笹舟が岩場に乗り上げた。恐らく大座礁だ。「若と私もあるものを賭けて一局交えましたので」。そう言う六郎様は至極真面目な表情で、わたしの思考も停滞したかのように危うく納得しそうになる。しかし六郎様の手にぐいと腕を掴まれた時、一瞬にして我に返り慌てて身を引いた。

「な、何故ですか!?」
「薫が負けたので。
勝った私に接吻するのです」
「そんな話聞いておりません…!!」

何時の間に接吻を賭けた将棋になっていたのだろう。やはり頭が上手く働かない。その上六郎様は「三度対局して何れも私が勝ちましたので、三度接吻してもらいましょうか」と無体なことをさも当たり前のように宣告なさる。目の前がくらりと揺れた。

「何故せ、せせせ接吻」
「薫からは一度もしてもらったことがありませんので」
「そんな…!?」
「減るものではありませんし、そもそも私達は夫婦でしょう?」

六郎様の端正な顔が迫ってくる動きに合わせて背中を反らすも、強い力で引き戻される。その繰り返しが続いた。女子から口を吸うなどふしだらにも程があるし、恥ずかしくて出来るわけがない。首を横に振り続けるわたしに痺れを切らした六郎様が素早く体制を変えた。目にも留まらぬ早さでするりと脚がわたしの腰元に巻き付く。完全に六郎様に抱き込まれたわたしは、とうとう身動きが取れなくなってしまった。

「っ六郎様…!!」
「…いいではないですか、」

これではわたしこそ蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のようだ。引き攣る喉で尚も制止の声を上げようとすれば、六郎様が更に顔を近付けてきた。鼻先が触れる。肌を撫でる吐息に肩が竦む。

「あなたが私に頻りに視線をやるから対局の間私は集中出来なかったんですよ」
「、」
「それに私だってあなたをずっと見つめていたのに、…あなたは盤ばかり見て気付きもしなかったんですから」

王手を掛けられた際の対処にはみっつのやり方がある。しかし、腕を掴む六郎様の手と肌蹴た着流しから伸びる脚がわたしの動きを封じていた。その上、真っ直ぐこちらに向けられる視線により他の逃げ道など目に入らない。そして、薫、とわたしの名を囁く声が六郎様の意思を覆せないことを示していた。
柳眉をつと顰める六郎様の表情は、どこか拗ねているようにも見える。触れられているところがじんじんと痛いくらいだった。───投了。「眼を、閉じてはいただけませんか」と小さな声で言うことが精一杯のわたしに、六郎様は姿勢を正してからゆっくりと瞼を伏せた。

「───っ………」

術中に嵌っていることは明白だった。迫り来る身体を阻むよう胸元に当てていた手が震える。まなこを閉じた六郎様からは恥じらいなど微塵も感じられない。───まさか、姿を垣間見ていたことが知られていたなんて。わたしは六郎様の言う通り自分が指す番になると盤上に意識を集中させていたわけで、六郎様がわたしを見ているなど考えもしなかった。一方的な視線を思うと頬が熱くなる。六郎様は何でもお見通しだ。きっと、わたしがこれを断りきれないことも。結局のところ何がどうあったってわたしはこのお方を嫌いになどなれないのだった。愛しくて仕方ない。だからこそ、触れたいと思う。
身を起こし唇を寄せる。軽く押し当てて、離す。肌がぞくりと波打った。六郎様の睫毛が微かに動き、薄く色付いた口の端が持ち上がった気がする。これをあと二回も繰り返さなければならないと思うと眩暈がしそうだ。もう一度顔を近付け、先程よりも長く柔らかな感触を味わう。加速し続ける鼓動。羞恥が過ぎて目の奥がつんとしてきた。最後に短く口付けて終わりにしようと首を傾ければ、腕を掴んでいた六郎様の両の手が不意に離れる。途端、後頭部を押さえ込まれ身体を引き寄せられた。

「───!?」

顔を離すことが出来ない。六郎様の両手はわたしの背中と頭に回っている。瞼の裏に火花が散った。音を立てて唇を吸われ、全身を熱いものが駆け抜ける。息が苦しい。心の臓が壊れてしまいそうだ。永遠にも感じられる接吻が終わった時、は、と小さく漏れた吐息には熱が篭っていた。「参りました」と力なく言うわたしを、六郎様が強く抱き締めた。
くたりと六郎様の胸元に凭れ掛かったわたしは四方に張り巡らされた蜘蛛の網に掛かったままだ。歩の駒のようなすっかり丸みを帯びた歯で手向かおうとも細く頑丈な糸が切れる筈もなく、六郎様もびくともしないのだろう。

「…それで、幸村様とは一体何を賭けたのです」
「ああ、…天下を」
「………それ、賭け将棋の内に入ります…?」

ゆっくりとわたしの髪を梳く六郎様に尋ねてみると思いも寄らない答えが返ってきた。じとりとした目を向けるわたしに、六郎様は「勿論入ります」と涼しい顔を見せる。やはりこのお方には敵わない。どうしたって六郎様を退けることは不可能だし、わたし自身六郎様から逃れるつもりもないのだから。次は負けませぬ、と言うわたしを六郎様がまじまじと見た。緋の瞳に触発されて全身の熱がぶり返す。わたしを抱き締めていた六郎様の手が頬に添えられた。ひやりとしているようで、確かに温かさを持っていた。

「薫が望むのなら、何度でも」

六郎様の穏やかな眼差しがわたしを捉えた。降りてくる唇に合わせて眼を閉じる。幸せで泣きたくなる程の思いが、止まったままでいた笹舟を押し流す。陽光に煌めく川面を下り、どこまでもどこまでも進んでいく。


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