久方ぶりの登城だったが、案外道は覚えているものだった。
門の前に立つ兵に用件を伝え、案内の者の背中を追う。「お部屋へお通しいたします」。待つ必要はないらしい。用が済んだら城下で寄り道でもしようと考えながら後に続き歩いていると、遠くからたたた、と小走りに近付いてくる足音が聞こえてきた。

「薫ー!!」
「伊佐那海様、お久しゅうございます」

廊下の角を曲がったところで顔を覗かせた伊佐那海様はわたしの腕をぐいと掴んだ。まるで兎が跳ねるような足取りだ。

「もう、そんな堅っ苦しい言葉使わなくていいって言ってるのにー。
お茶飲む? みんなこっちにいるよ!!」
「あ、えっちょっ」

頬を膨らませた後すぐに楽しげにわたしを引っ張る伊佐那海様。瞬きするより早く変わる表情はどれも可愛らしい。意外と強い力の伊佐那海様にわたしは片手に持っていた風呂敷を慌てて持ち直した。案内の者はすっかり呆気に取られている。

「あの、伊佐那海様、」
「美味しいお菓子もいっぱいあるよー」

たたらを踏みながら廊下を進む。上田城には伊佐那海様をはじめ個性的な方が多く住んでいて、わたしも一応皆さんと顔見知りではある。ただ、今日は城を訪れた目的は別にあった。伊佐那海様が広間の襖を開ける。

「お、薫じゃねえか」
「久しぶりね」
「…あ…お、お久しぶりです…」

部屋の密度は高かった。忍且つ与頭という立場の才蔵さんに、それとは別に部下を率いている佐助さん。くの一のアナスタシアさん。寡黙な筧様に近寄り難い由利さん、伊佐那海様の兄上の三好様にまだ幼い弁ちゃん。根津様は恐らく散歩だろう。皆さん口々にわたしの名を呼び歓迎してくれる。伊佐那海様がわたしを部屋の真中へ導こうとするが、ここで腰を落ち着けたら長時間拘束されるだろう。困った。

「薫、ほらほら」
「おら伊佐那海、薫は他に用があって来たんだから離してやれよ」

しかしそこは皆さんの方がわかっている。わたしに代わり才蔵さんが呆れた顔で伊佐那海様を止めてくださった。「そうなの!?」と愕然とする腕をやんわり解きわたしは苦笑した。この言葉を使う機会もまだ少ないため、若干の照れがある。皆さんの表情が微笑ましいものを見るそれに変わった。

「はい、今日はその…主人に会いに」





明鏡止水のような御方だ、といつ見ても思う。

「もう少し六郎も家に帰らせてやらねばと思っておるのだがのう」
「いえ。
主人がこうして幸村様にお仕えしておりますこと、わたくしも恐悦至極に存じます」

少し、予想外のことが起きた。主人に風呂敷を渡して城を辞するつもりが、若様に挨拶することになるとは。顔を上げると幸村様は「出来た嫁御よ」と扇子で口元を隠した。ぱん、と扇面の広がる音が空気を打つ。わたしの夫はその傍に座していた。
───海野、六郎様。
真田家にお仕えする家系の嫡男の許にわたしが嫁ぎ三月。背筋を伸ばし畳の一点を見据える姿は彫像の如く揺らがない。幸村様の軽妙洒脱な空気に溶け込んでいるようで、同時に静かな気配を放っていた。伏せた瞳を長い睫毛が縁取る。波打つことのない水の膜と、よく磨かれそれ自体が澄んだ光を放つ鏡。実に美しい六郎様の脇にはわたしが持参した浅縹の風呂敷が置かれていた。
六郎様は幸村様の小姓でいらっしゃる。幸村様をお守りし、お世話し、最も近くで補佐をするお役目。故に、兎角忙しい。朝は幸村様を起こすところから始まり、日中は政務を行っていただくようせっつき、夜も側で寝泊まりする。婚儀にあたり城から離れた場所に邸宅を構えたはいいが屋敷に主が戻ることは滅多にない。浅縹の中には包帯や手拭い、硯などを納めていた。身の回りのものをお届けすることと、十数日ぶりに六郎様のお顔を拝見することを目的としてわたしは登城したのだった。

「そろそろ失礼いたします」
「うむ。
六郎、送ってやるがよい」
「御意」

暇を申し出ると六郎様がすっと立ち上がった。表情ひとつ変えないまま、わたしが下がる動きを襖を開けて待っている。先程風呂敷を手渡した際「助かります」と紡いだ薄い唇さえ淡々としていた。明鏡止水のような御方。今宵の寝床も上田城の自室だろう。
わたしばかりが焦がれている気がする。それでいてきっと六郎様はその水鏡でお見通しなのだ。心の臓の震えを。頬が常より赤いことを。わたしの恋慕を。わたしは、六郎様をお慕いしている。六郎様はどうして、わたしでよかったのだろう。

「それでは」
「いつでも遊びに来るがよい、薫」

部屋を出る間際に幸村様を振り返ると、閉じた扇子諸共手をひらりと振られてしまった。片方の口の端が持ち上がった、上目でこちらを見る意味あり気な笑み。六郎様が「若…」と溜息を吐いた。窘めているようで拗ねてもいる声色に、六郎様もこんな声を発するんだと初めて知る。訳がわからず一礼して廊下を踏んだ時、幸村様が六郎様の名を呼んだ。

「はい?」
「六郎、───明日な。」

六郎様のかんばせが、歪んだ。

「───っ………失礼いたします…」

ほんの些細な変化だったが、わたしはそれを見逃さなかった。柳眉の形が変わり、唇は真一文字に引き締まる。明日何があるのかわたしにはわからない。わたしは六郎様を知らないのに、六郎様は多くのことを知っている。帯の少し上、自分では触れにくい背の真中に手を添えられると肌が粟立ちそうになることも。促されるように部屋を出る。並んで廊下を歩き、六郎様の部屋に風呂敷を置いた後、「若の嗅ぎ煙草の、」と言う涼やかな声が聞こえた。

「…種が、なくなったので。
求めに行かなければならないのに失念していました」

愛煙家の幸村様が手持ち無沙汰に弄んでいらしたものは、煙管ではなく扇子だった。細かなところまで気が利きそうな六郎様が刻み煙草を切らす場面を想像し難い。はあ、と間の抜けた返事しか出来ないわたしを六郎様は横目で見た。

「あなたの所為ですよ」
「…はい?」

伏し目がちに視線を向けられ血が滾りそうになる。赤みを帯びた瞳。ほっそりとした輪郭に、唇の下の黒子も。極めつけは六郎様のこの一言だった。

「…あなたが、城へ来ると聞いたので」

色々と手につかなかったのです。
ふいと顔を背ける六郎様に、何か大きなかたまりを落とされたような気がした。わたしという存在が全て水で構成されていたら、ばっしゃんという音と飛沫を思い切り派手に立てているだろう。
わたしが城へ行くことを知った六郎様は、主人の嗜好品のことすらそっちのけとなる程落ち着かずにいたらしい。幸村様にそれを指摘されてから仕方なくわたしを送りがてら煙草屋へ向かおうと思っていたのに、幸村様は全て悟っていた。「明日な」───つまり今日は城へ戻らなくていいと機先を制されてしまったのだ。何もかもを見越したあの含み笑い。部屋を出る直前の六郎様が顰め面になった理由は、今日一日幸村様に散々からかわれていたからだった。意地の悪い方だ。あの方はまた人で楽しんでと六郎様が溜息を吐く。

「───城下へ寄ってから一緒に屋敷へ帰りましょう、薫」

いっときが、一日中に。送っていただくだけだったことが、共に過ごせるものに。先刻考えていた寄り道が、一人ではなく二人で。全身が熱を発し始めた。頬が緩む。六郎様はいとも容易くわたしの水面を揺らしてしまう。ならば、わたしは六郎様の内をどれだけ動かすことが出来るのだろうか。

「、」

「では、煙草屋の後は茶屋へ参りませんか?」そう尋ねて六郎様の手を取ると、呼吸が一瞬止まる気配がした。幸せが湧き上がり、満ちて、溢れて零れてしまいそうになる。
城を出た途端握り返された手に、わたしは益々うれしくなった。


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