若のお側にいられれば他には何もいらない。私が生涯をかけて尽くし、敬い慈しみ、大切に思うお方は、真田幸村たった一人でいい。そう思っていた。
露草の花弁から溢れた小さな雫が跳ねたようだ。間近でひとが目覚める刹那を見た私はそう思った。ぴくりと肌の表面が波打ったかと思えば頬の筋肉が僅かに動く。少しして睫毛を震わせながら瞼が開いた。姿を現したまなこが、私を捉える。

「おはようございます、薫」
「…おはようございます…?」

眠りから覚めた薫はゆっくりと瞬きして私を見た。水晶玉のような瞳は未だぼんやりしており、恐らく昨日の朝とはまるで違う光景に疑問を感じているのだろう。彼女が私を見つめること暫く、やっと事態を理解した寝ぼけ眼が突然かっと見開かれた。眼前に火花が散った光景が私にも見えた気がした。

「ろ…、くろう様!?」

無理もない。夫となった人物が布団の傍で何も言わずにじっと見下ろしていたら驚くだろう。どうやら夫婦なるものは妻の方が早く起きることが常のようだが、婚儀の翌日でも小姓としての務めは早朝より果たさなければならない。薫は故郷から上田へとやって来たばかりであり、起こさないでおこうと判断したのだった。寝坊かと慌てふためいた薫が素早く上体を起こそうとした。しかし、

「っ!?」

すぐに身体を強張らせ布団の中に逆戻りする。顔の顰め方からして耐えられなかったのだろう───腰の痛みに。確かに多少の無体を強いてしまったかもしれないと昨夜の契りを思い返せば、薫も同じことを考えたのか耳朶を紅潮させてのろりと布団の中を覗き込んだ。息を呑む音。一糸纏わぬ自身の姿に彼女は硬直した。布団の中に散っている紅に負けないぐらい頬が染まる様は、まるで熟れた果実を思わせる。

「…六郎様、あの、夜着は、」
「片付けさせてもらいました」
「!?」

私が脱がせたまま薫の下で乱れて皺になっていた夜着は、彼女が寝息を立てている間に引き抜いた。すなわち着るものが手元になく布団から出られない状況にある。途端青くなりまごつく薫に私は首を傾げてみせた。

「別にいいでしょう、貴女の身体なら昨夜くまなく見」
「な、な、な、何をおっしゃいますか…!!」

羞恥を煽るような言葉を遮った薫は泣きそうな顔をしていた。恥じらい黙りこくるわけでも、しなを作り媚びるわけでもない反応は新鮮だ。もう少しからかってみたいと悪戯心が過ったが、そろそろ朝餉にしないと膳が冷めてしまう。

「怠いかもしれませんが着替えを済ませてください。
貴女の荷物は運び込んであります」

婚儀の翌日だからこそやることは沢山ある。真田の家臣団との顔合わせに城から離れた場所に構えた屋敷の片付け、夜になれば今宵も宴だ。はい、というはっきりした返事を聞いてから私は部屋を出る。襖を後ろ手に閉めひとつ息を吐く。胸の真中に暖かな雫が落ちた気がした。
「後継のことを考えなければ」、海野の家からは以前から嫁取りのことを仄めかされていた。しかし私よりも、遊女に手を出し一向に身を固める様子のない若こそ室を迎えるべきだと幾度となくはぐらかしてもいた。それがまさか、私にそのような存在が出来るとは。妻。生涯の伴侶。勇士とはまた違う上田にやって来た人物を思うと不思議な心地になる。
お待たせしました、と襖を開けた薫を私は振り返った。青色の鮮やかな和装に身を包んでいる。決して多くはない嫁入り道具の中のひとつは、紅潮したままの彼女の頬によく映えた。海辺の小さな村の出の薫は存外肌が白い。

「…縹ですか?」
「ああ、はい。
花弁で染めてます」

露草の花を絞った液汁に漬けて染めた布は、縹とも言われている。控えめに施された刺繍が薫らしい。自らの手で拵えたのだろうかと私がじっと彼女を見ていると、不安そうな瞳がこちらを仰ぐ。

「あ…お城で着るには、そぐわないでしょうか」
「そんなことはありません」

若はいつも地味な色の着流しですからと言う私に薫はほっとしたように頬を緩ませた。反対に私の唇がひくりと動く。似合っているという短い言葉が、するりと口をついて出て来ない。
露草は比較的どこにでも生えている野草だ。花を集めれば色を付けられる、すなわちさほど裕福でない者にも馴染みある色彩。慎ましやかな家から来た彼女の事情を知りながらとやかく言えないことは確かだし、薫が縹色の生地を気に入っているのならそれはそれで構わない。ただ、微かに、面白くないと思う。何故露草なのか。非常に褪せやすく脆弱性の高い色は、移ろいやすさの象徴とされている筈だと私は記憶を巡らせる。そんな儚い縹を目の前で纏っていることが、少しだけ気に食わないのだ。まるでこの関係自体が泡沫のものだと言われているようで。薫はこの婚儀を、私のことを、どう思っているのだろうか。

「六郎様、上田にも露草は咲いていますよね?」
「…ええ、ここは野山が多いですから容易く見つけられると思いますよ」

渦巻く思考に気を取られ淡々とした言い方になってしまった。しかし薫は意に介することなくよかったと笑む。果たして彼女と上手くやっていけるのか。そんなことを考えてそもそも───私が彼女と上手くやっていきたいと思っていたことに気付く。薫がふうわりと目を細めた。

「なら、色褪せたら何度でも染め直せますね」

ぽたり、雫が落ちる。何度でも。彼女の言葉の意味を理解して、また私の中に水滴が跳ねる。若のお側にいられれば他には何もいらない。私が生涯をかけて尽くし、敬い慈しみ、大切に思うお方は、真田幸村たった一人でいい。そう思っていた。なのに、薫がそれに似た存在であってほしいと思う。薫との婚姻が儚いものであってはほしくないと、思う。私の傍で縹を染める彼女を、この先何度でも見ていたいのだ。

「その際は、手伝わせてください」
「え?」
「…とても、興味深いので」

一滴ずつ零れる水粒がいつか私の中に満ちる時、私は一体どうなっているだろうか。苦しくなるほど溺れているか、全く違う景色を見ているのか。その先を知りたい。薫といる未来がどうなっているのか、この目で見てみたくなった。隣に立つ薫が、はい、とはっきり返事をして笑う。頬はやはり熟れた実のように紅く染まっていた。


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