突如リビングの外から聞こえたのは男の悲鳴。家全体に響き渡るようなボリュームのそれに、驚きで肩が跳ねた。持っていた洗濯物が手からフローリングに落ちる。


「え、な、なに……!?」


なにが起こったんだ。見えないとわかっていながらも、廊下に繋がる扉を見つめずにはいられなかった。どたどたと近づいてくる荒々しい足音。白い扉が壊れそうな速さで開かれたと同時に現れたのは、家に遊びに来ていたお隣の元親だった。再び肩が跳ねる。勢いを衰えることなく近づいてきた元親は、そのまま体当たりするように私に抱きついてきた。


「うわ! ど、どうしたの!?」
「くく、蜘蛛が……!」
「く、くも?」
「クソでけえ蜘蛛がいる! タランチュラ並みの!」
「あ、蜘蛛?」
「あの大きさは家庭用サイズじゃねえ! ヤバいマジでヤバいぞ!!」
「お、落ち着いて元親!」
「あんなんが出るなんざ、この家は呪われてる……!」
「そんなことないから! てかそれ失礼じゃない?」
「なな、なんとかしてくれ名前! 今すぐに!」
「わ、わかったから! どこ?」
「廊下の壁!」
「廊下ね、うおっ」
「た、頼んだぞ! あんなんがいたんじゃ俺はこの家にいられねえ!」
「わかったから肩の手離して!」
「あ、あんま近づくと食われるぞ名前! きき、気をつけろよ!」
「それもはや蜘蛛じゃない!」


隅に置いてあった掃除機を手に取る。廊下に出ると、蜘蛛はすぐに見つかった。確かに蜘蛛は異常にでかいし、初めて目の当たりにする大きさに私も思わず悲鳴をあげたけど、タランチュラは言い過ぎだろと思った。私だって別に蜘蛛が平気なわけじゃない。だが元親よりは全然ましだ。昔から彼が遭遇した蜘蛛の退治を請け負ったときの慣れもある。私と元親しかいない今、奴を退治できるのは私だけだ。最初は恐怖で踏み切れなかったが、元親のためにもと奮った結果、格闘の末奴を掃除機に収めることに成功した。よくやった私。緊張していたのか詰めていた息が漏れる。蜘蛛が出てこないようにと数分間掃除機をかけてからリビングに戻ると、部屋の隅に頭までブランケットにくるまる元親がいた。


「も、元親? 蜘蛛捕まえたよ」
「名前……ありがとな。悪ィ、何もできなくて」
「いいよ。大丈夫?」
「ああ。だだい、大丈夫だ」
「無理しなくていいよ……」


影がかかっているせいでよくわからないが、元親は引きつった笑みを見せた気がした。ブランケットを被っていてもげっそりしているのがわかる。しゃがみこんで広い背中を撫でると、肩が僅かに跳ねた。


元親は基本なんでもそつなくこなすし、嫌いなものや苦手なものも少ない。だが、蜘蛛だけはどうしてもダメらしいのだ。幼い頃に部屋ででかい蜘蛛と二人きりになったことがあって、それから恐くて仕方ないという。蜘蛛がいたのが扉だったため外に出られず、おまけにそのときは家に一人で誰も助けてはくれなかったそうで、数時間を蜘蛛と共有したらしい。そのときは恐れの中、常に蜘蛛の動きを見て一番遠い距離を保つようにしていたのだが、見失ったと思ったとき自分の腕にいたという更なる悲劇まで起きたそうだ。まだまだ幼い子供にはとんでもない恐怖体験だっただろう。元親がここまでになるのも納得できる。懐かしい記憶を探っていると、元親がもぞもぞと顔だけブランケットから覗かせた。


「うわ、元親顔真っ青だよ……」
「あれはヤバかったマジで……!」
「もういないよ。なんか飲む?」
「………」
「元親?」
「ヤベェ吐きそう……」
「え!?」
「う……っ」
「まま、待って! トイレ! トイレ行こう!」


手で口を押さえる元親を全力でトイレまで誘導した。今にも戻しそうで冷や冷やしたが何とか間に合った。扉を閉めて息を吐く。扉越しに大丈夫かと声をかけたら、苦しそうな返事が返ってきた。今回は相当重症だな……。でもあんなものを見たんじゃ仕方ないだろう。私は元親の飲み物を用意するためキッチンに向かった。そして少ししてから、元親がリビングに入ってくる。


