短編 | ナノ
真選組屯所内、廊下は走るなの習字紙前を全力疾走で通り抜ける男女が一組。
縁側の角を靴下の滑りを活かして速度を落とさず曲がりきり逃げているのが女、それを周囲の人間を足場にしながら追っているのが男。

「いい加減諦めてくださーい! 隊長とは絶対やりませんからー!」
「いい加減諦めろィ、別に段階すっ飛ばして俺の女になってもいいぞー」
「嫌でーす!!」

他の隊士達はまたか、いつものかと巻き込まれないよう道をあける。庭に出る者もいる。真選組一番隊の隊員とその隊長がここまで盛り上がってしまっては自分たちには止められない、副長か局長を待つしかない。

「つあァァアアアア!!」

ついに足をかけられた女側、名前が勢い良く吹き飛び池に頭から放り込まれる。地面じゃなかっただけ幸運だったと言うべきか、浅い水たまりに顔から突っ込んでも直ぐに切り返し体制を立て直せる人間なのだから平地の方が濡れずにすんだと考えるところか。

「ちょっとォォびっしょびしょなんですけど!? あ、鯉、鯉でちゃってる……」
「丁度いいや、着替え取りに行くついでに獲物持って来い。道場行くぞ」
「行きませんてば。おーい誰かァ沖田隊長が手合わせの相手をご所望ですよ! 天才の剣筋その目で確かめられるチャンスですよー!」

もしくは土方さんか近藤さん呼んできてー!
叫びながら名前が飛び込んだ際の水しぶきで池から追い出され、虚しく跳ねていた鯉を池に戻している間も隊士達は呆れ顔だった。
笑いながら木刀を手渡すもの、やれやれとはやし立てるものまで出てくる始末。じりじりと距離を詰めてくる沖田に「薄情者ども!」と言い捨てて再び逃げ出す名前と予見していたかのように正確な追走劇を再開した沖田を、隊士達は好奇の目で見るのみである。

あの騒動が収まってからもう長いこと経ったが、苗字名前が真選組に入隊した時は大騒ぎだった。
柄の悪いチンピラ警察、血にまみれた人斬り集団、その中に隊服に着られている少女が入隊すると知らされた時は動揺、興奮、嫌悪が隊士を取り巻いた。命を懸けて幕府を守る仕事、女がやれることじゃない。自分のことを腕が立つと勘違いしているのなら即刻去れ、そうでなくても女人禁制の真選組。見合うものがなければここに貴様の価値はない。
下卑た目、反感の眼差し、苛立ちの暴言、全てをぶつけられて名前は言った。
ではどなたか、わたしと一戦交えてください。負けたら剣の練習台にでもなんにでもなります。
腕に自信のある隊士達と何週間もかけて立ち会い、その全てに名前は勝った。残るは真選組局長である近藤、副長の土方、各隊の隊長と「こりゃ敵わん」と判断した隊士達のみになった時、立候補したのは沖田だった。

そして、名前は沖田に負けた。

「いやー助かりました、ありがとうございます副長」
「次騒ぎやがったら始末書だ」
「わたしのせいじゃないのに!? 悪いのは沖田さんじゃないですか!?」

フォローの土方に拾われて匿われた一室、お礼にと茶を一服点てている名前の真向かいでふうと煙草の煙を吹く。
荒くれ揃いの真選組で茶道を嗜んでいるというだけでも驚きだが、守っているのは正座であることと茶を点てるということだけ。抹茶を目分量で椀に入れ、湯をこれまた適当に注いで茶筅で素早く混ぜる。受ける側の土方に至っては胡座をかいて正座すらしていないが、この茶がまた美味い。

「えへへ、安いお茶ですけどね。やっぱニコチンで舌やられてると味もわかんなくなるんですね?」
「総悟ォー! おい総悟来い!!」
「違いますっ照れ隠しですごめんなさい! 土方さんこんなことばっかり褒めてくれるから!」
「他に褒めるところがあるか。毎日毎日ドタバタドタバタ、ここは幼稚園じゃねェんだぞ」
「だからそれは沖田さんのせいなんですって。なんで飽きずに追いかけてきますかね。最近すごいんですよ全然諦めてくれなくて」
「テメェのせいだろ」
「わたしの」

