「また六郎に怒られても知りませんよ」。数歩後ろを歩きながら零す妹を幸村はちらと振り返った。辺りにはざくざくという二人分の足音が響いている。しかし片方の奏でる音には些か疲れがあった。息を荒くして背後に続く薫に彼はにんまり口元を横に伸ばす。

「なあに、おぬしと共に説教をくらうのであれば怖くはあるまい」
「………」

六郎は薫には甘いからのうと冗談めかして笑う兄に彼女はじとりとした目を向けた。先日篠笛に関して二人で地獄を見たことを忘れたのか。薫が纏う金赤の縮緬地は木々の鮮やかな緑に良く映える。兄妹は屋敷を抜け出し城を囲む森の中を歩いていた。急な坂は薫が普段通らない道であり、目指す場所は小高い丘と言うより山に近い。幸村に着いて行きながら彼女は奥歯を噛み締めた。暑い最中の山歩きは思っていた以上に消耗する。そして思っていた以上に健脚の兄の後を追うことで精一杯な自分に少しだけ悔しくなる。それでも一切音を上げない薫に頬を緩ませ、幸村は妹をここまで連れて来た理由を切り出した。



ずっと泣きたかったんだろう



遡ること数日前、未だ上田城に滞留していた石田三成と直江兼続に薫はきっぱりと言い放った。───嫁になど行かぬ、もしもまた縁談を持ってこようものならば長兄の信幸に助けを求める。徳川派である伊豆守の元へ行かれては堪ったものではない。彼女の言葉は常に強気の三成を顔面蒼白にさせ、沈着な兼続を噴き出させた。幸村には妹の指先に巻かれた包帯の白さと唇の軟膏の光沢がやけに印象に残っている。

「薫、本当にあれでよかったのか?」

服部半蔵が率いる伊賀異形五人衆による襲撃。今回は難を逃れたが、いつまた他の勢力が上田を狙うかわからない。薫にも危険が迫る可能性だってある。それは勇士を欲した幸村に端を発していると言えるかもしれない。故に、己から離れた方が傷付かずにいられると思っていた。妹を争いから遠ざけたい、彼の考えは同時に薫はもう籠の中にはいないと認めていることを示している。
暫く返事がない薫を不思議がり幸村が振り返ると、彼女はとうとう足を止めていた。掌を当てている木の幹は佐助と才蔵が武器を交えながら主を探していた辺りだろうか。幸村が焦り引き返して手を差し伸べる。顔を上げた薫の瞳には眩しい陽光を反射した強さが宿っていた。ぜえはあと荒い息の間に苦しげな声が漏れる。

「…でも、兄上は、信じておいででしょ、?」

───勇士達を。早く参りましょうここまでして兄上が私に見せたい景色なら余程美しくないと承知しません、という途切れ途切れの声。幸村を追い越して一歩一歩木履を踏み締める薫に笑みが漏れる。負けず嫌いな妹も愛いものである。彼女は兄の背に大人しくおぶさりここを歩いた幼い頃を覚えていないらしい。

「…屋敷…騒ぎに、なっていそうですね」
「…ま、恐らくな」

以前ここに一人で来た時の騒動を思い返し幸村は苦笑した。勇士総出で探された上六郎には説教をくらい、おまけに城下へ出た薫は奥州の者と邂逅していた。あれから実に様々なことがあった。しかし、皆が慌てて探しに来るだろうことに変わりはない───主に、彼女を心から大事に思っている忍頭など。
他愛ない話をしている間に森の終わりがやって来た。視界が開ける。ゆっくりと歩を進めていた薫の足が再び止まった。眼下に広がる景色に絶え絶えだった呼吸までもが遂に止まりそうになる。

「…す、ごい」
「お気に召されましたかな、姫?」

幸村が時折一人ふらりとやって来るここは、上田の町を一望出来た。緑鮮やかな山に囲まれた家々は夏の陽射しにきらきらと輝いている。田畑には生い茂り、次第に実を着け収穫の時を迎える。二人の立つ場所まで聞こえてきそうな活気が伝わる。薫の上下する胸元が少しずつ落ち着いていく。幸村は景色をただじっと見つめていた。彼はこの地を治める主であり、隣に立つは血の繋がった妹である。そして上田には二人を守る十人の勇士がいる。彼らがいればきっとこの先何が起きようと大丈夫だという思いは共通していた。
丘の上は城にいる時よりも気温の低い風が吹く。緩やかな風が薫の髪をゆっくり靡かせていた。幸村と同じ路考茶色。より長く艶やかな髪がさらさらと揺れる。町を見下ろす微かに笑みを湛えた横顔が、堪らなく愛しい。

「輿入れも嫌ですが、私は上田を離れたくないのです」

暫く言葉を発することなく佇んでいた薫が不意にぽつりと零した。視線は変わらず景色にある。もっとあちこちに羽ばたきたいものだと思っていた幸村が横を向くと、彼女は小さく口を尖らせた。すっかり傷の癒えた、ふくりとした唇。

「だって、こんなに素敵な場所を二度と見られないなんて考えられません。
それに京に行ってわかりました、私には上田の住み心地が一番です」

豊かな自然と民の笑顔があり、見ず知らずのおなごに対して奥州の者も「真田の治世が巧い」と世辞を言ってしまう─薫の悪戯っぽい笑みに幸村は複雑そうな表情になる─上田。生まれ育った土地だからこそ愛着はあるが、それだけではない。兄を発端とした出会いを、人との繋がりを、大切にしたい。

「皆がいるここが大好きなのです。
兄上のいる上田に、いたいのです」

薫が笑う。目を細め口角を上げ、兄を見上げている。自由を知った愛しい存在が自らの意思でここに留まろうとしている、幸村にはそれだけで十分だった。腕を引き寄せ細い身体を閉じ込める。背中に手を回して折れそうな程力を籠める。森の香り。少し高い体温。騒がしい気配が近付いてくるまで、幸村は薫を強く強く抱き締めていた。

( 20121009 )

prev next

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -