>>2020/08/31

隣に座るくらいなら許可はいらない。だって二人は交際しているのだから。
手を握るのも、すこし躊躇われたが拒まれなかった。他人に見られるのが嫌なのかと聞いたらそうだと返されたのでその気持ちを汲んで二人きりの時だけにした。

「できない」

キスはできない。名前の初めてと言ってもいい反抗に浅野学秀は微笑んだ。肯定ではなく否定するために。

「どうしてかな」
「……ごめん」
「謝ることないさ。これは君のためだ、苗字さん。僕たちは十年後には結婚しているんだ。海を超えたら挨拶みたいなものだよ」
「ここは日本だよ」
「将来は世界を飛び回ることになる。もちろん、妻である君にも同行してもらう。パーティに配偶者を連れていかないわけには」
「その、結婚とか、それも、できない」

今までになく強い拒絶に少し驚いた。中学二年生も終わるこの時期になって、婚姻の言葉が現実味を帯びてきたとでもいうのだろうか。学秀は名前を見つめて口元だけで薄く笑顔を作った。敵対的な表情ではない。なのに名前は打って変わって怯えたように落ち着きをなくし、口を開き浅く息を吸い込むだけで言葉を出さなくなる。
正解だった、と学秀は自身の判断に満足した。椚ヶ丘中学校に入学した時から決まっていた事とはいえ、もう完成した人格を持っていた学秀と違って「子ども」である彼女の将来が既に決まっているなんて、親に言われたからとはいえ本人の意思は簡単には動かせない。
だから矯正する。これから死ぬまでやり続けることになるであろう夫婦としての行為に抵抗をさせない。人間なんて簡単なもので、その行動を生活に組み込んでしまえば慣れが後からついてくる。例え今名前の心がこちらを向いていなくても、結婚なんてしたくないと若さゆえの諦めの悪さを見せても。
自分には浅野学秀しかないのだと学ばせる。

「うん、わかった」
「え……?」
「君の気持ちを尊重したい。勘違いしないで欲しいんだけれど、僕は君を優秀な一人の女子として見ている。僕たちはまだ学生なんだし、意見が食い違うことがあれば本分の学業で決めよう」

久しぶりにかち合った視線が、名前の瞳の陰りで離れる。今度は心の底から、学秀は笑顔を見せた。

「今度の定期テストで一教科でも僕より高い点を取れたら、君の言うことをなんでも一つ聞こう。そのかわり全ての教科で僕が君の点数を上回っていたら──」

ほんの一瞬、考えるために言葉を切った。泊まりはまだ早い。部屋に呼ぶのも一人暮らしを始めてからがいい。
目の前の名前は腹の前で自分の両手を組みじっと学秀の言葉を待っていた。これから言われる事をもう理解している。そして絶望している。ちゃんと力関係が分かっているのは良い事だ。反逆が必ずしも正しいとは限らない。賢い女は好きだ。

「遊びに行こうか。水族館とか、図書館……は遊びじゃないな。ああ、もし君が考査で間違っていた問題なんかあったらそこで復習してもいいね」
「……あの、やっぱり」
「その闘争心と向上心、椚ヶ丘の生徒に相応しい。やはり僕の目に間違いはなかった。君は素敵な女の子だよ、苗字さん」

肩に置いた手が、彼女の内側を削ったのか。半歩足を引いた名前が首を動かす。頷いたようにも項垂れただけのようにも見えた。
反抗する気力なんて持っているだけ苦しくなるだけだろうに。これは痛ましいほど怯える名前に伸ばした蜘蛛の糸だ。何も怖がることはない。その人生を預けてくれれば最上の生活をさせてやる。本当の恋だって知らないし運命の相手の顔を見たわけでもない、何も躊躇うことはないはずなのに。




「……今、なんて?」

その人生、僕に捧げるべきであるのに。
学秀は自身の父親である浅野学園長に告げられた言葉を一度で理解できなかった。普段優秀な生徒であり一を言えば十を理解し百を返す彼の珍しい反応が可笑しかったのか、ただ普段の表情で話しているだけなのか、不気味にも親しみ深くも見える笑みを湛えた学園長は二度、同じ事を口にする。

「苗字名前さんはEクラスに行く」

「なぜです」今度は冷静に問いかけができた。予想がつくことが大半の彼だが、そうでないことだってある。だからこそ中学二年生にしてここまで昇り詰めた。

「学年末考査の結果はこれから掲示されるが、君には先に話しておこうかと思ってね」

テスト。名前はまだ勉強を諦めていないように見えた。いつも以上に自習に励み、教科担任の元へ通い、寝る時間も惜しんでいたようで休み時間に机で船をこいでいるのも何度か見かけた。学秀はと言えば、例の勝負は「名前が学秀より高い点を取れたら」という条件であり、もしも二人とも百点のテストがあったとして「名前は学秀を上回れていない」ということで名前の負けになるので、必ず満点を取ろうとこちらも自主勉強に精を出していた。元々が名前には不利な賭けだったのだ。それでも万に一つはある。彼女がもう疑問など抱かないような、圧倒的な成績差を見せつけなければならなかった。
その彼と競おうとしていたのだ。例え学秀に点で負けてもEクラスに落ちるほどの結果ではないはずだ。

「苗字さんの回答用紙だ」

学長室の正面奥に配置された学長机、その上にあったファイルから紙を取り出し、見ろと視線だけで指す。
覗き込んだそれは主要五教科の回答用紙だった。確かに名前の出席番号と名前が書かれた、その用紙の回答欄には何も書かれていない。何も、一つも。

「初日、最初の教科である数学のものだけ、半分ほど書いた後全て消したように見えるね」

確かに、うっすらと芯の跡が残っている用紙が一枚だけあった。後は全て最初から何も書いていない。コピーしたままの、ヨレも折れもない、真っ白な紙だ。

「何か悩みでもあったんだろうかと思うよ。これだけなら補習の成績によって今のクラスに残留してもらうことも考えた」
「……他にも何か?」
「夜十一時過ぎに制服のまま繁華街まで出て補導されたよ。昨日」

頭を殴られたようだった。
Eクラスの扱いを見る度悲痛な面持ちで「ひどい」と言い、尚のこと勉学に打ち込む。エンドの彼らを哀れみ、ああなりたくないと努力できる、正しい人間性の持ち主だった。そう思っていたのに。

「本人が言っていてね。あと何回同じことをしたらEクラスにいけますかと」
「……そうですか」
「君が一番彼女の近くにいただろう。心当たりはあるかな」

どうして、と言いたいところを飲み込む。学園長には聞きたくない。「いえ」短く答えて卓上のコピー用紙五枚を数秒、しかし穴の空くほど沈んだ視線で睨め付け踵を返す。

「浅野くん。苗字さんと結婚するんだと言っていたね」
「ええ。彼女は必ずAクラスに復帰させます」
「いいね。そんなに尽くしたい相手ができたというのは」

本当に思っているのか読めない声音だ。背中を見せているので思い切り不愉快を顔に出せた。僕を好きになるのも欲しがるのもあの子のほうだ。どんなに尽くしても僕の隣にいたいと思わせる。その時こそ突き放して、他好きをして、わたしのすべて貰ってくださいと僕に縋り懇願するのを見下ろしてやるのだ。
今、ここまで自分を追い詰めている。その間違いを一生かけて後悔させる。

部屋から出て真っすぐに教室への道を行く。利口な彼女だ、一対一で「説得」したら心を入れ替えてくれる。態度を改めて必死に頼んでくるならあの学園長に口添えしてE組への移籍自体をなかったことにしてやってもいい。
早朝、まだ人のいないクラスで待ち構えて、登校してき次第連れ出すつもりだった。しかし名前は既に居た。他に生徒のいない教室で、自分の席に座ってぼうっと黒板を見つめている。

「どういうつもりだ」

獰猛な顔は意識して見せないようにしていた。籠中の小鳥を棒で突いては弱らせてしまう。今はまだ、という考えも頭から抜けていた。正確には、この表情も交渉材料として使うつもりで隠さず話しかけた。
低い声に肩を揺らした名前が振り向く。大丈夫だ。学秀の感情が少し落ち着いた。この反応はいつもの彼女だ。浅野学秀に反抗できない、きっぱり言い切られるだけで従うしかなくなる、弱くて真面目な苗字名前。
しかし、その油断が一瞬で引き締まる。
名前は学秀の目を見た。手は胸を押さえ、ちらちらと他所を見ながらだが間違いなく目を合わせようとしている。手先から顔までがかっと熱くなった。これだ、この距離を求めていた。上辺だけの言葉で薄っぺらい会話をするのではなく、体を対面させて視線を交わらせて、間違いなく僕と君だけの話をする。いつぶりか分からない感覚に脳が喜んでいる。

「ごめん、浅野くん」

声が震えている。息を吐くついでに出していたような声とは違う、意思を持った言葉が耳を舐める。こちらの体まで震えそうだった。名前が浅野学秀を見て、他者に言わされているのでない自分の気持ちをつっかえつっかえ伝えようとしている。先を促して聞き入りたいのを我慢した。喜びと同時に猛烈な危機感も感じていたからだ。

「心配することはないさ。何かの間違いだろ? 君はちゃんとわかっている」
「ううん、間違ってない」

籠の鳥が、自らの体を檻に打ち付け落下した。壊れた籠から這い出した鳥は外界に繋がる窓を見据えている。

「Eクラスに行く。もう戻らない」

────。
みっともなく震えながら立ち上がり、それでも崩れない脚で一歩、飼い主に近付く。
綺麗だ。
そのまま寄ってきたところを抱きしめたいと思う。

「いいや」

だがこの男は浅野学秀だ。
腹の底から噴き出す苛立ちを、また隠さない。外になんて出さない。口で言って分からないなら羽をぐ。脚を抜く。くちばしを破る。
それができる。そうして君は僕の隣にいるべきだ。素直に付き従い僕の言うことに心から一喜一憂し、僕に捨てられたら生きていけないと泣く存在であらねばならない。
そうでなければ、僕はどうなる。

「また頑張ろう。今までやってこれたんだ、たった一度の間違いでやり直せないなんてことあるはずないだろう?」

少女が決死で進めた一歩を埋めるように、残りの距離をあっという間に詰める。
ほんの短い間だ、紐をつけて外を見せてやるくらいは許そう。賢い彼女ならEクラスの実情を半月ほど経験したら学秀に懇願するはずだ。「もうEクラスは嫌だ」「Aクラスに戻りたい」手を放して嫌というほど行き止まりを堪能させたいけど、情の深い名前が他の生徒に入れ込んでしまっても困る。

「君を見捨てないよ」

肩を叩いて、笑顔で目を合わせる。負けじと名前も見つめ返す。言葉を返す余裕はないようだが、その視線だけで学秀の方が支配されるようだった。これだから名前という女子は手中に収めないと気が済まない。どんな相手でも屈服だけはしないと自負している浅野学秀を、指先一つで跪かせることができる。そんな予感がする。いつからだろう。転んで泣いている彼女を見た時、苦手な給食のメニューをゆっくり食べていた時、最初に手を繋いだ時、初めて会った時、それかこの全て。
苗字名前は浅野学秀を脅かす脅威だ。この判断も間違っていなかった。来年で彼女を完璧に支配する。そうでなければ安心して今後の人生計画を進められない。

「苗字さんが好きだから」

言葉の裏にナイフを忍ばせにこやかに突き立てる。
僕に負けろ、名前。






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