頭上からは夏の鮮烈な光が降り注いでいた。
森の中は縦横に伸びる枝が空の殆どを隠しているため、幾分かひんやりとしている。しかしその隙間から入り込む光を青々とした葉が散らしていた。太枝に座り幹に身体を預けているアナスタシア自身の金色の髪が、更にそれを反射する。
上田の城には居辛かった。勇士達や奇魂の情報は知り得たこと全てを服部半蔵に流していたし、そのことで多くの者を傷付けた。命はないだろうと覚悟を決めていたが、幸村の思惑か気紛れか上田に留まることを許された。かと言って前と同じように皆と接することなど簡単には出来ない。だから彼女は物見と称して日がな森で時間を潰しているのだった。
長閑な日々。反間として過ごしていた頃は見落としていた穏やかさを感じる。ふとここに近付いてくる足音をアナスタシアは聞き付けた。時折会話を交わす才蔵や甚八よりも野草を踏み締める音が軽い。ゆっくりとした足取りは複雑なリズムを刻み、四つ足の獣を思わせる。

「…ヴェロニカ?」

枝を蹴ってたん、と地に降りる。足音の向かってくる方角を見たアナスタシアは言葉を失った。夏の空を集めたような、天色の鮮やかな振袖姿がそこにはあった。

「…見つけた、アナ」

黒豹を従えた薫が、アナスタシアの目の前に佇んでいた。



浅い葛藤に崩れだす箱庭



薫とこうして会うのは随分と久しぶりである。アナスタシアにとって、薫は恐らく最も顔を合わせづらい人間だった。大切な者達を傷付ける存在を許しはしない、彼女がそういう性格だとわかっている。しかもアナスタシアはあの夜、薫を手酷く突き放したのだった。まなこが揺れる。珍しく速くなる脈拍。天色を彩る中黄の刺繍が夏に大輪の花を咲かせる植物を思い起こさせた。薫はアナスタシアの前に立ち、頬を強張らせている。視線は二人の足元の辺りを彷徨いていた。ここまではヴェロニカに連れて来てもらったのだろう、黒豹が温度を吸収する色の毛を持て余すように首元を後脚で掻く。しかし張り詰めた空気を感じたのか、やがて彼女達から離れた場所に座り込み身体を揺らした。熱を含んだ風が止む。口を開いたのは薫の方だった。

「私、何があってもアナはアナだって信じてる」
「…薫」
「でもね、」

声がわななく。地面の野草を見たままぼそぼそと喋っていた薫が勢い良く顔を上げた。少し高い位置にあるアナスタシアの瞳をきっと見据える。榛色に涙が溜まっていることに彼女は小さく息を呑んだ。そして、

「───ばかっ」

ばちん、と頬に痛みが走った。どこに秘められていたのかと思う程の渾身の力。薫に叩かれたのだと認識して数瞬、アナスタシアは反射的に頬を押さえようとした。無理もないと自嘲するような笑みが俯いた口元から漏れる。しかしその手は素早く伸びてきた薫の右手に掴まれた。掌がじんじんと熱い。そこから彼女が感じた全ての痛みが伝わってくるようだった。アナスタシアが小さな手を見下ろすと、指や手の甲に出来た傷が目に入る。六郎が作りかけていた篠笛を吹いたことにより指の腹を怪我したことは知っていた。しかし、傷口はまだ真新しく所々血が固まっている。当惑するアナスタシアを他所に薫は嗚咽の間から声を絞り出した。

「アナが…っ、ずっと、ずーっと上田にいるって言うまで、私アナのこと許さないから…!!」

涙が二人の手に撥ねる。頼りない肩が大きく震える。薫は両手でアナスタシアのそれを取り、中に何かを握らせた。指先で手繰り寄せ正体を確かめた彼女は瞬きを繰り返す。───空色の飾り紐。京で薫がアナスタシアへの土産として購入し、上田城に帰った夜に渡しに行こうとしていたものだった。伊佐那海が闇を爆発させた弾みで彼女の手から離れてしまった紐の端は微かに朽ちて欠けている。夏草で手を切りながら、薫は何日もかけて空色を探していた。
溶けていく。薫の熱がアナスタシアを溶かしていく。次々と涙を溢れさせる彼女にアナスタシアはゆっくりと息を吐いた。本当に、本当に困ったお嬢様だ。佐助の心臓を捉えていた剣の切先を瞬時に肩口へと変えた、あの機転を思い出す。薫は端から主ではない。それはアナスタシアも、薫自身もわかっていた。しかし、彼女の願いを断れなかった。その時点で既に、アナスタシアの氷には罅が入っていたのかもしれない。

「…とりあえず泣き止んでちょうだい、今度こそ佐助が本気で戦おうとするから」

細い指をそっと外し、手の中に閉じ込める。繋がれた手を、初めて握り返す。アナスタシアの言葉を聞いた薫がぶわと顔を朱に染めた。傍のヴェロニカが喉を鳴らし、草の上に寝転がった。

( 20121005 )

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