「ただいまー」


使い慣れたドアを開けて中に入る。明日忘れないようにと鍵はスカートのポケットに突っ込んだ。家に帰っても迎えの言葉は返って来ないが、それはいつものことだ。誰もいない家に「ただいま」と言って入るのも毎日の習慣になっていた。ついさっき携帯の時計を見たときもまだ五時前だったし、今日はいつもより早く帰ってこれたと思いながらゆっくりと靴を脱いでいると。


「名前」


普段はない自分を迎える言葉が耳に入ってきた。二人暮らしをしているこの家で自分以外と言ったら一人しかいない為、誰だかはすぐにわかる。驚いたのはその人物が家にいたということだ。顔を上げて、声のした場所を視界に入れる。


「政宗、いたの」
「ああ。今日は早く帰ってきたんだ」
「珍しいね」


そこには濡れた髪をタオルで拭いている、上半身裸の自分の義兄。格好からしていかにも風呂あがりです、といった感じだ。なんでいるの?という視線を向けるが相手はそれに気付いていない。政宗が帰ってくるのはいつも夕飯の仕度を終えたぐらいの時間だ。遅いときは私が寝てからの帰宅だし、一日中帰ってこないこともある。仕事が忙しいらしい。でもそういう場合は必ず家に連絡してくる。私と同じで面倒臭がりのくせに、変なところは律儀だ。私に心配をかけさせない為なんだろうか。特に心配したことはないが。まあそういう訳で、政宗が今家にいるというこの状況は結構珍しかったりする。


「何で? 何かあったの?」


靴を脱いでいた行為を止め、玄関に立ち尽くしたまま問いかける。問いに答えは返さず、政宗は無言のままゆっくりと近づいて来た。ポタポタと髪から水滴が垂れているせいで廊下の床が濡れていく。それを見て、髪ちゃんと拭いて、服着なよ、と言おうと口を開きかけたが余りにも至近距離に相手が来たため驚いて言葉が出てこなかった。


「アンタに、会いたかったんだ」
「……は?」


何を言うかと思えば、いきなりなんだ。相手は笑ったまま私の髪に手を伸ばし、自分の指に巻き付けて弄び始める。


「髪、今日はおろしてったんだな」
「え? ああ、時間なかったからね」


今日は起きるのが遅く髪を結っている時間がなかった為、何回か櫛でとかすだけで家を出た。愛用の髪飾りは、今日は私の部屋で留守番だった。何がしたいのかよくわからないが、義兄はまだ指に私の髪を絡めたまま離れない。いい加減この玄関から中に足を踏み入れたいのだが。立ち尽くしたまま、ふと義兄の先程の言葉を思い出す。


「私に会いたかったって、何か用事だった? それなら電話してくれればよかったのに」


いつもそうしてるでしょ? それともそんな重要なことだったの? そう言うとあからさまに呆れた様な顔をされる。前方からはため息が聞こえてきた。


「No. そうじゃねぇよ。バカだな、名前は」


バカと言われ、そして明らかにバカにしたような目で見下ろされてしまった。こっちは気を使って電話でよかったと言ったのに。そう口を開き文句を言おうとしたが遮られ、それは失敗に終わった。


「いっつも名前は帰ってきても一人だからな。たまには俺がおかえりって言ってやりたいと思った」
「え?」
「寂しい思いさせてるだろ。気づいてやれなくて、悪かった」


髪に触れていた手が、私の頭の上に移動した。政宗の眉が僅かに下がる。義兄の発言と表情に、思わず驚きで瞬きを忘れてしまった。なんでいきなりそんなことを言うんだろう。寂しいなんて思っていない。両親が海外出張に行ったことから始まったこの生活は、最初は確かに大変だった。だけど今はもう慣れたのだ。当時から政宗は帰ってくるのも遅かったし、私が帰宅しても義兄がいないのだって普通だった。本当にもう慣れた。全然平気だ。


「泣くな、名前」


その筈なのに、どうして私は泣いているんだろう。頬に手を持っていくと濡れた感触。この生活を続け、もう一年以上たった。慣れた、平気だと思っていたのに。そう思い込んでいただけで、本当はずっと寂しかったのだろうか。言われて初めて自覚したのか。自分より大きな手がゆっくり頭を撫でる。すると更に涙が溢れてきた。止めたいのになかなか止まってくれない。思いっきり拭ってしまえと目元を擦ろうとしたが、その前に手が後頭部に移動し素早く引き寄せられた。政宗の腕の中でもう片方の手で背中を優しく擦られる。


「これからはもっと、名前が帰ってくる前に俺が家にいるようにする」


優しい声が耳元で響く。まだ濡れている政宗の髪の毛からは、シャンプーのいい匂いがする。その香りを空気と一緒に吸い込みながら、そんなこと可能なのかと疑問に思った。今までの生活リズムを急に変えるなんて、難しいに決まってる。


「……できるの?」
「アンタの為ならな」


かなり聞き取りづらくなってしまった私の言葉も、政宗にはしっかり聞こえていたようだった。すぐに返事が返ってくる。私を抱きしめる政宗の腕に力が入ったのがわかる。さっきよりも更に強く抱きしめられ、そのせいで少し止まったと思った涙がまた流れてきた。泣いて赤くなっただろう顔を見られたくなくて、私は政宗の胸に思いきり顔を押し付けた。そんな私を見て笑ったのだろう声が耳に届く。暫く涙は止まらなかった。


「おかえり、名前。待ってたぜ」



おかえりただいま愛してる



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -