ただでさえ今日の陽射しは目に痛いのに、ここにやって来たことで尚更朝日が眩しいと感じるようになった気がする。
まだ根が土に馴染んでいない、でも大きさと高さだけはやたらある樫の木に隠れた俺は眉間に指を当てた。足場として不安定な細い枝にも立てるのは忍故、しこたま飲んだ翌朝でもそれは変わらない。幹越しに背後をちらと見て息を吐く。着流しの裾を揺らしながら屋敷の主が縁側へと姿を現し、先からそこに腰を下ろしていた奥方、薫が笑っていた。控えめな柄の小袖は昨夜の絢爛さを思うと目に優しい。

「お加減はどうですか?」
「…少し、さっぱりしました」

小さな声が聞こえる。確かあの人はそこまで酒が強くない。湯浴みの後のようだが左眼がまだ眠そうだ。無理もない、昨夜はほとんど食うか飲むかしかしていなかった。花街に行ったのに、六郎サンは遊女に見向きもしなかった。
幸村のオッサンが馴染みの店へ行けば小姓も着いて行くしかない。綺麗な顔をした六郎サンに近寄る女は数多くいたが、一寸とも手を伸ばすことはついぞなかった。そうして護衛役の俺がいるのをいいことに、「妻の顔を見てから城に戻ります」と一人帰路を別にしたのだった。店を出るまでの足元は覚束なかったのに、俺達に見送られる後姿はしゃんとしていた。
流石のオッサンも何も言わなかった───否、言えなかった。「六郎がつれない反応ばかりしやがるから」つい飲み過ぎ、酷い二日酔いになったからだ。差し迫った政務が少ないことから今日は暇にすると勝手に決め、六郎サンにも登城しなくていいと伝えるため、オッサンは俺を使いにやったのだった。

「…昨夜」

柔らかい陽光が頬に当たる。廂を作るように手を翳し、葉の間から斑に見える眼下の二人に目を凝らす。薫の肩に額を寄せる六郎サン。それを見て口元を綻ばせる薫。さっさと用件を伝えて帰りたいのに、こんな風にいちゃつかれると姿を隠し続けるしかない。眩しい。太陽も、海野夫妻も。幸せそうな奴らはなんでこうも光り輝いてんだ。言葉を濁す六郎サンを薫が促す。

「顔見知りの女に、妻を迎えたと伝えました」
「…はい」
「…泣かれました」

…おいおいおいおい。
突っ込み代わりに俺は目を剥いた。それは言うべきではないだろう。薫だって幸村のオッサンが遊び人なことも、花街通いに六郎サンが随行するも知っている筈だ。けど、あからさまに女の影をちらつかせてどーすんだ。疚しいことは何もしてないとはいえ、なんで不安を煽ることを言う。現に薫は眉間に皺を寄せ、視線をうろうろと彷徨わせていた。怒るか、それとも泣くか。

「困りました」
「…薫?」
「…だってもう、わたしは六郎様の意のままなんですもの」

六郎サンが顔を上げる。腰を曲げて薫の瞳を覗き込み、赤い頬が見えなくなる。普段冷静な六郎サンでも甘ったるい空気を発することに驚いた。忍の俺が女と交わすものとは全く違う、優しくて温かい情。
あの人が奥さんを大事にしていることなら知っていたが、実際に目の当たりにすると肌がむず痒くなる。六郎サンが薫の手を握る。妬いてしまいます、という小さな声なら俺の耳にも十分届いていた。結局、自分の妻に悋気を持たせたいからわざと他の女の話をしたのか。呆れた俺は翳した掌を額に当てた。ガキのような企みだが、昨夜の居場所を正直に言う分六郎サンは大人だ。

「では薫、もう少しだけ貴女を私の思い通りにさせてください」
「…え?」
「暫く、城で暮らしませんか?」
「…え!?」
「数日の後に政務が多量に湧いて出てきます、また屋敷に帰れない日が増えるので」

そういやどこからかの返書の期限が数日後で、忙しくなるのはそれからだと幸村のオッサンが言っていた。だから今日を休暇に出来たわけだが。薫の驚く声に六郎サンが姿勢を元に戻す。見開いた眼がみるみるうちに嬉しそうに細められていく様が樹上の俺にも見えた。こんなに喜ばれて六郎サンも満更でもなさそうだ。それに引き換え俺はこんなとこで何やってんだろうか。薫が両手を合わせてはしゃいでいる。

「じゃあわたし、皆さんのご飯をお作りします!!」
「それは城仕えの者の仕事ですよ、薫」
「あ…ええと、それなら伊佐那海様が食べるお菓子を作ります!!」
「…何百と要るのでとても骨の折れることですが」
「………」

良家の出ではない薫は他人に何かをやらせることに慣れていない。仕事をしようと意気込む細君を六郎サンがやんわり制する。伊佐那海と同じくらいころころ変わる表情を宥める物言いでさえ優しい。

「貴女は城にいてくれればそれで十分ですよ」
「でもお城に置かせていただくのならせめて何かお役に立ちたいです、だって」
「…だって?」
「………お城にいたって、いつも、六郎様のお傍にいられるわけでは、ありませんから」

