短編 | ナノ
ネットを知ったばかりの人間で警戒心の無い奴は意外と多い。SNSを顔写真アイコンや本名でアカウントを作って鍵もかけずに世界に大公開しながらプライベートなやり取りをする。誰とどこに行くとか何をしたとか、複数のSNSで同一人物を見つけ出してしまえばそいつがどんな生活をしているのかが分かってしまう。実際見に行くほどヒマじゃなかったからファイリングだけで済ませていたけれど、僕には他人の個人情報を集める趣味が一時期あった。本当に単なる暇つぶし。同時に何人を監視できるか試してみて十一人でやめた。限界がきたとかでなく何でこんなことしてるんだ僕は? といきなり賢者モードになってしまったから。面白そうだからと始めてみたソーシャルゲームで逆に時間や日常生活を食い潰されて疲弊する、ソシャゲ疲れみたいなものか。マジ赤の他人だったし、多分これからも関わることないし、そう思ったら急に不毛に感じて。
皐月様に着いて本能字学園に来てからは全校生徒の軽い個人情報くらいはまとめていた。深いところに突っ込んでまで情報収集することは無かったけど煩雑な情報を要るもの要らないものに分けてまとめる作業はやっぱり嫌いじゃなくて、あの時の遊びも無駄ではなかったかな、と思っておけば少しは報われる。
苗字名前の情報を集め始めたのはいつからだったろうか。いいやこれもちゃんと記録してある。彼女の入学間もない四月末、数々の部活の激しい練習に恐れをなした苗字は一番話の通じそうな裁縫部部長、伊織糸郎と相談の末裁縫部に籍を置くことになった。入学式でも各部員並んでの四天王視察会でも、席順の表データはあるものの顔まで認識したかと言われるとしていなかった。数いる無星の女子生徒、そのころは特に意識していなかったということは、どこかの劣等生みたいに鼻ちょうちん揺らして立ちながら眠ってはいなかったのだろうが。

「部長、あの」

僕が裁縫部に入り用で部室の扉を開けた時、見慣れた伊織の背中と、彼に駆け寄る無星の女子が目に入った。なにやら話しているうちに僕が伊織の背後に立つと、彼女──苗字は言葉を途切らせきょとんとした顔で僕を見上げてきた。

「ああ、君か。犬牟田」
「例の件で話があってね」
「ちょっと待ってくれ。ほら苗字、次はこれだ」
「ありがとうございます!」

傍にあった棚から伊織が薄い冊子を取り出し渡せば、苗字は笑顔で伊織と僕に一度ずつお辞儀をして去って行こうとして、何もないところでつまずいて、振り向いて照れ笑いして、今度こそ去って行った。
忙しなく動く裁縫部部長と直接口を利くにしては星が足りないような気がして伊織に彼女は、と聞いてみれば。

「今年の新入生だ。数日前まで玉止めもできなかった」
「は? そんな下っ端を君が直々に面倒見ているのかい」
「たまにだよ。みるみるできるようになっていくから面白い」

できない奴がちょっとできるようになるのが早いなんて当たり前だ。玉止めなんて水泳でいうなら蹴伸び、料理で言うなら最初の手洗いみたいなものだろう。一年生が即戦力になるなんて期待は学園もしていないが、盾を持つだけでふらついていた兵士がちゃんと構えるようになったからって兵士長が構ってやることはないはずだ。
特に美人でもなかったが、もしや伊織はああいう女が好きなんだろうかと疑った。言いはしなかったけれど。

その数週間後、生徒会室から見える地上にまた彼女を見かけてなんとなく眺めていた。米粒のような生徒に混じってやや急ぎ気味に校門を抜ける。無星だから女子なのにスラム暮らしだということには同情するが、どこか部活に入っていればすぐに一つ星にはなれる。それが一ヶ月経っても無星ということは彼女自身に何か問題があるということだ。やるべきことを怠っていなければ人並みの暮らしはできるだろうに。
僕がまばたきをした一瞬で、苗字は転んでいた。双眼鏡で見てみたらまた何もないところで。そういえばこの間も転んでいたな、まあ何もないところで躓くことなんて人間誰でもある。どうでもいい人間のことまで気にしていられるほど暇じゃない。暇じゃない。

「えっ、嫌です!」

犬牟田宝火直々の呼び出しで怯えながら学園中央部タワーの空き部屋に来た苗字は、しかし要件を告げると即座に拒絶の意を示した。良かったな君、ここに他の奴がいたらひっ捕らえられてたぞ、と考えるのは後にして。

「だから。君がよく蹴躓くのは靴のせいだろうから見てあげるって言ってるんだけど」
「いや、いいです」
「なんで。別にお金取ったりしないよ?」
「いやその、ありがたいんですけど今日はちょっと、明日なら」
「無星の君と、情報戦略部部長の俺と、そうそう予定が合うと思うわけ?」

