短編 | ナノ
「んふっ」

いや、なめこじゃなくて。
いよいよ吐く息の白くなってきた季節、冬も本格。クリスマスだ年越しだと浮かれ始める登校中の生徒の群れに彼はいた。
夏場は皆が半袖で涼を求め右往左往する中にタンクトップ一枚とブレザーで平気な顔をしていたということは寒がりなのだ。同級生に笑われて不機嫌そうな彼に後ろから近づいて声をかける、までもなく振り向かれた。気付かれていたらしい。

「おはよう立花くん!」

立花京という男子生徒は布で顔の半分以上が隠れているパンキッシュな学生だが食専ではそんなもの誰も深く気にしやしない。衛生上問題がなければそれは個性であり特段厳しく注意するようなものではないのだ。
そんな彼の表情から分かるということはかなり機嫌が悪いのだろう。だってもう目しか見えてないのにすごいイライラしてるもん。振り向き方でさえなんか不良みたいだもん。実際立花京という生徒は不良どころか一歩間違ったら警察のお世話になりそうなことまでいろいろやらかしているがそれさえもここでは個性うんぬん。結果良ければ全て良しかんぬん。
マフラーとコートで着膨れした姿が可愛らしくて変な声が出たことは言わない方が身のためか。森崎などは大笑いしていたから今後何かしらの形で陰湿な復讐をされるだろう。あそこまで笑うことはないと思う。冬のこの格好の彼が名前はけっこう好きだった。寒さに耐えるためぽわぽわに羽を膨らませてまん丸くなる雀のようで。

「一気に寒くなったね。カイロ貸そっか?」
「持ってる」

力の入って上がる肩、ポケットに突っ込んだままなにやらずっと動いている手、さっさと校舎に入ればいいのにのろのろ歩いているのは本位ではなく、寒いから機敏に動けないということなのだろう。口の中では歯と歯がもうぶつかり合ってるんじゃなかろうか。名前は自分で寒さに強い方だとは思っていないが立花よりましだろう。北海道とか行かせたら冗談抜きで死んでそうだ。想像してまた「ふへへ」と笑いが漏れてしまう。
立花に合わせて若干歩調を緩めた名前の横を、女子生徒二人がキャッキャ言いながら通り過ぎて行く。片方が手をもう片方の頬に当てて冷たい冷たいとはしゃいでいる。あの子たち生足だ、寒くないのかな。タイツにマフラーでしっかり防寒の名前は見つめながら息を吐いた。白が空気に溶けて消える。半井くんが好きそうだなあ。

「貸して」
「うん?」

カイロだろうか。持ってるとさっきは行ったがもっと欲しいのか。貼るカイロもあるし背中にでも貼ってやろうかとカバンをまさぐると、ちょうだいのポーズで止まっていた手がぬるりと伸びて名前の手を掴む。料理をしている上に冬で乾燥しているからかパサパサの手に手の甲を撫でられた。長い指にきっちり切り揃えられた爪は不思議な色気がある。というか手袋、してきてなかったのか。

