それはほんの戯れだった。戯れのつもりだった。
「実家に帰らせていただきます」。硬い声が空気の抜けた鞠のように落ち、弾むこと無く目の前に転がった。今日の上田は雲一つない快晴だ。風は緩く、気温もちょうどいい。しかし、鉛色の鞠が零れたことでこの部屋はきんとした鋭気を微かに含みだした。
部屋の主は上田を治める真田の若殿、幸村様の小姓であり、わたしの夫でもある海野六郎様。縁あってこのお方に嫁ぎ幾許か、偶には顔を見せよという幸村様の言を受け登城したわたしは六郎様の部屋に立ち寄った。そして、夫婦間においては離縁と同義の発言をしたのだった。
長い沈黙。何も言わない六郎様に不安になり、わたしは顔を上げた。障子越しに陽光が射し込み、左眼が煌めいている。触れると冷たい鉱石のようだ。思わず見惚れていると、

「…あなたがそのような冗談を言うとは意外です、薫」

徐に六郎様から発せられた言葉に、顔から火が出そうになった。
───話はわたしが上田城のお屋敷に足を踏み入れたところから始まる。「暫くお待ちください」。幸村様の政務が終わっていないらしい。どう時間を潰そうかと考えていると、わたしはまたもやお城に住まう皆さんに発見され、捕まり、連れていかれた。案内の者がすっかり呆気に取られていた。

「あのね、六郎っていつも硬い顔してるなって思って!!」

伊佐那海様以下皆さんの話を纏めると、六郎様は常に余裕の表情を浮かべているのでそれを何とかして崩してみたい、とのことだった。ほんの退屈凌ぎであり、ちょっとしたお遊び。その実行役として白羽の矢が立った人物がわたしだった。「六郎サンは幸村のオッサンと薫に弱い筈だ」。才蔵さんの提案であり、わたしは内容の良し悪しはともかく人からの頼みに弱かった。そうしてわたしは悪知恵を授けられてから幸村様と面会し、その後夫婦揃って話でもと時間を取っていただいたのだった。しかし六郎様は出来得る限りの神妙な面持ちなどあっさりと見透かしてしまう。

「…何故わかってしまうのですかぁ?」

余りに呆気なく看破されたことにわたしは口を尖らせた。わたしが大根役者だからか六郎様が敏いからか、嘘を嘘と見抜かれることはものすごく恥ずかしくて少しだけ悔しい。更に冷気を濃くして否を唱えるなり、取り乱して引き留めるなりしてくれてもよかったのに。思わず伸びる語尾に「あなたは冗談を言い慣れていませんから」と六郎様が口元を緩める。わたしが離縁など考えるわけがないとでも言いたげな、自信に溢れる態度。

「そうですか? もしも本気だったらどうするんです?」

皆さんが口を揃えて述べていたように、淡々とした顔が少しくらい揺らいでもいいのではないか。わたしはいつも六郎様に乱されているのだから。差し入れを包んでいた浅縹色の風呂敷を指先で弄びながら何の気なくそう呟くと、ふっと光が遮られ目の前に影が落ちた。

「───っ!!」

不意に肩を強く押され、わたしはいとも簡単に仰向けに倒れた。顔の横には六郎様の両手がある。冬の湖にも似た瞳が真っ直ぐわたしを見下ろしていた。身体の中心がかっと熱を発する。羞恥を煽る白昼の明るさ。

「ろ、六郎様!?」
「あなたが真剣に考えて出した結論ならば止めはしません」

六郎様の手が頬に伸び、顎を滑り、合わせから覗く肌を撫でる。その上胸元をさらってから前身頃で結っていた帯を軽く弾いた。解いてあげましょうかという無言の誘いに心の臓が飛び跳ねる。長い前髪が顔の半分を覆い隠していた。「されど、」と六郎様が続ける。

「本気なのですか」
「、」
「本気で、私から離れたいと思っているのですか」

六郎様のまなこがゆるりと細まる。眉は顰められ、口元が歪に曲がっていた。声が掠れる。

「な………何を仰います、あなた様が先に冗談だと決めつけたのではありませんか」
「しかし、あなたは頼みを拒めない」

二の句が告げなくなる。確かにわたしは押しに弱くて流されやすく、頼まれごとを断れない質だ。それが今回の件を招いたのだけれど、もしかしてたら六郎様の元に嫁いだことでさえそう思われているのだろうか───それは違うと否定しようと六郎様を仰ぎ見てすぐ、わたしは呼吸が止まりそうになった。
苦しげな表情。冷え切った湖水が揺らめいていると思っていた眼は、溶岩のような熱を持っていた。違うと言ってほしい。六郎様の全身からそんな叫び声が聞こえる気がする。きっと六郎様の心は薄い水の膜で覆われているのだろう。澄んだ水がひたりと、逆巻くことなく。その内には普段は絶対に見せない、やわらかくて触れたら壊れてしまいそうな繊細な部分と剥き出しの激しさが同居している。しかし今は六郎様が自ずから水膜を破り、内側にあるものを曝け出しているのだった。こんな表情、今まで見たことなかった。

「…わ、たしの居場所はここです」

咄嗟に口が動いていた。全身がじりじりと焦げつきそうになる。どうすれば六郎様の荒波を静め、凪を守れるのか、わからないがそれでも。

「これからも六郎様のお傍を離れるつもりなどないですし、…その…手放さないで、いただきたいのです…」

ほんの戯れのつもりだった。しかし、言ってはならないことだった。後悔し、惑い、同時に六郎様の心を垣間見たことにどこか嬉しくなる。六郎様が驚いたように瞬きを繰り返した。

「…もう、言いませぬ故、っ!!」

動揺で早口になる言葉はしかし、六郎様の突然の動きに封じられた。人差し指がぴた、とわたしの唇の真中に押し当てられる。言い切れなかった謝罪は喉の奥に飲み込むしかない。六郎様の形良い爪は次いで、唇の輪郭をゆっくりとなぞるように動いた。一周するまでに果てなく時間がかかりそうな速度。息が詰まる。擽ったいようでぞくぞくする。六郎様の緩んだ口元から、仄かに甘い蜜が溢れ出す。

「私は、薫にならいくらでも乱されていいと思っていますよ」
「───」

虚を突かれたようにわたしは目を見開く。無意識の内に震えていた唇から指先が離れた。わたしの上に覆い被さっていた六郎様自身も身体を起こす。陽の光は先程より柔くなっていた。六郎様の言葉を咀嚼し切れないわたしは、畳の上から起き上がれずにいる。

「冗談を言うこの唇は後でたっぷりと塞いであげましょう」
「!?」
「なのでまずは、」

───皆を叱ってきます。六郎様が閉じた襖の方向を見つめる。いつも通りの冷静な表情。部屋のすぐ外から、ばたばたと遠ざかっていく足音がいくつも聞こえた。


prev next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -