花緑青色の帯締めを見た記憶が随分と遠い昔のもののように佐助は思えた。薫に伝えた言葉は一字一句覚えている。彼女は強く、伊佐那海を救える。確かに彼はそう言った。しかし薫の決意を目の当たりにした佐助は声の限りに叫ぶ。

「薫…危険!!
ここで待て!!」
「大丈夫、そんなに近付くわけじゃないし直接触れもしないから」

半蔵の片手をいとも簡単に朽ちさせた闇と対峙するつもりでいる薫。呑まれれば命はないだろう。ふらつきながらも何とか止めようとする佐助に彼女は苦笑した。躑躅色の帯に差した包みを手に取り、革紐をしゅるりと解く。細長い布の中から取り出したものは一管の篠笛だった。六郎の隻眼が大きく見開かれる。皆が寝静まった頃、少しずつ手を加えていた篠竹の筒は部屋の飾り棚に仕舞っていた筈。幸村がそっと顔を逸らした。兄としてもそういう「役に立つ」という意味で渡したわけではない。

「その笛…!!
まだ完成しておりません!!」
「歌口と指孔があれば吹けるよ、問題ない」
「しかし!!」

当惑する六郎に薫は何てことないように管を撫でた。一切の装飾が施されていない、ただ乾燥した篠竹に穴を開けただけの簡素な笛は決して薫らしくない。六郎の部屋にて大事そうに包みを握り締めていた理由は中身がこれだと一目で見抜いたからかと才蔵は気付く。同時に、伊佐那海を助けるために篠笛を使おうとする意味をいち早く理解した。

「…薫、もしかしてそれで呼ぶのか、伊佐那海を」

京の茶屋で起きた不思議な出来事を才蔵は勇士と幸村に話してみせる。伊佐那海が離れた場所にいた─それこそ忍ですらわからない程の─薫が奏でていた笛の音を聴き留めたこと。それを伊佐那海は彼女に呼ばれているのだと表現したこと。そして、どこにいるのかもわからない薫の元へ一目散に駆けていったこと。彼女の音で伊佐那海が戻ってくるかもしれない。轟く低音ではなく涙混じりの声が聞こえる薫なら、出来る可能性はある。二人の間には目に見えない確かな繋がりがあると才蔵には確信があった。それが友情という言葉で言い表せるものなのか、それとも別の何かが秘められているのか、正体を突き止める暇は今の彼らに残されていない。才蔵が薫に向かって大きく頷いた。しかし佐助は彼女の袂の端を掴み尚も行かせまいとする。

「そんな…」
「…佐助、私はいつも佐助を信じてる」

静かな声。明かり一つない真暗な世界の中で薫が佐助と視線を合わせる。榛色が輝きを帯びていた。恐らく、彼が持てる全ての言葉をぶつけても止めることは出来ないのだろう。アナスタシアが離反した夜、薫は心配だからという理由で佐助がくのいちを追うことを制止した。二人が置かれている状況はその時と反対にある。薫に何かあったらと思うと佐助は居ても立ってもいられない。彼女が大切で、心配で、だからこそ無茶はしないでほしい。しかしあの夜の彼らと異なるところは、薫は自分がやれると信じていることだった。

「だから───私を信じて」

光が見える。彼女はこの暗い世界を、彼らを照らす月だ。夜空に浮かんでいるような淡黄色の振袖。凛とした薫の表情が眩しい。彼女を、その強さごと、守りたい。袂から手を離した佐助はその拳を握り締める。一瞬だけ視線を落とし、顔を上げる。瞳の中に不安はもう見当たらなかった。

「───任せた!!」

信頼が籠められた力強い言葉に、薫、そして才蔵が闇を振り仰いだ。



66



笛は六郎が慌てるのも無理はない状態だった。孔を開けた後鑢は殆ど掛けられておらす、細かな繊維がささくれ立っている。恐らくこれから丁寧に整え、漆を塗り、藤を巻き、篠笛にしては意匠を凝らしたものにするつもりだったのだろう。しかし指孔の間隔や大きさは薫の小さな手にしっくりくるものだった。音が鳴れば問題はないと薫は自らに言い聞かせる。
伊佐那海が閉じこもった球体は近くで見ると思いの外大きかった。空から星が降ってきたらこのぐらいなのだろうかと考えながら彼女は才蔵と並んで闇の中を歩く。

───もう…あふれちゃう、黒いアタシがどんどん大きくなる

辺りの空気は流れが早いようでも淀んでいるようでもある。肌の表面がぴりりと強張る気配。どこからか吹く風が薫の髪と袂を不規則に揺らした。地を這う音に才蔵が「うるせえ泣き声」と呆れるように漏らす。

「薫、怖くねぇのか」

半歩後ろに立つ薫に尋ねる才蔵。彼女の頬は青白く、体温が感じられない。笛を握る手にも力が掛かり微かに震えている。近くに来たことで闇が発する圧力を強く受けることとなった。強大な力を前に心臓を握り潰されそうになる。細い身体は余りにか弱く見える存在だった。怖いよ、と薫はぽつり呟くように言う。

「…でも、伊佐那海の方がもっと怖がってる」
「…」

伊佐那海と初めて会った日のことを薫は思い出す。秋草がざわめく頃、夕と夜のあわいに彼女は上田へやって来た。故郷を失った悲しみも敵に狙われる恐怖も、心の内に必死に押し隠そうとして明るく笑っていた。危機が迫ったとしても立ち向かう力のない薫と伊佐那海は、少しでも前に進むために手を取り合ってきたのだった。共に過ごした期間は思っていたより長くはないのだと彼女は改めて悟る。もしかしたら二人の間にある絆は、薫が認識しているよりも弱いものなのかもしれない。それでも、黙って見ているだけなど出来るわけがない。
唇で歌口に触れ僅かに首を斜めに傾ける。すうと息を吸い、目を閉じて頭に浮かぶものを一つひとつ眺めていく。皆の思い。掌の温もり。伊佐那海の笑顔。佐助の言葉。肺に溜めていた酸素を吐き出し旋律を紡ぐ。声が届くようにと、祈りをこめて。

( 20120930 )

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