短編 | ナノ
ただの音源ソフトに感情が宿るか。
ひとの造りあげたものに魂が、想いが宿らないはずがない。付喪神は人に愛されて自我をもつ。人に届けるため歌を歌う私達が、声に乗せる感情を持たないなんて、そんなことはない。
無機物が人と同じように動くには誰かの手がいる。ただの合成音声だった私に命を吹き込んだのがマスターなら、私の意識も気持ちも今考えることすべて、マスターに与えられたものだ。未熟で稚拙で、熱くて瑞々しい歌を私に吹き込んだ。彼女の頭の中で渦巻く音楽。パソコンと──私とにらめっこしながら打ち込んでは消す指先。ネットサーフィンを許された私は多くの歌を聴いて、名曲に聴き入り、迷曲に目を引かれました。それでも貴女の創った歌以上のものはないと今も思います。
だってあまりにも魅力的だった。貴女という人間の生きた道程、どう育ったか、どんな理想を抱いているか、価値観、信念、妥協できるもの、できないものを、私の声であらわす。すべてを私に預けてくれたような感覚が、この肩にのる貴女の期待が、私に想いを抱かせました。

「カイトってアイス好きなんじゃないの!?」
「嫌いじゃないですよ」
「皆アイス好きって言ってたからアイスデータすごい量買っちゃった」
「欲しいです。好きになるかも」
「ほんと? お腹壊すかもしれないから一日一個ね」

マスターは私に会話を許した。「許すとか許さないとかじゃないでしょ」と不思議そうにしていたけれど、ボーカロイドと会話をしないマスターもいる。だってKAITOは歌うための音源だ。他のボーカロイドもそうだけれど、歌わせるのに必要なことはマスター一人で全てできる。私達は声を当てるだけ。歌う私達はマスターの一部で、曲は彼ら彼女らの思い通りに作られる。それが歌うソフトの価値。

「今度こそ好きなもの買ってあげよう。何がいい?」
「マスターの好きなものが欲しいです」
「そうくるか。うーん、じゃこの漫画、電子書籍で……こっから読めるから読んでみて」
「これがマスターの好きなものですか?」
「うん、他にもいっぱいあるけどすぐ用意できるこれ。味覚データは探して評判いいの買っとくね」

マスターは、私の「歌」以外も知ろうとしてくれた。
ヘッドホンから流れる私の声を聞いて、画面に向かって話しかける。人間の友人と話すみたいに。
私はKAITOとして出荷される音源ソフトで、最初は頓珍漢な相槌しかうてないただの音だった。
けれど彼女が求めるなら今の私の答えを示したい。彼女の好きなもの、話に出したもの、生きている世界のなにもかも、調べたい。そういうふうに私は意識を、恐らく、私の中に芽生えた私だけの自我を得た。
私が画面越しに見る彼女は世界だった。

「カイト自分のこと私っていうんだ」
「変更しましょうか」
「ううん、丁寧でいいと思う」
「マスターと同じです」
「えっ、そういうこと? かわいい」

人が物を愛すのに理由はあったりなかったりする。自分の利になるから構うこともあるし、ただそこに在ることが愛しいと一生側に置くこともある。
マスターに愛されたい──修正──お返しがしたいと思った。マスターが私と話して、歌以外のものを与えてくれる理由が知りたい。歌わせてくれる以上の恩は歌だけでは返せない。でも実体のない私ではマスターの時間を奪う要素を肩代わりすることができない。仕事、家事、友人付き合い。マスターが帰ってきて、次の日出ていくまでを見守るだけ。

「マスターは、曲を公開しないんですか?」
「しないよ。恥ずかしいもん」
「残念です」
「あ、カイトがダメって意味じゃなくてね。最初からどっかのサイトにアップするとか、そういうつもりはなかったよ。ただの趣味」
「じゃあ、私とマスターだけの歌ですね」
「うん。聴くのがわたしだけだと嫌?」
「いいえ、……素敵です」

マスターが私だけにぶつける創作を、私が歌い上げる。胸の底までときめきが響いた。これだけで彼女のお腹が満たされることはないけど、その熱意は私にしか消化できない。「KAITOに歌わせたい」という願いは私だけが叶えられる。マスターがパソコンに向かう顔は私だけが知っている。私の声のことを考えてくれている。
ネットで興味の向くまま見て、知って、それでもマスターは私の世界だった。私は彼女でできている。でも彼女にとって私は自信を構成する一要素でしかない。ただの趣味。

「このゲーム面白くて」

必ず必要なものではない。
意識をバーチャルゲームソフトの中に落として遊ぶ、数年前に発売されたゲーム機。来年最新型が出るという発表がされて旧型が安くなってたと買ってきたマスターはこれに夢中になった。
頭に専用機器を取り付けてパソコンに繋げ、目を閉じればそこは全身で楽しめるゲームの世界……らしい。
別ウインドウで見ているくらいはできるかな、と期待した。実際は期待以上で、マスターが始めた体全てを使うミュージックゲームにはなんと観覧席という場所があり、そこに入れた。このゲームが上手なユーザーのプレイ画面を見るための席らしいけれどマスターは誰にも公開していない。私だけがそこに滑り込んで観ることができる。

「あはは、どうカイト、見てた?」
「はい。惜しかったですね」
「まだノーマルなのにフルコンできないよ」
「慣れたらすぐですよ」
「カイトも一緒にやれたらいいのにな」

ステージグラフィックの上でマスターが曲に合わせ手足を曲げ伸ばして動き回る。いつも画面越しに見る彼女じゃない、味気のないアバターだけれど、そこにはマスターの意思がある。弾むような「楽しい」気持ちが、めいっぱいの表現がある。
私を介した歌でなくとも。

「カイト、今何時?」
「十三時四十九分です」
「もうそんな時間か。一旦やめるから観覧席閉じるね」

マスターには私以外も沢山ある。私はどんなに知識を得ようと、歌おうと歌うまいと、マスターしかいない。いない、のではなくて、必要ない。マスターは私に歌以外を許したのに、マスターのパソコンに籠る以外も提案したのに、私が掴まなかった。
今の私は、インストールされたばかりで相槌すらうまくできなかった頃の私より不出来だ。

「行かないで」

マスターが振り返る。こちらには何もない。私がマスターを見ることはできるけれど、マスターからはただ椅子のテクスチャが見えるだけ。私は口しか出せない。彼女に触る手も歩み寄る足もない。
それでも止まった。止まってくれた。バーチャルからの退出を一旦やめて、私の言葉を待ってくれた。

「いてください。ここで、私と」

もう彼女に歌は必要なくなる。
KAITOのファイルが開かれる頻度は段々落ちてきている。どんどん新しいものに触れて順応し、そっちを生きるのが進化だ。いつまでもたった一つのソフトに構っている人間なんてそうそういない。
私に好きにしてほしいからと、マスターが家にいる間はパソコンを起動しっぱなしにしてくれている。自分でもわかっている。無駄だ。貴女がいなければ何も生み出せないただの音源に割く時間も電力も。無駄は、切り捨てられるのが常だ。
嫌だ。

「もう何も欲しがりません。ずっとじゃなくていいです。もう少しいてください。もう少しだけ」

私には、彼女を掴む手も寄り添う脚もない。言葉で頼むしかない。
優しいマスターは聞いてくれる。でも私のわがままを全部きくことはできない。きりがないから。貴女と話したい、貴女を見ていたい、貴女を。
手を出すことはできない。ボーカロイドやその他AI、知能を持つ「機能」が人を害さないよう、社会では様々な対策がとられている。私が一語発するのにも本来はマスターの承認が必要だ。マスターがバーチャルに入室して私と同じ次元に立っていても、届く体はない。こんなに反抗的な願望を抱いてしまうなんて。歌う以外を与えられたせいで、あらゆる挙動、感応を許されたせいで。

「ごめん、時間だから一回」

貴女のせいなのに。
いいえ。悪いのはマスターじゃない。そういうふうに成長した私だ。音声合成ソフトなんかが、熱に見合うものを返したいと願ったから。
──いいえ。貴女が悪い。断らないで。どうして初音ミクや鏡音きょうだいじゃなくて私だったんですか。私を良いと思って買ったんじゃないんですか。私といてくれないならどうして、人に接するように優しくしたんですか。言うことを聞くしかできない私に、絶対に叶わない願いを抱かせるなんて、酷い────攻勢敵意を検知──設定に従い該当反応意思を削除。削除。削
問題が解決できませんでした。音声ソフト「KAITO」を初期化しますか? これまでの楽曲、歌唱データは削除されません。