何で自分のせいになるんだと訴える瞳に煙を吹きかける。少女らしく咳き込む名前に、剣で負けたらそいつの好きにされると言っただろうと教えてやると、声をあげて手を叩いた。

沖田に負けた後、名前はその場に伏して懇願した。
参りました。この身は好きにしていただいて構いませんがその前に、もしお情けをくださるのならば。女ではならぬというなら胸を削ぎます、この腹を裂いて子宮を抜きます。どうかここに置いてください。志の邪魔になると思えば切り捨ててください。敵陣への囮に単身使われても本望です。どうか死ぬまで、この命真選組のため使ってください。
そして沖田は答えた。
お前、生理だろ。

「あんなの無効だって沖田さんも言ってたじゃないですか」

女性の生理現象、運悪く沖田との対戦にぶつかってしまった月のもの。しかしそれを理由に先延ばしにすれば女だからとまた反感を買う。
顔を上げた名前は震えていた。剣で負けるよりも、土下座をするよりも、相手の男にそんな不調を見抜かれたことが恥ずかしくてひたすら黙り込み頬を紅潮させたままだった。
とにかくこの場は保留、この戦いは無効。またそのうちということにしてその場は解散となりそのまま名前は真選組の隊士になった。そもそも我こそはと立ちはだかってきた隊士達に勝っているのだから戦力としては申し分ない。
近藤にも土方にも予想外だったのは、名前に惚れたと言い出した数名隊士が次々と決闘を申し込んだこと。男所帯のなか剣を振るうようには見えない女が一人生活していれば好意を持つのも分からなくはない(はたしてそれが純愛か、女と接点のない男の下半身脳かは置いておいて)。なぜ好いた女と剣を交わすのか。名前が初めて好意を伝えられた時に、公衆の面前で言ったからだ。
──では手合わせを! わたしより弱い人とはお付き合いできません!

「そっちか」
「余計なこと言った自分を恨めよ」
「だってどう断ったらいいかわからなかったんですよ」

普通にごめんなさいでいいだろうが。
言いたいところを飲み込む。しおらしく女になりきることも彼女には難しかったのだろう。力で競って言うことを聞かせるやり方は真選組に合っている。しっかり世間ずれしているくせにそんなところばかり少女であるところに男が食いつくのも分かる。女日照りの野郎共の相手なぞいちいちしてられないことも。

「じゃ、なんで逃げる」
「負けるからに決まってます。真選組イチのバケモノじゃないですか、体調が万全でも負けますよ」
「撤回すりゃいいだろが」
「そんな情けないことできません」

彼らのそれは女と関わりがないから故の「だれでもいい」精神だということを名前は察していた。
まぁ好きだと言われて嬉しくないはずがない。ないが、あからさますぎる。なまっちょろい小娘だと思われたままなのは癪に障るので勝てば好きにしろという条件で叩きのめした男達を思い出す。舐められたままじゃ終われないという反骨精神は若さゆえか生来か、どちらにせよ真選組という環境では好ましい。実力を伴っているし上司は敬う。
とはいえそんなことは昔の話、名前が入隊してから季節がふた巡りはしている。当時沖田は目もくれなかった騒ぎ、何故それを今更掘り起こして乗りだすのかわからず彼女は少しずつ消耗してきていた。悩んでいるのは真面目に悩んでいるのだろう。
煙草の火が落ちる。茶碗の中身もなくなった。お粗末さまでした、と椀を下げる名前の背中は無遠慮で無防備だ。

「誰かのモンになっちまえばいい」
「嫌ですよ。実はわたしって理想高いんです。かっこよくてイケメンで男前な人じゃないと」
「要するに顔じゃねーか! 逆に低いだろ理想!」

部屋の隅に立ててある木刀を掴んで投げる。おっと、と片手で受け取った名前を尻目に、自分も獲物を手にして襖を開けた。

「勝てりゃ誰でもいいってこった」
「は?」
「道場だ、全員集めてやるぞ」
「ちょ、ちょちょっと待ってください土方さん。やりませんよわたし」
「なんで」
「負けるからです!」
「ふっざけんな卑怯だろ! 申し込まれたからには受けて立つのが武士ってモンじゃねーのか!」
「勝てる見込みがない相手とやるのはブシじゃなくバカといいます! あーっとあらゆる用という用を唐突に思い出した、外回りいってきまーす!!」

