ないでしょ。

「あの、さっきも話しましたけど、先輩とそういうのは」
「何言ってるんだ君は。ここは俺の部屋でこれは俺のベッドだ」
「へ!? 別室って言ったじゃ……」
「言ったっけな」
「言ったでしょ絶対! ちょっとカメラ確認してみて下さいよ言ってるから!!」

ずんずん歩いてなんの躊躇いもなく布団をめくりマットに上がる。うわーっと避けるようにベッドを転がり、そのまま出ようと足を下に伸ばせば「出るな。風邪をひくだろ」と諌められる。あんたが入ってきさえしなけりゃぬくぬくぐっすり寝てたんですけど!?
仕方なく足を引っ込めて、泳げるくらい大きなベッドの隅の隅で縮こまる。そんなわたしを意にも介さず眼鏡をヘッドボードにおいた後ベッドのど真ん中に横になった先輩は、そのまま動かなくなった。うわあ本当にここで寝る気だよこの人。わたしも寝るけどさ……明日起きたら体変なふうになってないだろうな……。

こんな状況ですぐには眠れなくて、しばらく真っ暗闇で固く瞼を閉じる。時計が見えないからどれくらい経ったかもわからなくなった頃、床で寝たほうがましかもしれないと、そっと犬牟田さんの様子を伺った。わたしに背中を向けている。今なら出れる。

「…………ん」

布の擦れる音がして振り向くと、わたしが動いたせいで布団が二の腕までずり下がった先輩が、むずがるように枕に頭を小さく擦り付けていた。
生徒会の参謀、生徒に恐れられる犬牟田宝火さん。話す前は勝手なイメージを抱いていたけど、時間になれば食べるし寝る。そうしないと最終的な効率は落ちると言っていたし、そりゃ人間なんだから当たり前に生きるための活動はするんだろうけど、ちょっと安心したのを覚えている。
好きな食べ物はなんですか。こういう仲になる前、沈黙が辛くて当たり障りのないことを聞いた。どこそこのサプリかななんて頓珍漢なことを言う先輩に、いや栄養じゃなくて、味とかで好きなものってありますか、と言うと犬牟田先輩はちょっと考えて。
──ハンバーグ。
味で言えば、ハンバーグが割と好きなんだそうだ。それ以外にもあると言ってたけど、わたしはこの言葉が意外で意外で少し笑ってしまった。出来合いのを買うのであそことか美味しい、あそこも、と話し続ける先輩が可愛くてしょうがなかった。

……なるべく音を立てないように四つん這いで犬牟田さんに近付き、布団を肩まで引き上げてあげて息をつく。全て見透かして解読されるような目つきが最初は苦手だった。目を合わせて近くで見てみると思った以上に綺麗な顔をしていて、その性格と探究心になんだかんだほだされてしまっていた。勘違いさせてしまったのはわたしも悪かったのかもしれない。……ちょっとだけね!
例えば。わたしのこと本当に好いてくれてるとして、「君に辛い思いをさせないため」っていうのは、そういうことをする時にわたしが痛かったりしないためとかいうことなんだろう。気遣いの方向が百八十度間違ってるけど。反対方向に投げてコースアウト記録なし退場だけど。
これがもうとっくに告白されてるとして、その上でのことだったら嬉しかったんだろうか。キスもまだなのにエッチのことを考えてるっていうのがぶっ飛んでるけど、好きな人とだったら、わたしが犬牟田先輩のことを好きだったら嬉しかったんだろうか。まあ今は嬉しいというか、そんな気は遣えるんだなーって感想しかないけど。しかしひどかったなあのビデオ! 君にもついてるものだぞってデリカシーなさすぎるし! ああいうのはもう絶対やめてもらお、大体十八歳未満なのにあんなの見ちゃダメでしょ!

「……え」

先輩に背中を向けてベッドの端に行こうとした腕を引かれた。
振り返る暇も無く引き寄せられて首がぐきっと嫌な方向に曲がる。反射で手を引っ込めたくてもそれができない。
咄嗟に掴んだシーツが皺になって、ばたつく脚が布団に覆われ、身体が犬牟田先輩の両腕で抑え込まれる。いくら下半身で逃げようとしても胴体と頭が動かせなきゃどうにもならない。捕まった。捕まった……!!

「……何もしないよ」

胸と胸、腹と腹がみっちりくっついて身じろぎどころか息の仕方すら伝わってしまう。熱い。薄いティーシャツから伝わる体温が、額に当たる先輩の口が、背中に回って肩を包む手が、じんじん染みてきてたまらない。

「何もしないから」

嘘だ! 無理ですって放して下さい!
言おうと口を開くと息が詰まって、声どころか呼吸もできない。何も言わないまま閉じて、鼻でふうふう息をする。何もしないって、もうしてるんですけど。いや、これ、だめでしょ。
今まで犬牟田先輩の手のひら以外に触られたことはなかったのに、手を繋ぐどころかこんなにがっしり抱きしめられるなんて、先輩以外の男の人でも経験ない。
まばたきしか出来ないまま、先輩の呼吸が落ち着いていく。え、このまま寝るの? 冗談じゃないんだけど寝られないんだけど。何度でも言うけど、何もしないってこれ、だいぶ何かしているんだけど。
わかった、先輩が寝たら腕を抜け出して床で寝よう。目を閉じて心臓を落ち着けようと長く息を吐く。あーダメだ、この温かさと犬牟田先輩の鼓動にとんでもなくドキドキしている。絆される、溶かされる。朝起きたら猛抗議しようと決めた心が揺らぐ。こんなんじゃダメだ、また先輩のいいように研究されて、今度は言い逃れできないところまで追い込まれる。わかってるのに。
このまま寝たらどうなるかもわからないのに、体が動かない。熱い、触り合う肌が、爪の先まで。眠い、眠い────

「────逃がすかよ」
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