「た」

立花くん、という言葉が乱暴に引っ込められる。カバンから彼へ向けられた肘が動かない。
──指を、服の袖口に入れられている。

「えあ、うぅ!」

冷たい。てっきりポケットにカイロを入れて揉んでいるとばかり思っていたが違うのだろうか、道端に転がっている小石に触れたような冷たさだ。反射的に腕を引いて「立花くんつめたっ!」と言うと彼は同じ姿勢のまましばらく固まり、ゆっくりとポケットに手を戻し寒さに耐えるように背中を丸めて、名前が先ほど見たままの格好で生徒玄関へ向けて歩き出した。
後を追いかけ横に並んでも会話はない。冷たい手で自分の暖かいところを触られたら誰でもあの反応になると思うが、それを除けば名前は立花を拒否するということが少なかった。作ったから食べろと言われれば食べて感想を言う。某男子生徒がスパイスで身体を麻痺させられミイラにされそうになったという話を聞いても変わらない。帰り際目が合えば一緒に下校する。名前は寮生、立花は家通いのため途中までだが。気まぐれにキスなどされても嫌がることはない。人目のあるところで過度な触れ合いはしたくないというのはお互い思っているので目を見合わせて照れるくらいか。嫌がり方が過剰で傷つけてしまっただろうか。何考えてるか分からんと友人にすら言われる彼は、しかしわりと分かりやすい男だった。興味のないものはとことんどうでもいいだけで関心を持っていればそれなりに表情が変わる。目元だけで察せるのだからむしろ表情豊かなほうではないか。食専入学前は名前くらいにしか変化を見せなかった立花が色々な人に心揺られていて、それが嬉しいと立花の保護者である設楽が言っていた。名前も同じ気持ちだった。他の友達と接する時と同じように立花にじゃれつきながら、拒否や否定はなるべくしない。過去の全てを話して貰ったわけではないが彼には脆い場所があり、名前の一言で簡単に崩れてしまう。今まで付き合ってきた中での経験則だ。それに何より名前自身が立花のことを好きであるから彼の悲しむことはしたくなかった。
変わったのはやはりあの応用生物学部と調理学部の全面戦争、食専内のいち学部が料理の否定に世界を巻き込んだ一大事か。料理は無意味なんて何を馬鹿なことを、と息巻いていた調理学部の面々が、試合の度に自信を喪失していくのを肌で感じた。名前も応用生物学部の作品を食べて心動かされ、もしや料理は世界に必要ないのかとまで思ったが、折れなかったのは立花京のことが気がかりだったからだ。修学旅行で無人島に落ちてから彼の様子がおかしくなった。科学遺産ユーリ・ドラグノフ。応用の学部長である彼に連れられて応用に行ってしまい、立花とペアを組んで無人島探索をしていた守屋も風が吹けば倒れそうなほど意気消沈している。その様子を見てこれは誰かに慰めてもらえばいいものではない、自分で自分と向き合う時間が必要なのだと言う美波に従いいつも通り過ごしたが、あの数日は気が気でなかった。京が帰ってこないんだけど何か知らないか、と設楽から来る電話にどう言えばいいかわからず、素直にわたしも分からなくてともごもご言うことの情けなさ。なぜ会いに行かないのかとそこで思い立ち、応用生物学部の実習棟の前で右往左往して応用の生徒に捕獲されそうになること三度。ようやく会えたと思えばその様子は一変していた。

──触んなよ




「立花くん!」

今でも夢に見る。学部の間にある庭、日差しを防ぐ木陰に逃げるように飛び込んできた彼女の顔。安堵と照れが混じる暖かい匂いが引いていく。息を切らしていた名前はそれが整うのも待たず「どうしたの」と言葉を投げてきた。どうしたの? どうもしない。匂いのことを言ってるのだろうか、それとも三日三晩寝なかったから不調が顔に出ていたか。いや、どうでもいい。一歩踏み出せばふらつく体、苛立ちをぶつけるようにもう一歩進めば支えようと手を伸ばしていた名前が困惑で口を閉じ数歩後ろに下がる。ああ、退いた、退いたな。俺から離れようとしたな。

「うっ、あ!」
「嗅いで」

肩を掴んで、取り出した瓶の蓋を開け彼女の鼻先に持っていく。瓶が当たってとっさに顔を逸らす、その反応に今までないほどの怒りが立花を襲った。胸ぐらを掴み上げ頬に瓶を押し付ければ大人しくなった。立花が怖いからではなく心配だからだ。ここで嫌だと暴れて、傷付くのは名前ではなく立花だと知っている。違う、彼女がそう思い込んでるだけだ。だってもうこの女は自分に必要ないのだから。

「俺が好きなのはさ、苗字さんの匂いなんだよ」
「……なに、このにおい……」
「自分でわかるだろ。わかんないか、苗字さんの匂いだよ。マチュリーのボディソープ、さくらのシャンプー、トリートメント。人の汗と自然な体臭。再現できるんだよ」