入学時からなのかなんなのか、彼女のローファーは一歩歩くたび踵が少し浮いていた。ほんの少し観察すれば分かるようなことを本人が放置していたのは買い換える費用すらないということなんだろう。懇意にしている裁縫部の部員に情けをかけてやろうっていうのにやたらきっぱり固辞してくるもんだからちょっとムカついて、じりじり後退する彼女が一枚のタイルを踏んだところでつま先で二回床を叩く。

「えっひゃああああ!」

面白い声を上げて一瞬で宙吊りになった苗字はスカートを抑えることに必死らしく、太縄で括られた両足に僕が手をかけるまできゃあきゃあ騒いでいるだけだった。やっと眼前に僕が迫って来たことに気付いて「待って! やめて! 足臭いですよわたし!」とスカートのせいで文字通り手も足も出ないまま言葉だけで僕を止めようとする。やかましい。

「大丈夫だよほら俺襟巻きあるだろ。これで臭いわかんないから」
「嘘だあそれ鼻隠れてませんよ! あっやだちょっと、本当にやめっ……」

まどろっこしいので両足、一息に脱がせてやると。

────両足とも、靴下の親指部分に大穴が開いていた。




柄にもなく声を上げて大笑いしてしまった僕と、女子には恥ずかしいのだろう穴あき靴下、お互い恥ずかしいところを見られたとしてこれは二人だけの秘密になった。もちろん靴はちゃんとぴったりサイズのものをプレゼントしたし靴下も一週間分として五足を渡した。しばらく会うたび恨めしそうに僕を見つめていたが、咳をしていた時に常備していたマスクを、くしゃみをして勢いで鼻水が出てしまい、手で隠しながら右往左往していたところにポケットティッシュを渡してやると大いに喜んで大げさなまでに礼を言ってくるものだから、生理周期まで調べて薬を渡してやった。押し問答の末受け取って行ったが微妙な顔をしていた。
やがて僕はかつてのように、苗字名前の個人情報を調べ上げまとめることが日課になっていった。伊織に了承を貰って部活動中の呼び出しに応じさせ、適当な用事を言いつけて日々の会話と情報取得を図る。朝起きたら掛け布団がめくれていて寒かったと言えば体温を計らせ、お腹が痛くて辛いと言えば横にさせて腹を出させ触診の真似をしてみたりした。便秘とはこんなに分かりやすく指に伝わるのかと少し驚いた。
「なんでわたしばっかり使うんですか? なんか恥ずかしいですよ」と言えば、僕のところに来る名目を作るため、更に彼女を詳しく見るために健康診断という名前をつけて呼び出した。健康のためと言えば下着になるので頭弱いのかと心配なんかしてみたがそのほうが都合がいい。
「わたし部活あるんで、あんまり呼ばれるのはちょっと」と言われれば、伊織に彼女の情報戦略部への移籍を提案した。伊織は首を縦には振らなかった。

「苗字がどこに属するかは苗字が決めることだ」
「前から思っていたが伊織、君は苗字に甘い。好きだなんて言わないよな」
「驚いた。恋愛脳を常々馬鹿にしている犬牟田がそんな心配するなんて」
「俺じゃなくて君のことだよ」
「違う。信じなくてもいい。だが彼女が望まない勝手な移籍はしないよ。あの子の情報なら今のままでも十分に録れているはずだ」

足りないから言っているのに。伊織とこんなことで仲違いしても仕方ないので話は切り上げて、タワーにある空き教室に行けば今日も僕に呼び出された苗字がぼーっと突っ立って待っていた。

「今日からこっちの制服を着て生活しな」

盗聴器を襟の裏に仕込んだ制服を渡せば、苗字は何の疑いもなく今まで着ていた制服を僕に渡し新しいものを着て登校してきた。僕が苗字の家に全行動映せるようカメラを設置しても全く気付かず普通に生活していた。本名をネットに晒して生きてる馬鹿と一緒。見れるものだから見ていたい、知ることができるなら頭に入れておきたい。純粋な知識欲だ。生きている人間というリアルな対象の、重要なことからどうでもいいことまで全て把握したい。こんなことされて平気で生活している苗字が悪い。世の中にはこれを悪用して犯罪にまで巻き込まれることだってあるのに、僕一人の心の中に留めておくんだから僕は良心的だ。僕はまともだ。


「気持ち悪〜い」


────。

非常に不満で遺憾だが、蛇崩に言われて改めて自分を鑑みて気付いた。ああ、気持ち悪いな、僕。
僕のPCの中身に興味を示したことなんてないくせに、初めて覗き込まれたと気付いた時には遅かった。夜自宅で眠る苗字の動画はすぐに止めて皮肉を吐き出す蛇崩を適当な言葉で誤魔化して、胸の内の動乱も悟られないよう薄ら笑いで隠して席を立つ。四天王は同じ目的に向かう仲間であるが身内ではない。これは弱みでなく内面、脛じゃなくて内臓だ。誰かに話すことはしないほうがいい。

その日の予定は早めに切り上げ自室でデータの整理に耽った。そうだ、動画なんて容量の無駄。適時画像にして重要な部分だけ映像として残しておけばいい。画像も文章にしてひとまとめに、いらないものは削って探って、小さく見やすく。
これも昔の、ソシャゲ疲れのあとの大整理と同じだ。くだらないことで余計な時間をとってしまった。文書も重要なもの以外は削除して軽くする。「苗字名前 言葉」というメモを開く。彼女の言ったことで面白いと思ったものを記していた場所だ。「靴とか風邪とか心配してくれるって、先輩お母さんみたいですね」ここもほとんど不必要な情報しかないだろうから流し見してゴミ箱に入れる。「いや先輩も笑ったでしょ。ずるいですよその襟巻き、絶対笑ってたでしょさっき!」こんなどうでもいいことまで記録して何がしたいんだ僕は。消そう、大丈夫だ僕は皐月様と大いなる目的しか見ていない。ただの暇つぶしに忙殺されそうになる不覚を取っただけ、もうしない。「嫌いだったらこんなこと付き合いませんよ」もうしない。

「…………ハァー……」

訂正をキャンセルした。編集済みのものをゴミ箱に入れて、ゴミ箱から元データを取り出し元どおりに配置する。
本当、何がしたいんだ僕は。いっそ腹が立つ。

あまりにも腹が立ったので、もう知恵袋で聞いてやろうかとブラウザを開いた。掲示板でスレ立ててぶちまけてみるのもいいな。ハハ。クソスレマスター再見だ。ハハハ。
「僕は誰かの個人情報を調べてまとめることに昔ハマってたんですが、最近再熱してしまって同じ学校のある女子について色々集めてました。流石に気持ち悪いなと思ってやめることにしました。でも何から消せばいいか分かりません。データはある程度まとめているものといらないものに分けたんですけど残りもなんだか惜しくて捨てられません。せっかく集めたものなんだからという惜別があるんだと思います。どういう風に処理したらいいでしょうか」
敬語が気持ち悪くて適当な文に直してスレ立てして放り込んだ。別にレスがつかなくたってどうでもよかったけど、脳内を落ち着かせるためにしばらく天井を見上げてリロードしてみたら三つレスがある。別にお前らに期待なんてしてないが。
「いや全部消せよ」「好きな子ができたら即ストーキングは草」「(何かの広告だったので割愛)」

「は……?」

やっぱり当てにならん、ほんと何やってるんだ僕はと画面を見つめて、言葉が脳に染み込んできて、ようやく意味が理解できた。好き? 僕が? 誰を。ストーキング? 苗字を? 好きだから情報を集めていた?
おぞましいことに、その意見に僕の内層の七割が即座に納得してしまった。いや待て。分かりやすい結論に飛びついて安心したがるのは人間の性だし僕も人間なのだから逃れられないとは思うが待て。それはあまりにも安直すぎる。そもそもがネットストーカーの延長線で、昔やってた時だって相手が好きでやってた訳じゃない。ただ誰かの生活を完璧に把握している、支配欲の満たされる感覚が好きでやっていた。だから冷めたらさっさと整理して最低限だけ保管しておいた。じゃあ苗字のものが捨てられない今は、まだ冷めていない? でも自分がちょっと異常だったことは分かったし体裁のためにも消すのが一番だということも理解している。じゃあ何でまだ惜しい?

好きだから?