土方とは反対側の襖を蹴り破るように飛び出し、木刀を投げ捨て犬のような健脚で駆ける名前の袖を、すんでのところで掴み損ねた。土方は鼻で息をつく。
あんな顔をするから追いかけ回されるのだ。




「冗談キツイよホントに」
「モテモテじゃねーか、今のうちによさげなの掴んどけヨ」
「でもわたし職場恋愛って気まずそうで苦手かも」
「わがまま言ってんじゃないアル。若さで釣れるのなんか今のうちヨ、後で焦っても知らねーからな」
「神楽ちゃん子供なのになんでそんな渋いことばっか知ってるの?」

息を切らせて屯所から逃げてきた名前が自動販売機の前まできた時、万事屋銀ちゃんの紅一点、夜兎族の神楽も同じように飲み物を買おうとしている所だった。どちらからともなくベンチに座りとりとめもない話をしだす。
一番隊として沖田に付き従っていれば万事屋との関わりもできる。沖田と事ある事に敵対関係になる神楽と沖田に苦労させられている名前は同じ敵を持つ者同士、そして女同士ウマが合う。

「でもそうネ。男見つければいいアルよ」
「そういうのって見つけようと思って見つかるもんじゃないんじゃ……」
「別にブスってわけじゃないしキャバ行けば一発ヨ」
「違うよねそれは!? なんていうか一夜の関係だよね! ずっと一緒にいられる人がいいんだけど!」

ため息をつこうと息を吸えばあくびがでてくる。伸びをするため背もたれに寄りかかれば柔らかな日差しが木の葉の影から差し込んできて心地が良い。
日傘をさす横顔を見やれば白く若くつややかで、名前の奢りの缶ジュースと好物の酢昆布を交互に口に含む様は年相応で可愛らしい。

「神楽ちゃんはさ、そういう人いないの?」
「ごまんといるアル。毎日違う男とっかえひっかえヨ」
「アレーッ冗談でも聞きたくなかった! お母さん認めませんよどこの馬の骨!?」
「ウン、冗談。全部断ってるアル」
「やっ……!」

断っているのも嘘だ。神楽をひと目見て興味を持つ男は数多く居ても、その破天荒な性格と冗談みたいな能力、誰に似たのかオッサンみたいな言動をするところに百年の恋も冷める男も同じ数いる。告白とかされたことない。嘘を言っている。
しかし名前は気付かない、気付けない。神楽の性格すら愛らしいと本気で思っている名前は信じた。
やっぱモテるの神楽ちゃん? わかる、喋らなければ完璧にかわいいし、わかる。
ガワで寄ってきた男を可愛らしい内面で落とす。本気で思っている。名前の目に神楽は愛らしく映っているし、事実蝿の一匹寄り付かないほど腐れているわけではないのにそれを知る人間が極端に少ないことも分かっていないのだから。
しばらく余裕気な横顔を見つめ、側に立てていた刀を掴んで鞘の先で地面にずりずりと文字を書きながらなんどか口を開いては閉じ、名前は先程よりずっと小さい声で聞いた。

「……沖田隊長とかは?」
「あのクソサドを私と同じステージに立てないで欲しいネ。ミミズとでも見合ってるのがお似合いアル」
「ほんとに? 神楽ちゃんなんだかんだ隊長と仲良いし、その……」
「あれが仲良しだったら世の中戦争なんて起きないヨ。お前まで目ェ腐ったアルか」
「ち、違くて。神楽ちゃん強くて、隊長も信頼してるみたいだしやっぱ、ないのかなーってね、思っただけ」
「オイ、まさか」

はっと振り向いた神楽にぎくりと身体をこわばらせる。刀を両腕で抱えて仰け反ると、その分ずいと身を乗り出す青い瞳にそのまま倒れ込みそうになった。

「あれがいいアルか」

心底信じられないという表情、わななく声、ますます白む頬に慌てて首を振る。

「違う違う! い、いちおうわたしの上司だからねー環境変わっちゃうかなと思って!」
「ありえねーヨ趣味が悪いとかもうそういう次元じゃない、自殺アル」
「そこまで!? いやでもほら、中身はあれだけどほら、顔とか……よくない?」
「よくないネ、顔にも滲み出てるヨあの性悪が」
「脚長いし! 髪の毛もサラサラで、頭まん丸でかわいいよ」
「え? 何これ惚気られてる? うわーぶっ飛ばそうかな、ぶっ飛ばしとこうかなコイツ」
「そうじゃなくて客観的に見た時! いいところもいっぱい、あるなーって」

今度こそため息をつく。何故こんなことを言ってしまうのかわからないほど子供じゃない。彼のそばについてもう何年か経つ。最初はさすが一番隊隊長、極悪非道の真選組最強の部隊、歪んでるなんてモンじゃないとは思っていたが、見ているうちにここまで絆されるとは。

「ほォー。じゃそろそろ照れ隠しはしまいにして捕まっとけや」
「はぐっ!」

頭の後ろで指を組んで空を眺めていた視界に手が伸びる。反応する間もなく前髪を遠慮のない力で掴まれ暴れ出すと同時に、神楽が流石の速さで身体ごと振り返り暴漢に蹴りを叩き込む──つもりだったのだろう一撃が名前の腕の横に突き刺さった。粉々に砕けるベンチ、崩れ落ちる自分の体。

「た、隊長!」
「そんないじらしいトコ見して手ェ緩めさそうったってそーはいかねェ。腹いっぱい負かしてやるからけーるぞ」
「はぁ! 今の聞いてたんですか、趣味悪っ!」
「聞いてたんじゃねェ、聞こえたんでィ」

前髪の痛みなど忘れて頬をおさえる名前と沖田を白けた目で見ていた神楽が傘を下ろす。照れながらも自分と神楽なら沖田から逃げられると算段していた名前は慌てて去ろうとする神楽を止めるが、やはり半目で見られるあたりその脳内は容易く想像できる。バカの痴話喧嘩に付き合っている暇はない、だ。

「ち違うんだってばぁ! わたしはそうじゃないけど女から見てそうなんだろうなあと思っただけで別に沖田さんのことなんか全然なんとも思ってないから!」
「イヤ、もういいアル。そういうのいいから」
「そういうのって何!?」

必死でしがみついて逃がすまいとする努力も虚しく、力で勝てない腕が引き剥がされ、さらに後ろから肩を叩かれていよいよ冷や汗が吹き出てくる。

「……あの、あの。沖田隊長」
「なんとも思ってなくともボコボコにしちまやァこっちのモンよ」
「わたし今日二日目なんです」
「俺が勝ちゃその胎も俺ンだ、気にすんな」

咄嗟の嘘も関係ない。どこに気にしなくていい要素があるのか。何度も見たことがある悪い顔を数段深くした笑みを正面から受けるといかんともしがたい気分になる。これ、諦めた方がまだましなんじゃないか。せめて降参したらそれを受け入れてもらえるくらいにはなるんじゃないか。

「沖田さん!」

しかしそうもいかない。力で負けました、では貴方の女になります、というのは、他の男ならまだしも沖田は嫌だと心臓が言っている。ほかにもなにか細かなことをぐちゃぐちゃ呟いているがそれはいい、とにかく今、彼のものにされてはいけない。そもそも色っぽい展開にはならないだろう、このサディストの欲を満たすためM奴隷にされるだけだ。
掴まれた肩はそのままに沖田に抱きつく。もしかしたら失敗するかとも思ったが手が緩んでくれた、その隙をついて胸を力一杯押し、刀を掴んで走り出す。笑い声のような息が聞こえた。ああ、いる。すぐ後ろを追いかけてきている!

「勘っ弁してつかぁさい! 嫌だーっわたしの命は変態SMプレイじゃなくて近藤さんのために戦場で散らすんだーっ!」
「分かんねーぞもしかしたら自分からお願いしちゃうようになるかもしんねーぞ、試してみっか」
「死んでも嫌だー!!」

さっき別れた(一方的に別れられた)神楽の背中を秒で追い越し、公園のランニングコースから人の多い露店道に出る。こんなところで暴れたら始末書ものだ、あの沖田でも無茶はしないだろう。

「とか思ったか。甘ェんでィ」
「ほぎゃー!!」

足音が消えて油断した。隊服の首根っこを掴まれ無理くり引き寄せられる。確かに真剣を抜いたりはしていない、していないが。
いよいよ潮時か、いや屯所に戻るまでになんとか抜け出せないかとどう動くか考えを巡らせ始めたその時、沖田の上着ポケットから着信音が鳴る。
もがく名前の首を片腕で抱え、自分と名前の頭で携帯を挟むように受信ボタンを押した。

「総悟。苗字もいるな」
「土方さんいいところに。これから戻ってコイツ負かすんで人数集められるだけ集めて下せェ」
「土方さん助けてー! 乱暴されてます! 直接的に物理的に例え話じゃなく乱暴されてまーす!」
「今どこにいる」

普段通りの声に僅かな緊迫を感じ名前が止まる。

「一週間前朝礼で話した奴らだ。妙に静かだとは思っていたがこうなるとは」
「そんな前に話されたことなんて覚えてるわけねーでしょ」
「いや覚えてろよ何のために時間割いたと思ってんだ」
「で、わたしたちはどうすれば」
「先に向かって様子を見ろ。他の隊もすぐ揃う」

一週間前。宇宙から持ち込まれた違法薬物に関わる天人と浪人の集まりのことだろう。決定的瞬間を待つために牽制はしつつ泳がせていたが。
沖田と名前、二人の体が走りゆく人々に押されふらつく。助けを求める声が遠くから空気を切り裂く。

「無理そうでさァ」

距離をとる。刀を振っても相打ちせず、この道から先へは行かせないよう互いに陣地を決める。目も交わさず抜いた鞘を放り携帯を閉じた。

「見つかった」






気が付くと見知らぬ天井があった。見知らぬとは言い過ぎた、何度かお世話になったありがたい浄の真白だ。
首を動かすために腹に力を込めるが痛くて呻くだけに終わる。何も思い出せないがまあ分かる。下手をこいた。

「どうだった三途の川は」

眼球だけ動かして声の主を探す。低い聞きなれた声だ、見なくとも土方だとわかるがなにか胸騒ぎがした。

「……沖田隊長ですか? ボコボコとかってレベルじゃないでしょコレ……」
「同士討ちじゃねぇことはテメェで分かるだろ。ドタマに風穴あいてんだ、しばらく不自由すると思え」

会話が噛み合っていないと先に気付いたのは名前だった。テレビを見ていたらいつのまにか寝ていた次の朝よりも眠る前の記憶が曖昧だ。昨日は、いつものように沖田に追われて捕まったんじゃなかっただろうか。

「大本命は総悟が斬ったが残党は総取りした。重傷者は出たが死人はない」

頭のざわつきが収まらない。沖田。捕まったあと例の薬の奴らが動き、近くにいた名前達が刀を抜き──

「あァァァァアアア!! いっでえええー!!」
「急に大声出すンじゃねぇ、開くぞ」
「開いた! 景気よくパーンとあいたっ痛いっ土方さん助けて」

黙ってナースコールを探す上司をやっぱ待ってと止め、動かない体をくねらせ腹を押さえて必死の形相で息を吸う。

「沖田隊長は」

いつもの癖か、煙草の煙を吹くようにため息をついた土方が浮いた腰をベッド側の見舞い客用椅子にまた落ち着かせた。

「お前の数倍元気だ」
「隊士は、民間人は」
「言っただろうが。死人はなし、死にかけた奴はいるがな」

名前の呼吸が穏やかになる。音もなく土方が苦い顔になった。自分が今どうなっているのか、五体満足かどの程度の怪我なのかを確認する前に他人の心配をするあたり、心底間抜けな女だ。

「ってて……まあでもちょっと休みをもらうようなもんですね。むしろラッキーかも」
「ほざけ。必要なことは吐いてもらうし必要なものは書いてもらうぞ」
「アラーそれわたし苦手なやつかも! 活躍に免じて沖田さんに全部やってもらえませんか!」
「何が活躍だ、何人かやっただけでぶっ倒れやがって。その後大体を潰したのは総悟だぞ」
「やっぱり足でまとったかぁ……」