わかったのならもういらない。投げ捨てた瓶が土に落ち草の中に潜る。片手で胸ぐらを、もう片方の手で肩を強く掴んで顔を寄せる。眉をしかめた名前はそれでも振りほどこうとしない。腹が立つ。恐いなら人間らしく泣いて逃げ出せばいいのに、どんな立派な使命感で留まるのだろう。それともたとえ名前が嫌がっても絶対に放さないつもりであることすらわかっているのだろうか。ますます不愉快だ、弱い体に繊細なこころ、それを差し出す価値が立花京にあると思っているのか。

「いらないんだよ苗字さん。匂いがあれば君はいらない。鬱陶しい」
「……立花くん、待って」
「君は俺のこと可哀想だと思って側にいたんでしょ。そういうの、ウザい」
「待って、聞いて、わたし」

この後に及んで、腕を伸ばしてくる。ここまで言われて何を抱こうとしている? そうだ彼女は誰にでも優しい。エレの泣き言にも森崎の悪ふざけにも松尾の愚痴にも苦笑いしながら付き合う。それと一緒か、何のつもりだ。何のつもりだ。

「触んなよ」

全身の力が抜ける。また支えようとしてくる体を両手で押して拒んだ。尻餅をついた名前を見て笑いが漏れそうになる。こんなに楽しいなんていつぶりだろう。こんなに笑い出しそうなのだから自分は楽しいのだ。俺を庇護の対象だとしか思わないで身を粉にして付き合ってきた馬鹿を否定してやった。楽しくて当たり前だ、泣き出しそうで当然だ。
背中を向けて去る間、名前は一言も喋らなかった。早く行かないと声をあげて笑ってしまいそうで、それはダメだと思い早足で実習棟に戻った。
去り際に見えた名前の顔が頭から離れない。心の深く入り組んだ場所を薙ぎ払われたような戸惑いと悲しみ。あれが自分の所為で生まれたものだと思うと叫びたくなる。もう少し抉って立てないようにしたくなる。更に穿って掻き出せば何が出てくるだろう。




夢だと分かっていても目が覚めるたび自分に引く。いや気持ち悪い。あの時立花は、傷付いた名前を見て喜んでいたのだ。サドかマゾかなんて興味はなかったが自分は前者なのだろうか。いや人間関係壊しといてSMもなにもあるか。
応用との対決が終わり調理学部に戻ったが、名前には合わせる顔がないと避けていた。が半日で見つかった。上に「おかえり!」と心底嬉しそうに言われては謝る権利すら失ったも同然だ。ウンと一回頷いてまた隣に立ち、何事もなかったように生活を続けるのが一番だ。
掘り返せば今度こそ、彼女に見放されるかもしれない。

「うん? 試食? いいよ」

卑怯だ。これが他人であったら下らないと一蹴する確信がある。名前の懐の広さに甘えているだけ、悪いことをしたら謝るというのは子供のころ思い知った。謝らなくていいように主張を封じ込めて要らないものには関心を持たなくなった。しかし今回は度を越している。黙って時間が流してくれるのを待つにしては濃く固すぎる。好きなのは匂いであってお前じゃない。あの時は本気でそう思っていた。やっと解放された、もう名前が他所を見る度嫉妬に焼かれなくてもいい。やっと解放してやれた、もう他人の面倒を見ることなく好きなところに行かせてやれる。俺には君の匂いがあればいいんだから。何を見ていたのか、応用の実習棟に戻った立花にユーリが声をかけた。あの子のこと、好きなんだ? 腹に蹴りを叩き込んで黙らせた。違うのなら放っておけばいいのに、何故。
結論を言うと違った。苗字名前の匂いだけが好きで彼女自体はどうでもいいなど、そんなはずがなかった。薄々気づいてはいた。都合のいい解答に飛びついて喜んでいただけだ。
あの子が好きなんだね。調理学部に戻ると言った立花にユーリが言った。繰り出した蹴りは側にいた美人ナース秘書に止められたが気分は悪くなかった。そんなことお前は知らなくていい、忘れろ。自分の心象など。泥のような恋情など二人の間にのみあればいい。他人が知る必要はない。

放課後の実習室に名前を伴う。どうしても逃げられたくなくて、部屋の前後に二つある引き戸に鍵をかけた。荷物を置いてコートを脱ぎ、食材を袋から取り出す名前は気にも留めない。こいつ馬鹿なのかな。自身に手を出したことのある男が密室を作っているのに。男に終電逃したから泊めて何もしないから! と言われて可哀想だからと了承し食われる人間か。ああ許せない、一生味なんて感じられない舌にしてやる。

「カレー作るの?」

食材を見て機嫌の良さそうな名前の声に調理台に立って頷く。スパイスケースを乗せた椅子をそばに引き寄せ野菜を取り出す。さっと洗って皮を剥く。
台と対面する位置に椅子を据えてボーッとその様子を見ていた名前が「あ」と声を漏らす。

「雨だ」

目だけで窓の外を見れば確かに雨が降り始めていた。雪はまだ降らないとの予報だったが、名前のことだから雪じゃないねえと残念そうにするのだろうか。包丁でじゃがいもの芽をくり抜いたところで名前が立ち上がる。

「傘忘れた! 取ってくる!」
「……は、家に?」
「ううん教室! ロッカーに折り畳み傘置いてるんだよ」

──逃げる気だ。
コートも財布もスマホまで、全てその場に置いたまま身ひとつでドアに向かう名前を見てそう思った。ありえない、生活に必要な物を置いていなくなるはずがない。そんなことは分かっていても嫌だと体が云う。

「待っ」

言葉にもなっていない言葉が途中で切られる。調理台の角に脛をぶつけた。痛みから逃れる為に手を台につき前のめりになる。引き戸に手をかけた名前がウワーと慌てて駆け寄ってきた。

「脛ぶつけたの!? 痛〜っ……ついでに湿布持ってこようか?」
「いらない、いいから」

両手をわたわた動かしながらも立花の体には触れようとしない、彼女の態度に腹が締まる。
触んなよ。
言ったのは自分で、彼女はそれを守っているだけだ。そのくせこんなことで言葉が出なくなる。「ねえねえ」と肩を叩かれ振り向いたら指で頬を突かれる、嬉しいことがあればハイタッチするなど、ボディタッチを少なからずしていたのがあの日以来ぱったり無くなった。いつも通りの表情でも気にしているのだとすぐ分かった。
だからと言って、謝ってもしそれが杞憂だったら。むしろこれを彼女が望んでいたら。
いいよ。こっちのほうがわたしも楽だもん。
そんな事を言われたら──言われたら何だというのだ。例え名前がそう言ったとしても元々そう思っているはずだ、それがやっと表面化して面と向かって言えるようになって安堵するだろう。いや甘えるな、彼女はそんなことは言わない。だからこそその意図を汲んで自分から離れなければならなかった。応用生物学部編入というのはまさに絶好の機会だった。料理のしがらみから逃れ彼女を立花京という重責から解放できる。ああ、嫌だ。どんな負担だろうと俺を見放すな。どこかに行くくらいなら可哀想だと思え、同情で後ろ髪を引かれろ。知っていた。親に捨てられ大人に噂され頼るものは設楽だけ、彼の金も結婚も吸い取って大きくなる体。周りより少し心の優しいだけの少女が更なる犠牲として差し出されただけ。可哀想なんだから優しくしてあげなさいと言われ、それを心から信じて実行できてしまう少女が、最低の売女から産まれた貧乏神に恋をされてしまっただけ。親切心ならもう近寄るな。一度面倒を見始めたんなら最後まで責任を持て。言いがかりだ、分かっている。世間一般的に彼女の献身は善行と謂われる。ただ一人その優しさに見惚れた男には毒になってしまっただけで。こんな聖人君子いるものか、ここには二人きりで何を言われても耳を塞ぐことしかできない。もういい加減にしろ。必死に羽根をむしろうが彼女には脚がある。両足切り落としても腕がある。両手潰しても口がある。舌を抜いても人望がある。食専の中でも今までの人生の中でも、立花より良い関係を築ける相手がいた。それでも今まで自分に関心を向けていたのは慈悲からだ。いい加減にしろ。死ねよ。

「さわって」

ほとんど呻きだった。弁慶の泣き所ともあれば少年には痛かろう、名前の腕を掴んで引き寄せた時に自分の手が震えていると気付いた。名前の肩に寄せた頭にそっと手がのる。髪と口布の結び目をいちど撫で、もういちど撫でる。素直に言うがまましてくれることが嫌だ。

「さわって」

それでも催促が口から出てくる。頭を撫でているのとは逆の手が、立花の手を弱く握った。震えが増してきている。膝から崩れ落ちそうだったがここでそんなことになればもう立ち上がれない。立ち上がれないから何だ、誰が困る? 引き取った子供が死んでは設楽の体面が悪いか。その程度、その程度だ。

「寒い?」

突然意味不明なことを言われてもこちらを気遣う、なんと健気なことか。あらゆる男を勘違いさせられる。もしかして悪いのは自分ではなくこいつじゃないか。口には出さずただ息を吐いた。白い息が出るはずもない、空調の効いた室内に震えるような寒さなどありはしないのに。
やがて両手で立花の手を包んだ名前が、自らの袖の中に立花の指先を入れた。肩が小さく跳ねたことはきっと気付かれている。暖めるように肩を撫で、お互いの手首を掴むように、指の付け根までが彼女のカーディガンの中に潜る。

「あったかい?」

暖かい。手首に指を当てると、鼓動に合わせて親指の下で血管が跳ねる感触がある。
……熱が引いた。頭の中はまだ煙が立ち込めているが動けるようにはなった。

「もういい」
「えっ、いやそのまま包丁使うのは危ないよ。ちょっと休んでからにしよう」
「いい。こういうのやめよう」

喋り出してしまえば簡単だった。手の震えも収まり、名前を振り切って調理台に戻る。こういうのって、と立ち尽くす名前に言葉を投げながら調理を続ける。

「もう俺に付き合わなくてもいいから」
「へ?」
「設楽さんに仲良くしてって言われて面倒見てくれてたでしょ。もういいよ」

こんなにあっさり伝えられるものだったのか。何を怯えていたのだろう、人参を半円切りにしながら考える。「そっかあ。いやあお役御免」と肩を回すだろうか。「どうしてそんなこと言うの……」と泣き出すだろうか。今更見放せないというのなら嫌いになってもらおう。今の家も追い出されるかもしれない。いや設楽はそれでも立花と名前の仲を取り持とうとするに違いない。どこまですればいい。暴行、強姦。違う。心の傷になる必要はない。ないのだがこのお人好しがどこまで食らいついてくるか。

「本当に思ってるの」

目は立花の手もとに向いていた。何も答えず人参をボウルに避け玉ねぎの皮を剥きだす。「設楽さんに言われたから仲良くしてるって思ってるの」ああ、とことん悪者になりたくない反応か。どう転んでも彼女が悪いなんて言われることはなかろうが、周りだけでなく立花本人にも悪い感情を持たれたくないときた。ひどいよ、そんなわけないでしょ、そんな風に思ってたんだ……。いけない、そんなさめざめと泣かれることがあれば掴みかかってしまうかもしれない。彼女から本気の拒否と非難の目が向けられるまで好き勝手してしまう。気持ち悪い、気持ち悪い、助けなど求めたことはないが恩知らずではないつもりだったのに。仇どころか拳で返すやつがあるか。でもしてしまいそうだ、痛いところ、恥ずかしいところ、全部。
音もなく立ち上がった名前がまた足音を立てずに近づいてくる。包丁はシンク横、一息で届く場所ではない。ふらふらと力の入っていない脚は今にも崩れそうだ。
何を言う。何も言わず出て行くか。何──