「少しは楽になった?」
「おう。見苦しいとこ見せちまって悪い……」
「全然いいよ。はい、とりあえず水」
「サンキュ」


彼の顔はまだ少し青いが、大分いつもの白い肌に戻りつつあった。一気に水を仰ぐ元親の首筋をぼんやり見ているうちに彼は飲み終わったらしく、ふらふらとソファーの方に向かっていく。腰を下ろし首をうなだれる彼の隣に立ち、右目を閉じる顔を見下ろした。柔らかいソファーは私が一人で座るときよりも遥かに沈んでいるように見える。


「寝転がらなくていいの?」
「いや、このままでいい」
「そう?」
「寝るとさっきの奴の映像が浮かんでくる気がする……」
「うわ……」
「あれは魔の使いに違いねえ」
「いや、そんなことは……」
「うー……」
「大丈夫?」


大丈夫としか聞けない自分が情けないが、他に言葉がない。柔らかい銀髪を右手で撫でる。彼の髪でさえも元気がない気がした。少しの間何の反応もせず撫でられていた元親だったが、不意に私の手を掴んで来た。開かれた右目に、瞬きを繰り返す私が写る。左手も握られたと同時に軽く引かれ、うわ、と声が漏れた。ソファーの肘掛けに膝を付いた私の肩口に埋められたのは、元親の顔。


「……元親?」
「蜘蛛が恐いなんざ、かっこわりいな……」
「え?」
「アンタには今更だけどな」
「まあ、そうだね。元親が蜘蛛嫌いなことなんか、ちっちゃい頃から知ってるし」
「でもゲロっちまうのはねえよ、流石に……」
「でも今回は仕方なかったんじゃない? あんなでかかったしさ」
「………」
「でももう大丈夫だから。元気出して元親」


本当は背中でも撫でたいところだが、両手が掴まれているため実行はできなかった。少しでも元気づけたくてへらへらと笑う。効果はない気がするけど。私の手を握る元親の手に、不意にぎゅっと力が入った。


「……俺のこんなとこ知ってるのも、助けてくれるの、名前だけだ」
「幸村くんとか慶次くんも助けてくれるでしょ?」
「女は名前だけだよ」
「そっか」
「アンタは俺のダサいところも嫌がらないで、笑って支えてくれる。俺はそれに助けられてんだ」


ゆっくりと肩から離れていった元親の顔。至近距離で私を見つめてくる元親の青い目は、いつも通り綺麗だった。握っていた手が不意に離され、次の瞬間には指を絡められる感触が。少し驚いてそちらを見ると、私の指の間には元親の長くてごつごつした指が埋まっていた。もう一度元親と目を合わせる。白い頬は僅かだが赤みを帯びている気がした。


「元親……?」
「名前、俺は前からアンタが……」


元親の雰囲気がどこかいつもと違うことに、そわそわして落ち着かない。なんとなくこの場から離れたいような気持ちになったが、続きが気になる思いの方が大きかった。青い目に吸いこまれそうになる。そんななか、元親の視線がふと何かに気づいたように私の背後に向けられた。その瞬間見開かれる右目と、どんどん蒼白くなる顔。明らかに様子のおかしい彼の目線を辿り、思わず目を疑った。そこにいたのは、さっきのものより更に大きい蜘蛛。


「うわあああ!? なな、なんで、」
「は、はは……」


私の口から悲鳴が飛び出る。元親は先程よりもすごい叫び声を上げると思ったが、漏らし始めたのは予想外の乾いた笑いだった。思わずぎょっとして彼を見つめる私。顔に伸ばした手があと少しのところで届かなかったのは、彼がふらりと後ろに倒れてしまったからだ。


「えええ! もも元親!?」


ソファーに仰向けに倒れた元親は、そのまま微動だにしなくなった。呼んでも揺すっても何も反応がない。私の顔まで蒼白になりそうだった。かなり心配だが、私がまずやるべきことはあの蜘蛛を退治することだろう。元親が起きたときまだ蜘蛛がいるとなったら、彼の精神的ダメージが大変なことになる。それにまた倒れられたら、あの言葉の続きも聞けはしないしな。元親の頬を一撫でしてから、私はまた戦うべく掃除機を手に取ったのだった。



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