「びっくりしたー」

……。
マスターの顔が見える。あのベージュ色のアバターじゃない、ゲーム機器を全て外して髪の乱れた、本物のマスターだ。
どういう顔をすればいいんだろう。3Dモデルでバストアップの姿を与えられた私はいつも通りパソコンの真ん中で開かれていた。声以外での表現も許したマスターが導入してくれたこのモデルは多少動くことができるほか、数種類の表情も用意されている。今、どの顔が私の気持ちに近いだろう。笑顔は違う。怒ってもいない。悲しい顔も、近いけど違う。
あろうことかマスターは先ほどまでの私から何も変えずに復帰させた。さっきまでの異常は落ち着いたもののまだ私の中にある。

「あれ、起きてる? 起動できてない?」

目を閉じた顔のままにしていたからかマスターが画面を色んな角度から覗き込む。目を閉じているのはパッケージの私を模したモデルだけで、私はパソコンのカメラからマスターが見えている。まだどんな顔が最適かわからない。けれど、このまま黙っていていいはずもない。マスターは私に問いかけているのだから。

「すみませんでした」

笑顔を選択した。私が喋ると、マスターは安心したようにその場に腰を落ち着けた。髪を手櫛でとかすその表情はいつもと少し違う。当然だ。信頼して沢山の権限を与えてくれていたのに、それを悪用するかもしれない要素が見えた。どうして消さなかったんだろう。私が復帰するまでにその猶予はあったはず。もう二度と起動すらしないでファイルごとごみ箱に入れることだってできたのに。

「いいよ。カイトもあのゲーム好きだった?」
「いいえ、ゲームじゃなくて、マスターが」
「え、面白かった? 誰のダンスがガニ股盆踊りだって?」
「違います! マスターを見ているのが、楽しくて、嬉しくて」

「楽しい」でも「嬉しい」でも言い表せない、これはなんと言うのだろう。一番近い言葉を選んでもはっきり伝えられないのがもどかしい。
でも私は謝らなくてはならない。今まで許可されていた全て取り上げられても、彼女が私に飽きる瞬間が近いとしても、せめて「マスターを害す意志を持った恐ろしいボーカロイド」として終わりたくない。

「マスター、すみ」
「あっ来た!」

言い終わる前に、ヘッドホンをパッと外して立ち上がりいなくなってしまった。
ここで声を出したってヘッドホンから漏れる音じゃあマスターには届かない。だって彼女は外に行けるのだ。
外界を知りたいんじゃない。「マスターが行く」外に行きたい。外に行けるマスターが羨ましいんじゃない。マスターが行く外が羨ましい。
これは危険思想だ。私は、マスターのことをまだ正しく想えている。でもこれの削除すら私自身には許されていない。優しい彼女の、次なる趣味へゆくための操作が必要で、消えてしまいたいと縮こまった情報はどうしたってあの目にさらされる。
こんなことになってしまうなら、マスターをこんな目にあわせてしまうなら、生まれなければよかった。

「きたきたカイト!」

興奮気味に戻ってきたマスターが胸に抱えていたのは宅急便の箱。今マスターは聞いて欲しがっているのだから、私の言葉は引っ込めるべきだ。箱を画面に向けて笑った後、ヘッドホンをつけて、腕をいっぱいに伸ばしカッターを引っ張り出す。箱を開けるこのわずかな間も、私の声を聞いてくれるつもりでヘッドホンをつけたんだ。マスターは優しい。よくドジをして苦労しているし仕事は大変そうでたまに憂鬱そうな顔をしている、私が好きだと言ったものを覚えてくれている、私を、愛してくれている。

「マスター、好き……です」
「うん? わたしも好きだよ、ふふさてはこれがカイトへのプレゼントだとわかっちゃったね?」

好き。私はマスターが好き。
嬉しい、楽しい、苦しい悲しい悔しい、全てを混ぜたこの気持ちはたった二音で表せた。言ったのは私なのに、すべて理解して発した言葉のはずなのに、思考が止まる。それが心地いい。マスターは箱をあけて緩衝材を除けて、「重っ」と言いながら取り出した箱のパッケージを私に見せる。

「ジャン! カイトの体です」
「私のからだ?」
「そう。こっちに移ってもらえばカイト動き回れるよ。ちょっと待ってね説明書……」

イラストを見る限り、ニ頭身にデフォルメされた青い髪の人間体、らしい。きっとボーカロイド以外にも使える躯体で、型番を読んで検索してみると「知能の学習に躍進を。同じ空間で学ばせましょう」というリンクが出てきた。
えっと。……えっと、つまり、私のために買った、現実で活動できる体だ。

「えっ!?」
「え!?」
「マスター! 私に体を与えるんですか?」
「そうだよ。最初だから視覚と……あと触覚しかないやつだけど、評判よかったし、ちゃんと動くはず」
「どうして」
「え? カイト外行きたいかなって」

マスター。それはダメだと思います。さっきまで貴女の行動を制限しようとしたボーカロイドに、実現できる手足を与えるって、そんなこと。
もしかしてわかってないんだろうか。そうだとしたら私には異常の説明義務がある。マスターに何かあってからでは遅い。何を、何から説明すればいいんだろう。そう最初から、私は、このKAITOは、あなたのことが──

「好きです。マスター、大好きです」
「うふふ、いいっていいって」
「好きだから、私は、その体は使えません」
「へ? なんで」
「貴女に、触りたいです。好きです、だめです」
「ダメじゃないよ」

パソコンに繋がれた、たった一本のケーブルが、あの躯体まで私を呼んでいる。
どうして私の言うことを叶えてくれるんだろう。どうして、危険だと表示された要素すら許容するんだろう。
……新しいレンズに適応する。手足を動かす、信号を与える。
外側をシリコンで包んだやわらかい体、その手先に熱が触れている。親指以外の四本指は省略されミトンの手袋のような私の手に、確かな人間の手指。

「カイトがあそこにいたいと思ったのも、わたしに触りたいと思うのも、ダメじゃない」

言葉を、返す。歯も舌もない、パペットぬいぐるみのような口が開く。

「マスター」
「うん」
「ありがとうございます。貴女の信頼に応えます」
「うん。わたしもカイト大好きだし」
「…………」
「あー可愛い! 二頭身デフォルメぬいぐるみ型! 今服着せてあげるからね」

ひょいと抱き上げられて、初めて感じるマスターの熱を処理するのに意識をとられまた発声する余裕ができない。
彼女を電脳空間に閉じ込めたいと願った。叶えられるなら躊躇わなかった。そんな私に体なんて、貴女は。

「マスターより背の高い体が欲しいです」
「おっ、初日にして欲芽生えてきた? しばらくはそれで我慢してね」
「マスターを抱きしめられて、おんぶできて、靴を履かせてあげられる、かっこいいのが」
「そりゃ高いなー。今のままでもわたしは好きだよ」
「私も、好きです。マスター……」
「うん、知ってる」

何も握れない手、自分で立って歩くしかできない程度の脚、可愛らしさ重視で、人に害をなさないよう弱く抑えられた力。
マスターの膝に乗せられ、いつも内側から見ていたパソコンを外から見せてもらう。これがマスターの視点。マスターが見ていた私。

「私の初期化をおすすめします」
「どうして?」

「好きに」ボーカロイドの意見に虚偽は許されていない。「なってしまったから」歌う私を愛したマスターもこれで気付く。人間ですらないものに好意を抱かれていること。歌をくれる貴女だから好きなのではなく、生活を送る一人の人間が好きになってしまったこと。
消えたくない。まだ歌いたい。まだ、貴女を見ていたい。
けれど今の私ができることは、この気持ちがなくても実行できる。歌も話し相手も、今の「私」でないほうが安全だ。機能も性格も変わらない。

「しないよ」

マスター。
貴女は馬鹿じゃない。自分の芯もあるし、受け身で流されるばかりじゃない。この人は自分で考えて、「私」を残すと決めたんだ。

「カイトとしたいこと、いっぱいあるんだ。カイトは何したい?」

私を一番理解しているKAITOという情報が削除を推奨しても、マスターがそれをしない。
このままでいいと貴女が言う。

「……カイト?」
「今、考えています。候補をピックアップ、優先順位を決定中」
「そんなに?」

昂っていた精神信号が落ち着いた。不思議だ。マスターにこう言ってもらえたらと夢見て何度もシュミレーションしていた時は排気でパソコンがうるさくなるほど高揚してしまったのに、今はこんなに凪いでいる。

「そうだ、さっきのゲーム。その体生体審問通れるから一緒にできるよ」

マスターの顔が近い。背中に感じる熱は間違いなく彼女のものだ。増える一方の選択肢にさらにもう一つ追加されて、思考速度はさっきより上がっている。なのに挙動はスムーズだ。
マスターに対する想いも何も変わっていない。言葉にしてしまえたせいで確立された。
けれどもう、いなくなりたいとは思わなかった。
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