土砂降りの雨が降っている。辺りは暗く、雨の音が五月蝿く響いていた。鉛色の空の下をたくさんの車が走り、人が歩いている。わたしの数メートル前を進む二つの傘。談笑しながら歩く一組の男女が、赤の横断歩道に向かっていた。見間違えることなんてない。あれは、あの二人は、父さんと母さんだ。


ダメ。そこで立ち止まってはダメだ。視界に移るものを認識した自身の全身がそう主張していた。頭の中で警鐘が鳴る。走りたいのに足が動かない。叫びたいのに声が出ない。視界が歪む。耳元に心臓があるみたいに、鼓動がうるさい。わたしの前を歩くその二人が脚を止める。動けない私の横を通り過ぎるトラック。全身からぶわりと冷汗が流れ出す。待って。ダメ。ダメだ。スピードを落とさないまま彼らに近づく鉄の塊。雨のせいなのか、彼らはそれに気づかない。かつてないほど早くなる鼓動。頭が割れそうなほど痛い。気持ち悪い。吐きそうだ。気づいて。逃げて。空気を裂くように、クラクションが鳴り響く。


「沙季、じゃあ行ってくるから」
「またな」


わたしを振り返り兄ちゃんが笑う。彼らが歩くその先は真っ黒で何もないのに、どこに行くの? どうしてそのまま進んで行くの。視界が歪む。耳鳴りがやまない。どこかで聞き覚えのある耳障りなクラクションが鳴っている。お願い、待って、行かないで。




******




俯き顔を覆う沙季。指の隙間からは隠しきれない涙が滲んでいた。吐き出す息が震えている。彼らが初めて目にした、彼女の泣いている姿。


「……沙季」


政宗が沙季を呼ぶ声は、嗚咽を漏らす彼女には届かない。


「前にも、こんなことがあったな」
「どういうことだ? 小十郎」
「一度見たことがあります。起きた沙季の様子が、おかしかったところを」
「前も……」

沙季をじっと見ていた小十郎が、彼女の隣にしゃがみ込んだ。大きな手が細い背中に優しく触れる。


「沙季、お前は何を隠してる」
「………」
「俺たちには、話せないことなのか?」

小十郎以外は何も言わない静寂の中、彼女はゆっくりと顔を上げる。目は真っ赤で、頬は涙に濡れている。何か言いたげに口を開いたまま、彼女の顔が再び歪んだ。


「こわい」


そう呟いた声は小さくて、普通なら聞き落としてしまいそうだった。だがその言葉はちゃんと彼らの耳に届く。


「何が怖いんだ」


口を開いて、また閉じる。その表情から、必死に涙を堪えているのがわかった。一度上がった顔を沙季は再び俯ける。流れ落ちる髪は彼女の顔を上手く隠した。


「父さんと母さんが亡くなってから、夢を見るの」
「夢?」
「事故を見てる夢……。その日は雨が降ってて、父さんと母さんが歩いてて、横断歩道で止まったところに、トラックが突っ込んでいく。いつもそこで起きるんだ。見るのはいつも、それの繰り返しで」


足の上に置かれている手が震えている。握られているスカートが、ぐしゃりと形を変えた。


「たまに見る。小十郎さんが起こしにきたときも、この夢見てた」
「……うん」
「夢だってわかってるよ。頭ではわかってるのに、事故を防いだら現実も変わるんじゃないかって、目が覚めたら二人はいるんじゃないかって思って、その考えが消えなくて、わたしは、事故が起こらないようにしたいのに、何とかして二人を、助けたいって思うのに、いつもいつも何もできないの」


最後は絞り出されたようなか細い彼女の声。握り合わされた手は大きく震えている。白い手の甲に反対の手の爪が食い込んで、赤く血が滲みだす。その様子を見ていられなかった慶次が手を添えるが、震えは収まりはしなかった。


「……二人がいなくなったとき、もう生きていけないんじゃないかって思うほど悲しかった。毎日おかしくなりそうなほど泣いてたのに、涙は全然枯れなくて、そのときは、もう死んでもいいと思ってたよ」


こんなに辛い現実がこの世に存在するのかと思った。死んだ方がましなのではないかと疑った。止まらない涙と共に溢れ出る言葉は、思わず幸村の目にも涙を滲ませた。


「それでも今こうやって、普通に戻って生活できてるのは、兄ちゃんがいたから……、自分たちも辛いのに、わたしをずっと支えてくれた。ハルとアキが」


沙季が僅かに頬を緩めた。だがそれも一瞬で、すぐに泣き顔に変わってしまう。


「で、でも、兄ちゃんがアメリカに行ってからは、二人がいなくなる夢まで見る。それが恐くて仕方ないの。兄ちゃんまでいなくなったら、もうわたしは……」


そう声を発した彼女は、再び手で顔を覆う。小刻みに震える身体を見て、彼らまで顔を歪めた。両親がいなくなったことは、当時まだ幼かった沙季には大き過ぎる絶望だったのだろう。突然突き付けられたその現実に心が追いつくまで、多くの時間がかかったのだろうことは容易に想像できる。そして両親が亡くなり、兄たちをより一層大切に思うようになっただろうことも。彼らがいなくなったら、彼女はどうなってしまうのだろう。今度こそ底無しの絶望に飲み込まれて、抜け出せなくなってしまうのだろうか。本当に死を選んでしまうのではないかと、彼らは考えたくないが疑ってしまった。沙季は兄二人を失うことを何よりも恐れているのだとわかった。


「アンタが俺たちに一線引いてんのには、それが関係してるのか?」


元親の呟きを聞いた沙季が、充血した目を彼に向ける。そのあと視線は床に落とされた。


「近づき過ぎるのはわたしが嫌なんだ」
「どうして?」
「知られたくない、自分のこと。それに、親しくなったら、きっとその人のことすごく頼る。そんなことして、重荷に思われたくない。一人でもやっていける。今までもこれでやってこれた」


だから、これでいいの。沈黙が流れる。彼女が一線を引いている理由。両親が亡くなったこと、兄たちと別の場所で暮らすようになったこと。本来頼り、甘えることができるはずの者が彼女の傍にはいない。心から打ち解けて、頼ってしまうことを沙季は無意識に拒んでいる。夢を見たときはこの家でたった一人で泣いていたのだ。人前で滅多に泣かないと言った彼女は、一人ではどれくらい泣いたのだろう。大丈夫そうに見せているだけで、実際はそんなことはないはずだ。根拠のない夢にもこんなに怯えている。


「平気なふりはやめろ」
「え……」
「本当は、兄貴達がいなくて寂しいんだろ」
「………」
「アンタのことだ。心配かけないように気遣って言えねえんだってのは想像できるぜ」


目を泳がせる様子から図星なのだということがわかる。誰よりも兄を想っているだろう彼女が、彼らと離れていて寂しくない筈がないのだ。彼女を真っ直ぐ見つめる左目と、沙季との視線は交わらない。


「寂しいときは寂しいって言え」
「……言えないよ。言ったら兄ちゃん、心配して、」
「違う、俺たちに言えばいいんだ。ここには、俺たちがいる」


見開かれる沙季の両目。政宗と彼女の視線が漸く交わる。


「もっと俺たちを頼って、俺たちに言えばいい」


政宗の言葉に、沙季は動揺しているようだった。彼女の目線に合わせるように腰を落とした彼らに、沙季は戸惑うように目を泳がせた。


「俺たちもアンタを支えてやりたいよ」
「もっともっと某たちを頼ってくだされ」
「……そしたら、きっとみんなに頼りきりになっちゃうよ。わたし、良いやつじゃない。嫌なところもいっぱい出る」
「別にいいじゃない」
「むしろ歓迎だよ」
「俺たちはお前に頼ってんだ。お前が遠慮する必要なんざどこにもねえだろ」


でも、と呟く沙季。ため息を吐いた元就に、沙季は驚きと困惑の視線を向ける。


「我らがそれで良いと申しているのだ。何故渋る必要がある」
「毛利さん……」
「これからは、俺たちに言ってくれていいんだ」
「今、アンタの傍には、俺たちがいる。一人じゃねえだろ」


見開かれる沙季の目は次第に潤いを増していく。そこから、またぽたりと涙が零れた。ぼろぼろと溢れ出したそれは、次々と頬を伝い落ちていく。


「夢にも、もう怯えないでくだされ。兄上殿たちは、絶対に沙季殿を置いていなくなったりなどなさりませぬよ」
「沙季が寂しくて泣きたいときは、俺たちに言って。一緒にいるよ」「聞いた以上はもうアンタと俺たちの関わりは今までとは違う。You see?」


沙季の顔が再びくしゃりと歪められる。顔を覆った沙季は、ゆっくりと頷いた。声を漏らして泣き出した沙季。涙と一緒に、少しでも彼女の悲しみが流れ去ってほしい。嗚咽に混じり呟かれた沙季の“ありがとう”は、そう願う彼らの耳にしっかりと届いていた。
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -