豊臣派の何某の家の、分家のそのまた分家。
薫の実家は海沿いにある小さな領土にある。非常に慎ましやかな家だった。母を早くに亡くし、歳の離れた姉が彼女を育てたが、その姉も太閤の重臣に見初められ嫁いだ。妻も長女も自らの許を去り、残るは薫だけだ。嫁にはやらぬ、婿を取る。彼女の父はそう言って憚らなかった。淑やかで見目麗しい彼女は周囲からの評判も高かったが、唯一の難点がこの父親だった。何をお高くとまっていると揶揄されようが彼は薫を溺愛した。そこに降って湧いた縁談が、海野家の嫡男とのものだった。
構いませぬ、と六郎は即座に口にした。

「私には双子の弟がおります故、婿養子となることは一向に構いません」

隣で縁談の仕掛人である幸村が煙管を吹かす。六郎の向かいには薫が座り、幸村の正面では彼女の父が額から汗を滝のように流していた。文は何度か貰っていたが、実際の対面はこれが初めてだった。
家柄は海野の方が格が高い。真田は豊臣に属する勢力の中でも比較的穏健派として通っているし、娘も上田にて平穏な、そして今より豊かな暮らしを送ることが出来るだろう。申し分なさすぎる縁談だ。ただ、何故。よりによって薫を。もっと相応しい姫が其処彼処にいるだろうに。父は慌てていた。
その横で、薫は只管目を伏せていた。とんでもない話になった。どこで何を聞きつけたのやら、まさか自分に白羽の矢が立つとは。しかもわざわざ家まで押しかけてくるなんて───真田幸村の行動力には感嘆を覚える。
財力も権力も雀の涙程度の、この取るに足らない家と結ぼうと得になることは何一つとしてない。幸村がこの小姓を疎んじているのかと邪推したが、二人の間に不和の空気があるわけでもない。薫はぼんやりと考える。本当に手放そうとするのか。こんなにも、美しいひとを。

「し、しかしながらですね…」
「悪い話ではないだろう、御父上?」

悠然とする幸村に気圧された父が声を裏返らせる。六郎は冒頭の言を述べた後微動だにしていない。憂いを湛えたような表情。目が合ったら溺れる、そんな危うさを秘めたひとだと思った。先程初めて対面した際薫があからさまに顔を逸らした所以はそこにある。以来、彼女はずっと俯いたきりだった。奥ゆかしいと思ってくれればいいのだが。
この家なら自力でどうとでもなる。本家で働くか姉の口添えで大坂に出ればいい。跡継ぎは養子でも迎えよう。何から何まで自分でこなす生活だ、このひとには似合わない。真田のような名の知れた家を通した縁談は断りにくいが、───でも、多分、互いのためには、なかったことにする方がいい。そう考えた時、腿の上にある薫の指先がぴくりと動いた。
動悸が速くなる。身体が硬直しそうになる。薫にはわかっていた。この縁談があった時点で結果は決まっていたことも、とうに自分が六郎に惹かれていることも。真田の小姓で海野家の嫡男という地位をあっさり捨てようとした六郎を知りたくなった。このひとの暮らす上田を、このひとの傍で、見たくなった。美しいこのひとに、寄り添いたいと思った。顔を上げる。六郎を正面きって見据えると、薫の瞳を予期していたのか彼も視線を真っ直ぐ前に向けた。目を合わせるより前、恐らく一目見た時から、既に薫は六郎に恋に落ちていた。「わたしは、」勝手に口が動いていた。

「わたしは、あなた様に嫁ぎます」

父が呆然と涙を流す真向かいにて、幸村が小さく笑った。




夢に誰かが現れたなら、その人物が夢に出たい程己を想っているという証だと聞いたことがある。薫が目を開けた時、辺りは闇に包まれていた。しっとりとした夜の匂いかする。夕餉の後文机に向かっていたら眠ってしまったらしい。屋敷はしんと静まりかえっている。

「…夢…」

半年程前のことにも関わらず、随分遠い昔のことのようだと薫は思った。あの日のことが夢に出てきた転寝は初めてだった。物心ついた頃には母はおらず、姉も請われて嫁に行った。恋をしている女性が身近にいなかった彼女は、それが一体どのようなものなのか知らなかった。まるで故郷の海にいるような─陽に煌めく飛沫にはしゃぎ、ぷかりと浮かんでいる間は心地よく、時折溺れれば苦しみを味わう─本当に斯様なものなのか。だとしたら薫は恋に関してまだ未熟だ。初めて会った時からずっと、六郎に溺れているようなものだった。
枕にしていた腕が痺れている。灯明に火を点さねばならない。この刻、屋敷にいる人物は彼女一人だけだった。通いの女中は帰ったし、六郎はいつもの如く城にいる。少しの切なさを感じながら薫は部屋の障子を開けた。半分欠けた月はまるで主のいないこの屋敷のようだ。

「起きましたか」
「…え?」

ふと聞こえた声に彼女は視線を移した。鼓膜に自然に入り込む柔らかな響き。庭に面した廊下に影が伸びている。薫は瞬きを繰り返した。
───まだ、夢を見ているのだろうか。

「…帰りました」
「…六郎様…!?」

そこには六郎が座っていた。短い上着と袴、右眼を包帯で覆う姿は夢の中で見たものと相違ない。暗がりで深みを増した赤の瞳が彼女を捉えている。はっと目を見開いてすぐ、薫は夫の傍に駆け寄り膝を折った。

「申し訳ありません、折角お帰りになっていらしたにも関わらず…!!」
「いえ、何だか起こすことが躊躇われたので」

両手を床に着き頭を深々と下げようとする彼女を六郎が制する。久々の帰宅だというのに夫を迎え入れられなかったことを悔やむ気持ち。顔を合わせる喜び。夢に出てきたことで現実でも六郎に会いたいと思っていたところに、ちょうど当の本人が現れた驚き。それらが入り混じり胸がいっぱいになる。「お帰りなさいませ」と薫がはにかめば彼の口元は更に柔らかくなった。
雲一つない夜空では星達が自らの存在を主張しようと頻りに瞬いていた。それらを統べる月は鮮やかに輝いている。六郎が薫に隣に座るよう促した。おずおずと腰を落ち着けた彼女はまだ夢を見ているような顔だ。

「今日は何をしていたのです?」
「…ええと、掃除をしたり洗濯をしたり、坪庭の手入れをしたり…あ、父上から文が届いたので目を通しておりました」

二人が座する廊下からも土を掘り返した跡の残る庭が見えた。前回帰った時よりも植物や石が増えている。妻の器用さに彼は舌を巻いた。実家で人を雇っていなかった薫はその習慣から何でも自分でやってのけようとする。細いがしっかりした形の手。他の者の仕事を奪ってはならないと六郎が指摘すると、

「…それもそうですねえ」

と薫は大きく息を吸い込んだ。不思議な感覚を腑に落とすような表情を彼はじっと見る。素直で、労を惜しまず、淑やかで見目麗しい。彼女は六郎の発言の裏に隠された真意に気付いているのだろうか。
恐らく、幸村は元より薫が上田へ嫁いでくることをわかっていた。心根の優しい彼女の性質を。彼女が六郎に恋をすることを。六郎に倹しい生活はさせられない、ならば自分が嫁ぐしかないと結論づけるだろうことを推測していた。若殿は頭が切れる。薫の元には急速に老け込んだ父親からの淋しさを綴った文が届いていた。仄かに感じる潮の香。あの父のことだ、娘を思いすぎて先の夢に現れたのかもしれないと彼女は考えていた。

「…なら、今後はお手伝い程度に留めておくことにしますね」
「………」

暫く黙りこくっていた薫が不意に顔を上げた。両の掌を合わせてにこりと笑う彼女を六郎がその左眼で見つめる。月の光が陰影を色濃く映し出していた。彼女の優しさが全て自分に向けられたら、一体どのような心地になるのだろうと六郎は思うことがある。

「…今日、午睡をしてしまいまして」
「、六郎様がですか」

薫が意外そうに首を傾けた。生真面目な六郎も勤務中に微睡むことがあるのかという顔をする。六郎の頬に睫毛の影が浮かぶ。無防備なままでいると吸い込まれてしまいそうだ。彼の視線に彼女はどきりとした。初めて会った日からずっと、薫は六郎に溺れている。

「───夢にあなたが出てきました」

夢に誰かが現れたなら、その人物が夢に出たい程己を想っているという証だと聞いたことがある。

「現の薫に、会いたくなりました」
「…六郎様」

何か言葉を継ごうとしても、頭も口も上手く働かない。同じ思いを抱いていたことも、それが理由で六郎が屋敷へ帰ってきたことも、薫の頬を熱くさせるに十分な要素だった。転寝の中で見た初めて会った時の夢は、もしかして彼によってもたらされたものだろうか。また幸村に何か言われたのではないか、どう口実をつけて城を後にしたのだろうか。知りたいことは多くあるが、まずは───今この時が夢の続きでないと、幻ではないと確かめたくなる。満ちる時を待つ上弦の月が二人を照らしていた。
先に手を伸ばしたのはどちらだったか。温もりに包まれた今となっては、もうわからない。


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