「えええー…」

雑貨屋、大通りから外れた民家の庭、猫の溜まり場。何処を探してもいない三人に、薫は途方に暮れた声を上げた。
陽の光をたっぷりと浴びた野良猫の背に触れる。伊佐那海と町を歩いていた時に偶然見つけた細い路地は日当たりが良く、猫の往来が多い場所だった。三毛の複雑な柄を眺め彼女は溜息を吐いた。薫が店へ入った頃、佐助達の姿は既になかった。「大分前に出て行った」という店主の弁に、事情があるなら言付けを頼むなり蒼刃を遣わすなりすればいいのに不器用めが、と叫びたくなる。
青空が眩しい。自在に揺れる猫の尾を根元から撫でながら薫は浮かない表情になる。佐助は不器用で優しいから、元気のない伊佐那海を少しも放っておけないのだろう。胸の中がもやもやするが、先の真っ直ぐな眼差しを思い出すと彼女の頬が熱を持つ。「薫は強い」と言った佐助の声。嬉しくて仕方なかった。しかし、少しだけ違うとも思った。本当の自分は強くなんかない。強くなれるのはきっと、皆がいるからだ。勇士が、佐助がいるから、前に進める。皆を信じることが薫の力になる。───故に、佐助達の所在がわからない今の彼女は行先を見失い立ち尽くすしかなかった。ひとまず大通りに戻ろうかと振袖の裾を払った薫の耳に、突然きゅっと喉を絞ったような高い声が聞こえてくる。

「雨春!?
どうしたの、佐助は」

薫から離れた位置、鼬の雨春が毛を逆立たせていた。前脚を地面から浮かせた姿勢は猫を恐れているからか。彼女がゆっくりと近付いてしゃがむと、雨春は鼻をひくつかせながら薫の肩に飛び乗る。伸びた爪が振袖の縮緬地に食い込んだ。動物でしかわかり得ない何かを感じ取っている様子に彼女の顔から笑みが消える。まさか、佐助の身に何か起きていたら。急ぎ肩口の存在に尋ねようとすると、

「!!」

雨春が尾を大きくしてぴんと立たせる。驚き、警戒する際のサイン。同時に薫の身体が強張り硬直した。あの時と同じ、腹の底が裏返るような感覚。青空が少しずつ陰り始めていた。



63



頭の中に浮かんだものは、冬の空が白む刻の記憶だった。色も温度も、柔らかさも。唇を合わせた時はそんなことを考える余裕はなかったのに、今になって薫との口吸いの感触がありありと思い出される。あの時佐助は彼女の心の中にいる誰かの存在を吸い取ってしまいたいと考えていた。しかし今、灰桜に唇を重ねられた彼は反対に何かを押し込められた感覚に嫌悪を抱く。くのいちを振り払い大きく一歩退く。薫と異なる唇の感触にぞわりと肌が粟立った。女が蠱惑的に笑み舌を出す。その中心に小さな虫がいるとわかった瞬間、佐助の気道にずきりと痛みが走った。苦しさに息が止まりそうになる。四肢の力が抜けた彼は立っていられず木から滑り落ちた。

「この子が体内に侵入ったらもうおしまい、ほどなく心の臓が食い破られますわ」

虫を飲まされた。気管に貼り付く存在は咳き込んでも吐き出せない。目では見えない中を侵食されることに佐助は戦慄する。しかし口の端から零れる血をぐいと手で拭い起き上がる。

「心配無用!!
我、万全!!」

声が嗄れ、喉の辺りに痛みが走る。離れた位置では蟻に脚を喰われ十蔵が呻いた。灰桜の足元から生まれ続ける蟷螂が金切り声を上げて二人に襲い掛かる。身体をふらつかせる佐助達を鋭い鎌が抉った。鮮血が迸る。なす術も無く地面に身体を打ち付ける佐助と十蔵。彼らを見ているしか出来ない伊佐那海が涙を流した。

「も…もうイヤっ…ふたりとも死んじゃうよう…」
「問題ない!!」

しかし二人は全身の力を振り絞り再び立ち上がろうとする。必ず助ける。そして、三人を探しているだろう薫を迎えに行くと佐助は心に誓いを立てた。恐らく機嫌を損ねているし、何事もなかったかのように振舞っても聡い彼女は敵襲を受けたとわかってしまうかもしれない。それでも、最後には笑ってくれると信じて。苦無を構えて地を蹴る。姿勢を低くして前線の蟷螂へ飛び掛かる───甲賀転身術、鎌鼬。全身を大きく旋回させ苦無で敵を薙ぎ払う。胴体を斬り裂かれた蟷螂が動きを止めた。しかし、その弾みで気道の中の虫が体内奥深くに入り込む。

「ぐ…ぐはっ!!」

激痛により佐助は攻撃を畳み掛けられなくなる。膝の力が抜けたところを巨大な蜘蛛が狙っていた。長く鋭い脚が装束を貫き、脇腹を掠める。十蔵が駆け寄り大蜘蛛の懐に潜り込んだ。素早い連射で腹に穴を空ける。硝煙が立ち込める中、耳障りな声を上げる化物の息の根を止める。

「おとなしく死んでおれ!!」

ゆっくりと煙が晴れたそこには密度の濃い雲が浮かんでいた。十蔵がぎくりとした時にはもう遅く、無数の虫の雨が降り注ぐ。全身虫礫となった彼は地に伏せもんどり打った。
二人とも立ち上がる力が残っていない。灰桜の余りに惨いいたぶり方に、圧倒的な強さ。伊佐那海の胸は引き裂かれたように痛む。捕らわれた状態の自分を救い出すために戦う彼らが死ぬことなど望んでいない。もう放っておいてと彼女は声の限りに叫んだ。

「逃げてっ!!」
「あらあら、とんだお姫様ですわね。
殿方に自ら醜態をさらせと申されますの?」

それを許そうとしない灰桜に涙が出る。二人が傷付いたのは自分のせいだと己を責める伊佐那海。自分が弱くて皆のように戦えないからだと悔やむ。こんな時───薫ならどうする。彼女の大丈夫だという力強い笑みに伊佐那海は今まで救われてきた。しかしこれでも、皆を信じて、大丈夫だって、本当に言い切れる?

───力が欲しい?

しゃくり上げる伊佐那海の頭に落ち着いた声が響いた。彼女の中にいる何かがゆっくりと近付いて来る。抗い難い誘惑。強い力が、圧倒する力が、欲しい。伊佐那海が手を伸ばせば相対する存在に腕を引っ張られた。甘やかな言葉が彼女を操ろうとする。

───ならば、そのかんざしを打ち捨てなさい

ぐ、と両手に力を込める。蜘蛛の糸を強引に剥がし腕の自由を奪い返す。その手で伊佐那海は髪に差した簪を引き抜いた。迷いのない動作に佐助と十蔵が息を呑む。彼女からこの世を守っているという奇魂が、離れる。二人の制止を聞くことなく、伊佐那海が簪を空に放り投げた。

「───欲しい」

───さすれば、得られるでしょう

「力が!!」

( 20120921 )

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