伊織の言葉が脳内で反芻される。恋愛脳を常々馬鹿にしている犬牟田が。馬鹿にしているつもりはない。人間の繁殖に必要な脳の錯覚、恋愛感情を持つから性交ができて愛情を持つから子孫を育てられる。好意を持たない相手と子作りしろと言われても当然無理なんだから種の存続に必要な機構であることは十分理解している。人間が人間として生きる以上、三大欲求に性欲が入ってくることも。しかしネットに触れると恋愛に酔って苦しんで泣く男女の多いこと。それがどこか自分に陶酔している風だから苛つく。他人のことに口は出していないつもりだが自分には縁遠いものだと安心していた。
しかしそういうことなら納得してしまう。僕の異常行動も「好き」によるもので、僕は苗字が好きだったからここまで詳細を集めていた? いやいや早計すぎるだろ。大体気持ち悪いんだよ男と女が関われば何でも恋だの愛だの言って、定義が広すぎるんだよどこからどこまでが「好き」に入るんだ? 手を繋ぎたいと思った時? 抱き合いたいと思った時? こいつとセックスがしたいと思った時? まずい。ああすごくまずいな、僕全部できるぞ苗字と。
いや。人間として嫌悪感を抱いてないってだけで、苗字だってやらなきゃ死ぬと言われれば僕とキスでもなんでもするだろう。それは「好き」のうちに入るか? ああ腹が立つ、こんなこともわからないでいたなんて。いやできるかできないかじゃなくて、したいかどうかだろう。まだ若い盛りの体とはいえ僕はパーソナルスペースが広い。割と潔癖の毛があるし風俗なんかは一生利用しないだろう。しかししなくては爆発すると言われれば渋々恋人ごっこでも何でもするさ。そうではなく、僕が、犬牟田宝火が、自発的に、彼女とくんずほぐれつしたいかってところだ。そんな事。

「したいに決まってる」




こうしてとてもとても嫌だけど恋心とかいうのを自覚して(隙あらばアラを探ってつついて否定してやるつもりではいる)一夜開けた次の日の放課後、今日の僕が何を言わずとも一昨日の僕が呼び出してしまった苗字はやはり律儀に僕の元へ来て、考え事をしている僕のPCを前日の蛇崩のようにそっと覗き込み、教室で弁当を食べる自分を見て「あっ」と声を上げた。

「先輩! 勝手に撮るのはやめてくださいって」

言ってみたらどうなるだろう。僕は君のことが好きみたいなんだけど。言ってどうする、いよいよ呼び出しに応じてくれなくなるぞ。その反応次第でこの忌々しい心象も萎えて消えてくれないものだろうか。というかこいつも危機感がなさすぎると思う。四天王とはいえ同年代の男にパンツ寄越せだの下着になれだの言われて素直に従うか?

「本物のわたしがいるのに画面なんか見てどうするんですか」

──これが。
物凄い告白だ、と思った。あまりのことに恥ずかしながら息すら止まった。
確信した。苗字は僕のことが好きだ。でなければこんなことは言わない。でなければ毎度の呼び出しに素直にやって来ない。

苗字も恋を患っているのだと思うと胸が軽くなった。改めて彼女に振り回されているのだと知る。いや実際振り回しているのは僕のほうなんだけれども。なるほどなるほど、と内心ニヤケていた僕はやっぱり単なる人間で、安易な結論に尻尾を振って飛びつく、猿の進化系なのだった。
苗字が未だに無星なのは。友人だという劣等生の、放校並みの失態を半分肩代わりしたからだということはその時既に知っていた。が、そこまでのお人好しを全方位に振りまいているとは、想像がつかなかった。

「付き合ってませんよ!?」

僕の家で恋人関係を力一杯否定してくれた苗字は、今日も律儀に僕の元へ来て雑事をこなしている。態度では受け入れて余裕を見せたものの、内心激しく動揺していた(認めたくないが)僕は、何か変化があればとベッドを共にすることを強行した。とはいえ激しく抵抗してきた彼女が腕に収めた途端大人しくなり、その数分後には寝入るなんて予想してなかったから結局何もできなかったけれど。何もしないよとは言ったし性急に事を進めては心まで手に入らない。僕は苗字名前の生活、習慣だけでなく、その内情に到るまで全てを知りたい。僕に恋をして欲しい。はっきりと自覚してしまっては逃げられない。そして苗字も、逃がしてやることはできない。

「もう先輩の家には絶対行きませんから……」
「分かってるよ」

君のことならそこそこ知ってる。目一杯警戒している相手に優しくされると混乱する。押しに弱いし焦ると思考が鈍る。食の好みが子供っぽい。軽い気持ちで意見を求められても真摯に答えようとする。最近お気に入りの靴下は貝殻のワンポイントがあるもの。買ったけど使わないからと僕があげたヘッドホンをまだ箱から出さず飾っている。腕力は人並みなのに変なところで肝が座っている。スラム暮らしで生活は苦しいはずなのに金で動かない。その代わり情にもろく会って間もない相手でも同情を引くそぶりをされると放っておけない。

「分かってる」

彼女が僕に恋をするのが先か、僕の知識欲が満たされて苗字への興味を失うのが先か。
自分で言うのもなんだけど悪い物件ではないと思う。僕の気が変わらないうちに捕まえておいたほうがいいんじゃないか。

「うわっ無言で触らないでくださいびっくりした!」
「寝癖を直してやってるんだ、じっとして」
「いや、もう、いいですから……。……ありがとうございます」

どうせ結果は変わらないんだから。
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