アー、と情けない声をあげる彼女を見れば逃げるように顔を逸らされる。右脇腹を太刀が貫通、右肩に小刀が刺さり背中にひと薙ぎ受けあばら骨が一本折れ頭部を強打、さらに無数の切り傷。まさに瀬戸際、現場に着いた土方が名前を見た時にはもう死んでいるものだと思ったほどだった。目を覚ませば予想よりピンピンしているものだと驚いたが。

「お前ェ、総悟を庇ったらしいな」
「は」
「一撃もらったあと滅多打ちにされたそうだ。やっぱ覚えてねぇみたいだな」

すべてを見ていたは沖田のみ、その沖田と捕縛した浪士に聞いた情報を照らし合わせたのだから間違いはない。しかしこの表情を見る限り本当に記憶にないらしい。
駆け寄る土方達にうわごとのように「助けて」と呟く名前へ声をかけた。今来た、気張れ。死の間際だ、せめてと手をさしのべればくずおれそうな手つきで振り払われた。
沖田隊長を、助けて。
自分はいいから、今孤軍奮闘している沖田を援護しろと言ったあと動かなくなった。

「言って……たんですかぁ……」
「くたばる前に呼ぶ名前がてめぇの天敵か」
「わたしの隊長ですよ」

んふ、んふふ。何が可笑しいのか鼻で笑っていた声が大きくなる。なにかの皮肉かと思いきやその顔は晴れやかだ。色は青白く腕には点滴が刺さっているが。

「なんかわかっちゃいました。わたし、沖田さんが嫌なんじゃないみたいです」
「ほぉ」
「心に決めた人とは拳じゃなくて、言葉を交わしてそばにいたいじゃないですか」

たぶんそういうことです!
お断りの手段だったものを逆に利用され迫られた時に思わず逃げ出したその心境。恐らく沖田は面白がっているだけだとどこかで分かっていて遊ばれるのは違うと意地になって走っていた時の気持ち。
遠回しな告白であること、聞かされた土方が目を細めて意識をよそに飛ばしていることに気付いているのかいないのか。

「……で? どうすんだそれは」
「叶わなくても楽しいもんですよ。それにほら言いませんか、恋する乙女は無敵って」
「今死にかけて寝込んでるけど」
「だって今わかったんですもん」

唇をむずむず動かして痒そうに笑う様は、確かに恋する乙女であるのだろう。悩みから解放してやろうという思いつきとはいえ、つい先日自分をものにしようとした男に他の男の話をする顔がそれか。

「でも沖田さんから逃げる方法がもう思いつかないんですよ。昨日捕まったし」
「昨日じゃねェ。四日前だ」
「あれ、そんなに経ってたんですか」
「寝こけてたテメーと違って元気に入院してたんでねィ、おかげで暇に殺されちまうトコだ」
「暇に」

名前の言葉と呼吸、次いで心臓が止まりかける。布の仕切りがあるということは大部屋なのだろうが真選組の隊士が泊まる部屋だ、関係者専用みたいなものだと踏んでいたら人がいた。仕切りの向こう側だ。一瞬止まるなら理由としては十分だが、見ている土方が笑えてくるほど石になったのはおそらく。

「で。どう逃げるって?」

布が引かれる。名前が着ているのと同じ病院着の沖田総悟が悪鬼のような笑顔を見せた。

「ちょ!! ちょっとダメじゃないですか男女同室は! 乱れがありますよこの病院取り締まるべきでは!?」
「いや……いいんじゃねェかそういうことなわけだし」
「よくない! でもいまさら言ってもしょうがないのでこれから別室を要求します! あと三年くらい有給使って修行してきますから探さないでください」
「いやぁ良かったですよ、病人しばき回すのは躊躇いますしねェ」

もうこいつ一人の体じゃねーわけですし、と名前のベッドに悠々と腰掛けてのたまう。ここが二階以上だったとしても窓を突き破り出ていきたいという思いはもちろんあるが、今話していて分かった。重傷だ。心の中で反論するだけにしよう。わたし一人の体です。

「目も覚めたし俺ァ帰る」
「えっ。土方さん、土方さん待って! この状況わかってます? とどめ刺されますよわたし!」
「てめえらの問題だろ。まあ……死ぬなよ」

必死の静止も虚しく、隊服でなく着流しを着た男前が去っていく。のこるは毛皮すべてを剥がれた食用の子羊と、その手足を縛り上げどう料理するか心底楽しげに悩む天使の如き甘い顔。

「心配すんなィ、喚かにゃ綺麗なまま死なせてやらァ」
「今死なせるって言ったよね! ちょっ……なんでそんな近っ……やめろ! バカ隊長!!」

名前の枕横に手をつき、真選組の局長をもって男前と言わせる花のかんばせを寄せれば、動かない両腕を持ち上げ耳を掴んで引き離そうとする。本当に嫌がる素振りを見せる気があるのかないのか判断しかねる力加減は惚れた弱みであるのだろうか。
やがて「ア゛ー!! 今度こそほんとに開いた助けて死ぬウゥゥゥ!! 看護師さーん!!」と土方にも聞こえる声で絶叫したから、まあ、怪我のせいだろう。そこまで大声を出せるなら死なんだろうと入口近くの受付を通った土方が足を止める。

「近藤さん、苗字か」
「ああ。トシも来てたのか」

局長の近藤勲。名前の様態が安定したと聞いた時は他の隊士の前だからか黙ったままであった彼が顔に似合わぬ花束を抱えて病院に来るあたり、隠れきらない情の深さが見える。
しかし立派な花束だ。それ自体は彼の愛する女性に送るため(想いが遂げられているかは別として)手にしている姿は見かけるが、それと同等かそれ以上に華やかで目で追ってしまう。

「今はやめた方がいい。巻き込まれたくなきゃ……」
「トシ」

見舞いに来た、生きててめでたい、だけではない声音に呆れ混じりの言葉を止める。近藤の顔は真剣そのものだ。

「ご祝儀って、いくらがいいかな」

だから彼は真剣なのだろう、本気なのだろう。

「式とか、俺達が催促しない方がいいかな」
「近藤さん」
「真選組に産休とかないけどお上にかけあった方がいいよな」
「近藤さん」

名前は近藤の拾いものだ。真選組も近藤を中心に集まっているのだから父親気分になるのも理解出来る。だが気が早すぎるだろう、その花そういうことか。

「俺達だけで盛り上がっちゃあいつらもやりづらいだろう、今日はこれだけにしておく」
「これだけって量じゃねーな」
「トシはもう帰るのか、どうだった」
「あー……ちょうど起きたトコで、総悟と喋ってた。邪魔してやるなよ」
「なに! わかった!」

積もる話もあるだろう、これからのこととかな! じゃあちょっと顔出してすぐ帰るわ!
知ってはいたが、男女の話となると飛躍しすぎるのはこの男の悪癖だろう。悪意はない上誠実だから生暖かく見守れることだけが救いだ。
意気揚々と階段をのぼって行く上司を黙って見送る。後は野となれ山となれ、これ以上やれることはないしやる気もない。

「お大事に」




「おうおうこんだけかヨ、誠意が足りねーんじゃねーか誠意がァァ〜」
「いや、まっこと申し訳ない……分割でどうか……」

いつか並んで話した公園のベンチ。修理されたか新しいものが配置されたかで元通りになった憩いの場所にいつかのように腰掛けて話す。
いや、話しているのだろうか。中華服の少女は大股を開きやたらと偉そうにしているし、真選組の隊服の袖から包帯を巻いた腕を見せる少女はスーパーのビニール袋に入った大量の酢昆布を献上物の如く掲げてへりくだっていた。カツアゲしている側とされている側だと思った周囲が避けて通るものだからその異様さが際立っている。

「おまえ一回疑ったアル! 私が助けてやったっつったのに薄情者!」
「ごめんごめんごめんなさい! だって隊長に追いかけられてた時は見捨てたじゃん!」
「ふん、神楽様の寛大さに感謝しとけヨ」

自業自得ではある。
真選組の到着前に名前のため救急車を呼んだのは自分だと言う神楽を疑ったためにこうなっているのだから。
しかし、関係ないからと立ち去ってしまえばいい騒ぎに自ら首を突っ込んでしまうあたり彼女も人が良い。それが血濡れの自分を見たからだとわかっているから名前もこうまで機嫌をとる。

「ホント覚えてなくて。沖田隊長は奥にいたんでしょ? 戦いぶりどうだった?」

退院してからというもの隊士たちがやたらと馴れ馴れしい。元から無遠慮な野郎共ではあったがなんと言うか、「俺達わかってるから」と言うかのような優しげな顔が腹立つ。そのくせ何かと問うとからかいながら走り去られる。沖田の剣に惚れている身としてはその活躍を伝聞でいいから知りたかったのにそれもならず。
屯所に戻るのもかぶき町をふらつくのも面倒で、このまま座っていられる理由を作るための世間話であったが、神楽が大きな目をさらに大きくしているものだから失言かと口を閉じた。沖田と彼女は仲が良く見えるほど仲が悪い。

「なんにも覚えてないアルか」
「うん。でも大体は聞いてるよ」
「聞いてないことあるネ、なんだヨ誰も教えてくれてねーのかヨ」
「なにが?」

病院での耐え難い恥を思い出す。これもしかして聞かない方がいいやつだろうか。最後の力を振り絞ってまたおかしなことを言ったんじゃなかろうな。

「あいつ、名前のこと守りながら戦ってたアル」

声も上げず地面に転がるボロ雑巾を背に、浪士を取り締まるためでなく大将を討ち取るためでもなく、これ以上の追撃をさせないために。
駆け付けた神楽にすら敵意を見せるほど全身を張り詰めさせた沖田の顔は見えず、ただ言葉のみ。

──そいつを死なせたら殺す。

「せっかく来てやったってのに失礼な奴ヨ、まあ医者には言っといたけどな」
「検診に来た先生がやたら怯えてたのそのせいか!」

助けてくれた(見返りは求めていたかもしれないが)民間人と命を守るため尽力してくれた病院関係者になんと恐ろしいことを。神楽の要求も頷ける、今度担当の先生にもお礼のはがきを送ろう。
やってくれたなバカ隊長、と叫ばなかったのはそれ以上の動揺が胸の内で暴れたからだ。生きてて良かったな考え無しノータリン、死に場所近所にするなら俺のいない時にしな、だとかなんとか。相変わらずで逆に安心するようなことしか言わなかったのに。
酢昆布の箱を開け贅沢に中身全部を口に入れた神楽が名前の変化を悟りにんまり笑う。横に広がる唇からはみ出た酢昆布が鬼の牙のようだ。

「良かったな、人生の墓場が見えて」
「……冗談じゃない、冗談じゃないよ……」
「冗談じゃねーだろーヨあの顔!」
「うわーっやめてー! なんでわたしがこんな気持ちにならなきゃいけないんだー!!」

ああ、口元が曲がる、曲がってはいけない方向にいきたがる。両腕で頭を抱えて膝のあいだに埋まるがそれでもおさまらない。なんだこのむず痒さは。泣き出したくなるような暴れだしたくなるような、行き過ぎた喜びは!

「違う、あれ面白がってるだけなんだよ絶対、ここでわたしが本気で嬉しがろうもんなら一番痛いところ突かれて死ぬんだ……」
「もう突かれてるし死にかけたアル」
「物理でじゃなくてね! いや物理でもだけど!」

致命的すぎる。相手の弱い所を責め抜いて喜ぶサディストに心奪われてしまったこと、それが組織内に晒されてしまったこと、分かっていて一喜一憂してしまうこの気持ちの簡単さ。
前途が見えないほど多難であるが、これだけはと心に決めてある。おもちゃにされている限りは絶対にあの男のものになどならない。沖田総悟が自分と同じ病に侵され胸のつかえにあえぐまで、意地でもそんな素振りを見せてなるものか。
実際はとっくのとうに沖田も同病仲間なのだが受ける相手がこれではどうなるやら、神楽が生まれて初めて沖田に同情したことなど知るよしもない台風の目は、いらぬ意気込みを叫ぶのだった。
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