「馬鹿ーーーッ!!!」

息を吸うなどの予備動作なしに声を破裂させ、調理台に手をつき立花に勢いよく顔を寄せる。寄せすぎて避けなければ頭突きされているところだった。

「バカ! ああッ! バカッ! 設楽さんに頼まれたからってわたしが、それだけで手つないだり……したりすると思ってたの!? バカ! アホ!」

怒っている。
一瞬驚いたが納得はした。尻軽だと思われれば怒るのも当然か。そういうつもりじゃなかったと伝えたいが難しい、言葉を考える暇もなく名前の頬がみるみる赤くなっていく。感情を隠さず笑ったり泣いたりという姿は見てきたが「うっ、ううっ」と喉をつまらせながら怒る様は初めて見た。

「好きじゃない人とそんなことするわけないでしょうがァー!! どうしたの頭ぶつけた!? ぶっ叩けば治るの? そこに正座しなさいこのっ、バカーッ!!」
「いや」
「あぁーもうッ! 触られるの嫌みたいだったから悩んでたのにバカ! じゃあ立花くんもなの? 好きじゃないけどわたしと色々してたの!?」
「俺は違うけど」
「わたしも違います! バカ!」

どんなに腕を振り回しても「バカ、アホ」しか罵倒が出てこない。怒っているのに気の抜ける語彙はわざとでなく本当にこれしか言えないのだろう。言葉の代わりに手で何やらろくろを回したり上下に振ってみたりと頑張って怒りを表そうとしている。
やがて疲れたのかハァハァ言いながら立花を睨みつけ、調理台の内側に回り込む。何をするかと思えば立花の手をすくい上げ、胸の前で抱えるように何度か握り込んだ。

「好きだからこういうことするの! だから朝会えたら楽しいし、一緒に帰れたら嬉しいし、電話もするの!」
「それだけなら守谷君達でも同じだよね」
「えッ! いやそれだけじゃなくて! あの…………ハグとか」
「うん」
「………………チューとか」

そっと手を放されて名前に包まれていた手の甲がスースーする。本人は手をスカートで拭ってバツが悪そうにしている。

「触るなって言った」
「……ゴメン。手汗は、不可抗力っていうか」
「けどあれ嘘」
「はんッ!?」
「触って」

その場で少し頭を落とせば、何、何、と戸惑いながらも肩に触れてくる。頭を撫で、胸と胸が押し合うほどそばに寄る。
これか。自分はこれに惹き寄せられているのか。こうしてくれと頼めば何の問答も無しに動いてくれる。愛想のあの字もない貧乏くじ相手に学習せず纏わり付いて警戒を見せない。誰にでもこうだ、自分だけじゃないという自重が他でもない彼女に否定されてはもう防ぎようがない。
今まで見ないふりをしていた。面倒な感情だと思っていたのに晒してしまえばこんなに気分がいい。名前の腕が背中に回って彼女の襟元に鼻を埋めた。好きな匂いだ。これさえあれば名前はいらないと勘違いするほど。彼女の匂いさえあればこの想いを捻じ伏せられると思っていたのに。
犬や猫が撫でる人間の手に顔を擦り付ける時はこんな気分なのだろうか。名前の二の腕から肩、背中へと手を滑らせる。
万人に受け入れられる「いい匂い」なんて存在しない。ましてや他人の体臭とくれば尚更だ。体の凹凸を擦り抜け襟まで上ってくるこれだって、花や果物、樹木などの香りとは違う。一時とはいえ混乱していると本人でも悟れぬほど狂わせられたのは匂いでなく、苗字名前という女にだった。

「……わたしも、ごめんね。立花くんが辛かった時なんにもできなくて」

腹面を密着させているからか、名前の声が体に響く。

「だからそんな風に思っちゃうんだ。ごめん」

百人いれば百人が立花の方が悪いと言うだろうに、彼女は落とし所を作るのが上手い。謝ろうという気にさせてしまう。しかし気持ちはそうであっても口に出すのはなかなか難しいものである。言わなかったのは名前だけじゃない。言葉でなく接触で睦み合うことを受け入れてくれた彼女に甘えていた。ああ、また。見限ってくれればいいものを手繰り寄せ人の中に突き込む。胸に刺さるであろう湿った暴言や周りも巻き込んだ暴走を抱き止めるのが名前だった。

「好きだよ。一緒にいて欲しい」

それを言うのだって、俺でなくてはいけないのに。





「おいしい!」

量が多すぎた。鍋いっぱいのカレーを見てぼんやり思う。持って帰れば設楽が食べるだろうが入れ物がない。皿はあるが校内からの持ち出しは禁止だ。大丈夫いける! と名前は息巻いていたが立花より小さな体の一臓器にはルーだけでも収まる量に思えない。「うん、辛い! お水!」とか言ってるし尚更だろう。

「だ、大丈夫! 立花くんのカレーなんて食べたい人いっぱいいるだろうし!」

威勢のいいおかわりの一声にご飯とルーをよそってやっている内になにやらスマホを忙しなくいじくり回している。誰か呼んで食べさせるのだろうか。まあ料理人の端くれとして作ったものを無駄にしたくはない、最初の一口が彼女であれば──

「待って」
「ハイッ」
「入れ忘れてた」

シンク横に、何かの弾みで飛んでいったまま失念していた茶色の葉。手にとって鍋に火をかけすぐ入れる。香りのためのたった一枚とはいえ足りていなかったと思うと気持ちが悪い。

「珍し……あ、変な話しちゃったから集中できなかった? え、えへ」
「別に。これはよそっちゃったから、このまま食べて」
「はぁい」

二皿目で早くもペースがガタ落ちしている名前の隣に座って息をつく。有耶無耶になってしまった気がしないでもない。面倒だの関係ないだの言っている場合でないのは分かっていた。しかしなんと言えばいいか、いやどんな言葉をかければいいのかはとっくにわかっているのだがハッキリ言ってしまうのは非常にらしくないのでどうにか遠回しに察して欲しいというか、また甘えているという指摘もその通りなのだが今回だけは。
いつもの面々を呼んだのならいつものバカが始まってしまう前に済ませなくては。今日は一緒に帰ることも出来ないだろう、ここしかない。

「……ふふ、ふふ」
「何」
「ん、ううん……。もしそうだったらさ」

わたしのこと考えてましたって味なんだなあって。

「……なんつってねッ! はーやだまた変なこと言っちゃったよコレ美味しすぎるからかな!」
「好き」
「は!?」
「なんでもない」
「えっ待ってそれ言うタイミングおかしい上に一瞬で照れてなかったことにしようとするのやめよ!?」
「別に、そんなんじゃない」
「はいはい……。ま、でも……わたしもあんまり言ってこなかったしねそういうの。あ、これからは一日一回愛してるって言い合うようにする?」
「いいよ」
「だよねーわたしも言っといてなんだけど恥ずかしいわそんな……え?」
「なんでもない」
「ああッ言う前に照れて撤回しちゃった! 頑張って立花くん!」

その後やってきた級友達によって無事カレーは平らげられ、この男女の関係もしばらくの安寧を手に入れることになる。
──と思っていた名前に、次の日から「愛してる」という一言だけのメールが送られだすことによりもう一波乱起きるとは誰が予想できただろうか。

「あのお立花くん。一日一回来る非常に嬉しいこのメールは、これは……」
「定型文作って再送信してるだけ」
「……律儀でかわいいよねそういうとこ……」
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