拗ねた顔がみるみるうちに朱に染まる。二人の髪を揺らしていた風が過ぎ、葉擦れの重なりが止む。俺の周りと違う時の流れに、ざわざわしたものが足元から這い上がった。
この薫、遊女より余程質が悪いんじゃねえか。女は男を駄目にする生き物だなんて言うが、好いた女からこんなことを言われたら堪らない。六郎サンが奥方を大事にするのも理解できるし、手放す気などさらさらないだろう。それに、六郎サンの背中が昼にそぐわない濃密なものを纏い始めてもまあ、不思議ではない。
しかしこうなると完全に声を掛ける機会を逃してしまった。頃合いを見計らってまた訪れた方がいいと判断し、一度この場を離れることにする。海野夫妻は爆発しろと思いながら俺は樫の木から離れようとした。翻った忍装束と葉が触れ合い、がさりと音がしたのはその時だった。

「!!」
「───どうしましたか才蔵、そんなところで酔い覚ましでも?」
「えっ、さ…才蔵さん!?」

最悪だ。六郎サンが気配を漏らす筈がない。勿論今の不自然な音を耳敏く聞き付け、こちらを見上げている。先程の眠たげな様子はどこに行ったのか、完全に覚醒した顔。驚いた薫が自らの旦那にしがみつこうとし、しかし相手が俺だとわかり慌てて身体を離した。六郎サンの眉が益々顰められる。忍として余りに初歩的なしくじりに舌打ちし、塀の外に降りようとしていた足を方向転換した。
枝を蹴って屋敷の庭へ。六郎サンの冷ややかな左眼が恐ろしい。公事に引き出されるような心地だ。「玄関から入ってくださってよかったのに」という薫の声に少しばかり和まされる。溜息を吐きながら六郎サンが腰を浮かせた。

「…何用かは後で聞くとして、ひとまず茶でも淹れて差し上げましょう」
「あ、お茶ならわたしが」
「薫は才蔵の相手をお願いします。とびきりの一杯を用意しますので」
「………」

相変わらずの淡々とした口調で六郎サンが厨へと姿を消す。持ってくるものはとびきりの苦い茶だろう。しかも俺の分だけ。早く帰りたいと切に思うが、用件を伝えない限り城には戻れない。オッサンのことを言えば更に怒る筈だし、今日の俺はいつも以上にどうあっても六郎サンを不機嫌にさせてしまう。やりづらさに俺が後頭部をがしがし掻くと、残された薫は首を傾げる。

「…才蔵さん、大丈夫です?」
「あー…いや、その、お前こそ」
「わたし? ええと…六郎様が花街に行かれたこと、ですか?」
「それもあるけど」

六郎サンが妬いてほしいと思えば妬くし、上田城に来いと言われればきっと数日中に薫は登城するだろう。さっき意のままと、思い通りと表現していたことは、薫が六郎サンに従うということじゃないのか。二人は夫婦であって、忍の俺みたいに主従関係を築くわけじゃない。色々と腑に落ちない俺に、薫は暫く言葉を探してからゆっくりと口を開く。

「わたしは出来る限り六郎様と一緒にいたいですし、多分六郎様もそう思っていらっしゃるからお城で暮らすことを提案したんだと思います。
焼きもちは…夫婦であっても気になってしまうから」
「他に女がいないか?」

眼差しを伏せた薫に問うと首を横に振られた。いつの間にか朝日と呼べない程高く昇っていた太陽が、縁側の中へ光を注ごうとしている。目の前の庭が眩しい。今日は暑くなりそうだ。

「…わたしばかり六郎様を好きなんじゃないか、ということです」
「………」
「六郎様もご自分ばかりがわたしを好いているのではと気にされていると思います。
…自惚れかもしれませんが」

だから口にするし、口にさせようとする。そう言った薫が赤くなった頬を両手で押さえている。何も言えなくなった。本当にこの薫は質が悪い。すれ違いのようで意地の張り合いのようで、俺が聞かされたのはただの惚気じゃねーか!首筋がぞわぞわして、身体の内側まで掻き毟りたくなる。夫婦になるってこういうことなのか?混乱した俺が視線をうろつかせていると、厨の方から六郎サンの足音が聞こえてきた。それを耳敏く聞き付けた薫が素早く尋ねる。

「それに、六郎様と深い仲の女人がいないことは才蔵さんも知ってますよね?昨夜一緒だったんでしょう?」
「………」
「お待たせしました、茶葉を探すのに手間取りまして………どうしましたか才蔵?」

盆に湯呑みを三つ載せて戻ってきた六郎サンが、額に手を当てた俺に訝しげな目を向ける。薫は早速茶に口をつけている。妻を見る六郎サンの眼差しが柔らかい。見つめ合い微笑む二人を見て漸く悟る。こいつらの雰囲気は夫婦と言うより恋仲のそれに近いのだ。だからこんなに居た堪れなくなるし、軽く眩暈がするのは昨夜の酒の所為でも陽光の所為でもないだろう。水面に反射した強烈な陽の輝きを見ている心地。薫が城で暮らすようになったらどうなってしまうのか、考えるのも面倒だ。爆発しろ、と言うかもう勝手にやっていてくれ。
湯呑みを手にした俺が苦過ぎる中身を噴き出すまで、あと僅か。


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