明日は早く帰れると思います。確かに私は妻にそう言った。立て込んでいた政務が落ち着くかといった頃、更衣を取りに屋敷に戻った朝薫に向かって告げたのだった。久々に夕餉を共に摂れると伝えれば、彼女の瞳は魚の鱗に似た輝きを帯びる。「では今宵はお城にお泊まりになるのですね、お気をつけくださいませ」、そして「お帰りをお待ちしております」。その言葉で胸の真中が温まる、私も大概重症だ。兎も角半刻程の帰宅の際、私が薫に明日のことを伝えた事実は摺墨のように消えないものだった。
しかし、上田城へと戻ったところあらゆる不測の事態が起きていた。問題は主に若を発端としていたが、それ以外にも才蔵と鎌之介の争いや甚八の花街絡みの修羅場など厄介ごとが次々と降ってくる。それらの対応に只管追われた私は、結局闇の中を急ぐどころか太陽が再び顔を出した頃居た堪れなさを抱えて帰宅することとなってしまった。

「───薫」

所謂朝帰り。しかも、約を破ったというおまけ付きだ。背筋にうすら寒さを感じながら、私は転がり込むように三和土を上がる。土間はしんとしており朝餉の匂いがしない。寝所はつい先程まで彼女が寝ていたという気配すら感じられずにいる。厨は───足を踏み入れようとしてやめた。薫が腕を振るっただろう夕餉がどうなっているか、確かめることが躊躇われる。
海野屋敷と呼ばれるここはまるで知らない家のようだった。薫が育てた坪庭の花も、手入れをする家具も、時折眺めている調度品も、全てのものが私を拒絶しているように思えてならない。肌がひやりと冷たくなる。袴を足で素早く捌き、私は屋敷の最奥に通じる障子を勢い良く開けた。

「薫!!」

濡れ縁には薫が座っていた。淡い光にぼんやり浮かび上がる居住まい。ほんの一瞬だけ亡霊のように見えてしまった私はどきりとする。彼女は私が背後にいるとわかっていながらも微動だにしない。怒っていることは明白だった。実家に帰っていなくてよかったと─先日の冗談があるからこそ余計─一先ず安堵しつつも、私は薫が話していた故郷の海を思い出す。
童というものは須らく度胸試しをしたがるようだ。薫が生まれた海沿いの村では、"城の天守閣ぐらいの高さ"の崖から海に飛び込むことが流行でも通過儀礼でもあった。遊び仲間、そして大人として認められるための儀式。彼女もその中に混じっていたのかと問うと「そんな危険なことをするのはおのこだけにございます」と軽く睨まれる。

「あれは落ち方にこつが要るみたいですよ。
下手に落ちると身体全体が真赤になって、鞭打たれたように痺れて痛くなるんです」

と、近所の子が言ってました。優しい口調。今の薫と私との間にある隔たりは、切り立った崖と波打つ海面と同様だった。飛び込み方次第では激しい水飛沫が跳ね上がる。

「………」

城の者が見たら嘲笑うかもしれない。しかし私は馬鹿みたいに焦り、そして必死だった。薫から少し離れた場所、濡れ縁と部屋の境目ぎりぎりに腰を降ろす。一つの眼で後姿をじっと見つめる。頼りなさげな肩。真っ直ぐ伸びた背。帯は一分の隙もなく結んである。その下に覗く小さな足裏。重なった親指がもぞり動いた。次いで背中が揺れる。根負けしたのはやはり薫だった。

「…そこで何をしておいでです」

そのままの姿勢で尋ねられる。涙混じりだが突き放す口調。音を上げたのは薫ではなく私だろうか。近くにいるのに背を向けられ、触れられない程、遣る瀬無くてもどかしいことはない。見えない焔に指先がじりじりと炙られる。

「貴女の後姿を見て一日過ごすことも悪くはないと思いまして」

一拍置いた後、薫の肩が大きく上下した。耳裏が赤くなる。動揺は手に取るようにわかった。地を蹴る。「幸村様がお待ちでしょう」という声を聞かなかったことにして彼女との距離を一気に詰め、腰帯に腕を回した。水面が近付く浮遊感。

「しかし、こちらの方が望ましいですね」

薫の身体を足の間に引き寄せる。正座が崩れ小さく悲鳴が上がった。ふわりと包むように胸の前で手を組み、肩越しに顔を覗き込もうとすれば、彼女は首を逸らしてそれを拒む。泣いていることは最早隠せない。湿った呼気が陽光に溶ける。身を捩り続ける薫に私は口を近付けた。

「あまり私を困らせないでください」
「っ………な、わ、わたしにならいくらでも乱されていいとおっしゃったのは六郎様ではありませんか…!!」

絹糸のような髪がさらりと揺れる。私を振り返ろうとして思い留まったのだろう。しかし言葉も返ってこない程しょげていなくてよかった、と思う。薫を胸元に凭れさせようとすると、私の名を呼ぶ震える声が聞こえてきた。

「はい」
「あの…、…っ…」

睫毛が伏せられる気配がする。言うべきか言わぬべきか長らく迷った後、薫はおずおずと口を開いた。それだけで十分だった。腕に添えられた彼女の掌。
───お帰りなさい。
愛しさがこみ上げ、飛沫となって煌めく。恐らく私は、凪いでいようと時化の日だろうと薫に焦がれるのだろう。強く抱きすくめ目尻に口付ける。溜まった涙を口吸いで拭えば、彼女は唇から逃れようとじたじたと藻掻き始めた。

「薫、本当にすみませんでした」
「っ!!」

頬に唇を押し当てた途端薫の抵抗はぴたりと止まった。喉の辺りに浅い息遣いを感じる。微かに塩気のある頬骨の上に舌を這わせると、私の前髪が擽ったいと目を細めた。顔を離し、私達夫婦は漸く視線を合わせる。真赤な眼。薫のそこにはまだ涙の膜が揺蕩っていた。その、世界で一番小さな海でさえ、私のものにしたいと願ってしまう。この海にはどんな景色が映っているのだろうか。ここに飛び込んだら、私は何を見るだろうか。

「…六郎様、そろそろ出仕しなければならないのでは…」

薫がゆっくりと身体を離そうとする。しかしそれを阻むように私は腕の力を強めた。不思議そうにこちらを見る彼女の上目に頬が緩む。事実を告げるとそのまなこがみるみるうちに見開かれた。「今日は休みですよ」。若に少々無理を言って貰った休暇だった。薫が瞬きを繰り返す。魚が鱗を輝かせながら水面を跳ねる。久しぶりの休み、ずっとこうしていることも悪くない。薫がいる、私のこの家で。


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